遺書
今日は、雨が降っていたんだ。人も冷たければ、当然雨も冷たかった。地下鉄は銀河の旅へは連れて行ってくれない。髪から頬に伝わった雨水が、丁度泣いているようだったので、僕は今日に決めたんだ。
僕は、過去に3つの大きな罪を犯した。1つ目は父へ、2つ目は初めての友達へ、そして3つ目は、最後の親友へ。これから僕は、この薄っぺらな紙に懺悔を書き散らす。彼らに許しを請う。彼らに許して貰わなければ、僕は死ねないのだから。そうだ、僕は死ぬ前に、赤裸々に過去の罪を曝け出すのだ。
僕の1つ目の罪。父への罪だ。父は僕が物心ついた頃には重い病気を患っており、まだ小さかった僕と父が出会えるのは消毒臭くて真っ白で、面白げのない病院の中だけだった。それでも彼は、僕の前では元気な父でいようと努めた。
父は会いに行くといつも笑顔で僕を迎えてくれた。いつものように、定期的に病院に通っていたとある日、父から変てこなロボットを貰った。それはどう見ても戦闘用ロボットだというのに、その鈍色の体には着せ替え人形が着ているような白衣を羽織っていた。
「彼はお父さんのお気に入りの玩具でもあって、それから親友なんだ。キジコ、っていうんだよ。彼、お父さんがお家に帰れるその日まで、お父さんの代わりにトウヤと一緒にいてくれるって。だから、お父さんと思って、大切に持っていてね。」
父はそう言ったように思う。僕はいつも父が傍にいてくれるようで嬉しくて、キジコを毎日のように持ち歩いた。
父の元へそれを連れて行くと、父はそれを”ドクターキジコ”と呼んだ。そうしてよくキジコを胸に宛がっては、「異常無し!お父さん、元気です。」と笑って見せた。だから僕は本当にキジコをお医者様だと思って、集めていた宝物の王冠(ビンの蓋である)一つとタコ糸と厚紙、それからセロテープで聴診器を作ってやった。そして今度は僕が、聴診器の王冠部分を父の胸に宛がって、「いじょうなし!パパ、げんきです!」と微笑んでやったのだ。
状況が一変したのは、まだ空気が湿って蒸し暑い、梅雨明けの頃だった。父は僕らが訪れると必ず体を起して迎えてくれていたが、寝ている時間が多くなり、遂には寝たきりになってしまった。延命措置の管が父の腕から伸びているのを見て、まるでロボットか人造人間みたいで気味悪く思った事を、よく覚えている。それでも父は、僕がキジコを胸の辺りに乗せてみると「異常無し。お父さん、今少し元気で無いけど、またきっと、元気になります」と、弱弱しく微笑んだ。僕はそれを信じた。何せ、幼かったものだから。しかしまた翌日父の元を訪れて、父の胸の上にキジコを乗せても、父は何も言わなかった。その代わり、「キジコ、トウヤにあげる。大切にね」とか細く掠れた声で囁いて、それからまもなくして息を引き取った。幼い僕がその死を簡単に許容できる訳も無く、僕は何かを恨みたくて、怒りたくて、壊したくて、近所の神社の拝殿裏で、キジコを壊した。拝殿裏は、脇の藪に足やら腕やら突っ込まないと入れないので、そうそう入ろうって人はいなかったのだ。元気になるって言ったじゃないか。元気になるって言ったじゃないか。何度もそう言って石で叩き割った。地面には、僕の流した涙と鈍色の残骸が広がる。キジコは玩具で、父の病気など治せない事、この破壊衝動に従った行為で僕の気が晴れない事、父が帰ってくる訳でも無い事、全て知っていて、知らないフリをした。僕は少しばかりひしゃげた王冠を拾って、家に持ち帰った。母さんはまだ遺品を整理していたと思う。僕が目を腫らして帰ってくると、優しく抱きしめてくれた。そして、僕に確か、こう言った。「あの玩具。ほら、ロボットの。お父さんから、大切にねって、言われたでしょう。お父さん、お空に行ってしまったけれど、きっと彼が、私達を繋げてくれるわ。お父さんの心は、彼の中で生きているから。私達も、強く生きましょう。」それから僕は、思い出したのだ。「お父さんと思って、大切に持っていてね。」僕は王冠をギュッと握りしめた。僕を慰める為の母の言葉が、僕を追い詰めて苦しめる。いいや、これは僕の罪だ。僕は父の心をも殺してしまった。それからは、ひしゃげた王冠が僕の罪の証だった。僕はまたそれを宝物入れの缶にしまって、考えた。これが罪なら、僕の償いは何だろう。これが僕の、一つ目の罪。
