さよなら、金魚すくい
屋台の並ぶ参道まで来れば、黒衣の人間達は姿を消し、先程までの賑わいが嘘のように静まり返っていた。ただ、提灯の赤い明かりだけが、今まで通り祭り屋台を煌びやかに照らしている。しかし、そのテキ屋たちはと言えば、まるで通夜のように暗い顔で俯いていた。
「トウヤ!」
黒衣が消えた参道で、声の主を見付けるのは容易い。その鈴のような声は、イチノセヒロコのものだった。改めて目にすると、彼女は華奢で小さい。
「何があったの?奥の…拝殿の方から、幾度か赤ん坊のような泣き声がしたの…。それから、先程の放送…、まるで、まるであれは……っ、それに貴方、その体……。」
「これは…、ううん。君が心配するような事は何も無いさ。僕が僕であろうと、元に戻ろうとしているだけなんだ。」
彼女の繊細な指が、僕のスーツを撫でた。キツネ面が僕を見上げる。暫しの沈黙の後、彼女は頭を傾けて、僕の胸にそれを預けた。
「…また、私…、貴方を待てば良いの?」
「…。……ごめん。」
「ううん。…良いの。待つのは、慣れているもの。」
「……、…ヒロコさんは、どっちから来たの?」
「え?どっち、って…?私、あの階段を上って来たのよ。他にも道があるの?」
今、自分の置かれている状況、どうしてここへやって来たかを知った自分には、赤獅子の言っていた二つの道がある事がよく分かる。彼女は僕と同じ道からやって来た。そして恐らく、ミカゲと赤獅子は、違う道からやって来たのだろう。
「そうか…。うん。どうやらもう一つ、道があるようなんだ。…ヒロコさんが、どうしてここに来たかは分からないけれど…、君ならまだ帰る事が出来る。階段を下りれば、きっと君の帰る場所があるよ。早くお帰り。此処は、時期に無くなる。」
「…嫌。帰らないわ。」
「…どうして、」
「このお祭りが始まった事に理由があるのなら、私が此処に来た事だって理由がある筈なの。…その理由、私には分かる気がするわ。…私の事、まだ思い出せない?」
彼女の事は、遺書には書かれていなかった。どちらにしろ、記憶を取り戻した今でさえ彼女の記憶はおぼろげで、小学生の時に同じクラスであった事しか思い出せていない。僕がそのような事を考えて黙り込んでいれば、彼女は”彼女自身の考える、思い出して欲しい事”を僕が思い出せていないのだと察し、僕から離れた。
「……そう。私の気持ちの一方通行だったみたい。」
心まで離れて行くのが分かって、必死に食い止めたかった。しかし、僕は彼女に関する重大な記憶を持ち合わせていない。彼女に伸ばそうとした手は空を掴み、そっと僕の元へ戻ってくる。
「…貴方って、馬鹿。」
「えっ。」
「それに意気地無しだわ。貴方はこれで終わって良いの?私は嫌よ。ここに理由があって訪れたのなら、何もしないでただ引き返すなんて嫌。私も貴方を待つわ。ウミカゲくんだって、貴方の事まだ待っているんでしょう?」
それは、僕と彼の帰る道が一緒だから。そう説得しようとする口を、彼女の細い指が塞いだ。
「…黙って待たせて。この世界が崩壊する前には帰るわ。…ウミカゲくんは、どこ?」
その言葉に、彼女の強い意志を感じる。僕はこれ以上帰れとは言えず、神社の拝殿の方を指差した。
「…拝殿ね。私も、そこで待つから。どんなに格好悪い貴方でも良い、戻って来て。」
キツネ面の鼻が、僕の頬に当たる。それが彼女なりのキスなのだと思えば、僕は顔が真っ赤になってしまった。漆黒の髪が靡いて僕の横を通り過ぎて行く。僕も、前へ進まねばならない。真っ直ぐに、まずは金魚すくいの屋台へ向かった。
「…思い出したのね。」
屋台前まで来ると、金魚すくいの屋台の青年がそう呟いた。金の瞳は水面の揺らぎを映して、宝石のように美しい。
「…はい。…だからと言って、救える人間になったかは、分からないけれど。」
「それで十分じゃあないかしら。力量と許容を把握出来る事は、大きな進歩よ。」
青年はそう話しながら、玉虫色の半透明の帯を取り出した。その端を水槽に浸すと、金魚はそれに群がり、そのまま帯の絵柄となって帯の中を泳ぎ出す。それを確認すると、もう一方の端を、天に向けた。
「何を、しているのですか。」
「運命から、逃がしてあげるの。」
半透明の帯は、すぐに夜空に溶け込む。金魚たちはそれを昇っていき、やがて溶け込んだ帯の端から、夜空の大海原へと泳いで行った。
「金魚は海水では泳げないのでは?」
「あら、夜空は夜空よ。」
そう言って笑い合う。少しだけ青年が、可愛らしく見えた。
「…貴方は、僕の女々しい気持ちだ。肝心な所で勇気が出ない。謝らなくてはいけない事が、口に出せない。…でも、貴方は僕の優しさでもあった。それに随分救われた人もいたようだった。」
青年が、僕に近付こうと黒いハイヒールを水槽に浸す。
「…帰っても、良い?」
「…うん。許してあげる。」
細い腕が、そっと僕を抱きしめた。僕も、そっと抱きしめ返す。情けないくらい切ない感情が、湧きあがる。それでも強く抱きしめ続ければ、彼は姿を消し、屋台もいつの間にか畳まれていた。そして、今まで屋台があったそこに黒猫が座って、じっと此方を見つめている。
「…助けてあげられなかった。ごめんな。…ごめんな。」
屈みこむと、にゃあ、と小さな鳴き声を上げて、黒猫が擦り寄って来た。それを優しく抱き上げて、撫でてやる。
「名前を付けてあげたいと、思っていたんだ。お前に、素敵な名前を。」
ごろごろと心地良さそうに喉を鳴らす黒猫が愛しくて、唇が震えた。涙が溢れてくる。それでもどうにか、口にしなくては。
「…ヨル。君の黒は美しい。金の瞳は優しい月明かりのようだ。」
喉を鳴らすごろごろという音が、静かな息遣いが、聞こえなくなってくる。抱き上げた愛しいものの体温が、失われていく。
「…僕を、許してくれるかい?君は、また僕を友達と、思ってくれるだろうか。」
黒猫はとうとう冷たく硬くなって、濁った瞳に目蓋を被せた。それを優しく土の上に置くと、その死体が急に年月が経ったように干からびていき、やがて骨になり、骨も砂のように細かく砕けて、土に消えて行く。そこに、ぽつん、ぽつんと、僕の涙が雨のように滴り落ちた。
「…さよならを、しに来てくれたんだね。…ありがとう。大好きだよ、ヨル。」
僕はゆっくりと立ち上がって、涙を拭う。彼の、ヨルのおかげで、僕は少しだけ優しくなれた気がした。