僕の2つ目の罪。初めての友達への罪だ。友達といっても、猫なのだけれど。僕はもう、あの頃から社会不適合者としての素質があったのかもしれない。小学校でもろくに友達は作れず、勉強もそうは出来ないのに運動はてんで駄目だった。僕は父の形見であり、父自身でもあったあの玩具を壊した神社に、独りぼっちの下校中度々訪れては、自分への罰について考えていた。そんなある日出会ったのが、彼である。拝殿裏に行く勇気は無くて、拝殿前の石畳の階段でいつも僕は膝を抱えて座っていた。その時、僕の足に黒くて柔らかい生き物がくっついてきた。最初はぎょっとしたけれど、それが黒猫と知ってほっとした。別に彼は人の言葉が解る訳でも無ければ、喋る事が出来る訳でもない。それでも彼と一緒にいると心地良くて、ああ、これを友達と呼ぶのでは無いのだろうか。なんて、勝手に思ったのだ。それが嬉しくて、僕は今日手に入れたばかりのライムソーダの王冠をポケットから取り出して、黒の油性ペンで彼を描いて見せた。「見てごらん、お前の王冠だよ。格好良いじゃないか。」なんて笑ってみる。そこでふと名前はあるのだろうかと疑問に思って、てきとうにクロだの、チビだの呼んでみたけれど、彼は一向に反応を見せない。だから僕は、彼に名前を付けてあげる事にしたのだ。けれども立派な名前を付けてあげたくて、帰って熟考しようと「明日また来るよ。」と言って、その日はまっすぐ家に帰った。悲劇が起こったのは、その翌日だった。登校中、神社の辺りが騒がしくて目をやると、同級生と思わしき数人の子供が、何かを追いかけまわしていたのだ。それに何だか嫌な予感がして、後をつけてみる。彼らは何かを追うままに拝殿裏へ走って行った。僕も脇道までは入ったけれど、足が震えて中々先へ進めない。その時、ふうう、しゃあ、と猫の威嚇する声が聞こえてきて、昨日僕を嬉しそうに見つめた金の瞳が脳裏を過った。足を前へ動かせばいい。わあっと大きな声で叫べばいい。何か行動を起こせば、今から起ころうとしている最悪の事態を止められるかもしれない。行け、行け。そう思っていたのに、突然聞こえてきた、ごっ、という鈍い音にあの日がフラッシュバックした。そして僕は何故か、今その拝殿裏で行われている事が、僕がしでかしている事のように感じた。途端恐怖がむくむくと膨れ上がって、僕は怖くてその場から逃げだした。忘れてしまおう、僕は神社には寄らなかった。そんな酷い事を考えて、自分を慰め学校に着いてみても、やっぱり事実は無くならなかった。「神社にさ、気味の悪い黒猫がいたから、石投げてやったのさ。」自慢げに話す同級生達。子供故の残酷さ。呼吸もままならなくなる程、嗚咽しながら痛感した。そして僕はこの時思ったのだ。自分は2つも命を奪った。奪ったと言って大差無いのだ。僕は愛されて良い人間では無い。これが僕への罰だろうか。どうであれ、僕はもう、この涙を最後に二度と泣かない。僕はなんて女々しいのだろう。泣く事は自分を慰める行為だ。結局自分が可愛いのだ。ポケットの中の、黒猫の王冠を握りしめた。これが僕の、2つ目の罪。
僕の3つ目の罪。最後の親友への罪だ。僕はあの日から何一つ変わらない毎日を過ごして、とうとう小学6年生になった。友達はいないけれど、目立ったいじめも無い。まるで僕は、存在するけれどいてもいなくても差し支えの無い、透明人間のようなものになった気分だった。そんな日々をまた、一変させるものがやってきた。転校生、ヨシカゲヤシロ。後々知る事となったのだが、彼は持病があり、療養の為都会から田舎へ越して来たそうだ。そうは見えない程明るい笑顔に、元気な僕の方がよっぽど病人に見えた。自己紹介をおざなりに聞いて、どうせ関わることも無いだろうと思っていた最中、隣の席となったからか彼は僕に話しかけてきたのだ。僕の名札を見て、僕の名前を呼ぶ。それなら、僕も呼び返さねばなるまい。しかし僕は彼の名前の読みなんか聞いておらず、名札に書かれた“美影”という字を見て「此方こそ宜しく、ミカゲくん」と応えてしまった。すると彼は、その読み間違いに笑いだした。間違えた事を謝ろうとすると、あろうことか彼は「トウヤくんは、ミカゲって呼んでよ。特別で良いじゃない。」なんてにっこり笑ってみせた。ここで、僕と彼は少なからず繋がりが出来てしまったのだ。
しかし彼は転校生という事もあり、彼が学校に来て暫くは彼の周りを沢山の人が囲み、僕らが話す余地など無かった。彼も、僕なんて興味を示すものでも無く、特別関わろうとはしなかった。そんなある日の、体育の授業でマラソンをした時の事。僕は足がとびきり遅い。皆とは物凄く距離がある。それはいつもの事だ。いつもと違うのは、僕の隣をぜえはあと辛そうに、ミカゲが走っている事。本当に苦しそうだったもので、僕は彼の背中を撫でてやった。そうすると少しばかり呼吸が落ち着いたもので、言えた口では無いが「自分のペースで走ったら良いよ。」と声を掛けてやった。彼が僕にべったりになったのは、その時からである。彼に走るペースを合わせてあげたのだと思われたのかもしれない。彼は僕をトウヤと名前で呼び、やたらと話しかけてくるようになった。周りの人も、転校生という肩書きが外れかけた頃だったからか、その日を境にミカゲの周りには集まって来なくなった。僕らは二人きりになった。それが僕は、煩わしかったのだ。
僕はそれからだって、ずっと自分の罪と、それによる罰について考えてきた。そんな暗く重苦しい、いつまで続くかも解らない日々に耐えられる筈も無く、とうとうそれが爆ぜる日が来たのだ。僕はふと、死のうと思ったのだ。その決意は至極簡単なものだったように思う。子供とはそうなのだ。病気や傷がステータスになりうる。僕は命について、少なからず軽率に考えていた節もある。赤子の死にたがりは不幸だ。子供の死にたがりは愚かだ。大人の死にたがりは、幸福だ。決行は放課後。今日は着いて来ないで、と言ったものの、やっぱりミカゲは着いて来た。その頃には、彼の髪はほぼ白だったように思う。コンプレックスに思っていたようだったので、「僕は白が好き。何にでも染まる純粋な色だ。」と言ったら余計懐かれてしまった。ミカゲを満足させてさっさと帰らせる為に、駄菓子屋に寄って一緒にサイダーを飲む。いつもの癖でビンの蓋である王冠をポケットにしまうと、それを見ていたミカゲは僕に自分の分の蓋もくれた。「ありがとう」なんて笑うと、彼はとても嬉しそうに笑い返すのだ。彼がそれ程に僕を好きだったので、僕は少しばかり、優越感というものを抱いていたのかもしれない。それから僕はもう一度、「ここからは着いて来ないで。」と言った。すると彼は捨てられた小犬のように悲しそうな顔をして、「手紙は見てくれた?」と聞いてくる。あまりに脈略の無い返しに、僕はあの時、きっとぽかんと口を開けて、間抜けな顔をしていただろう。「見ていないけど。どこに置いたの?」そう聞くと、「トウヤの家のポスト。」と返す。もう見る事は出来ないだろう。そう思いながら、「なら、帰ったら見るよ。」そう嘘をついて歩き出した。すると、彼は後ろをついてくる。もう、好きにしろと思ったのだ。「僕、今夜のお祭り、一緒に行こうって書いたんだ。」そう後ろから聞こえた声に、僕は「そう、」と小さく返した。苛立ちが滲み出ていたのか、彼は「行こうね。」と怯えたように小さく言ったきり、それからずっと僕に話しかけては来なかった。
僕の住む街は海に近い。そうだ、あの時も確か、夏というには湿っぽすぎる風が吹いていた。それでも海は、どこまでも、すがすがしいくらいに青色だった。いっぱいに青いビーズを散りばめたような美しさに、つい今から僕は死ぬのだという事を忘れてしまいそうだった。今は人気のない桟橋にこっそり乗って、先端までゆっくり歩く。ギイギイと軋んで海の上で揺れる音が、今から起こる事への信憑性を高めていった。「海、綺麗だね。」彼のその声が震えていたのは、多分僕が今からしようという事が何か、察せたからだろう。それでもきっと、信じたくなかったんだろうな。僕は返事をせず、海に飛び降りた。
目覚めたら、真っ白い部屋の、真っ白いベッドの上だった。暫く目をぱちぱちしていたら、母の泣く声が隣から聞こえてきた。僕は、なんとなくあの日の父を思い出しながら、窓の外を見た。助かったのか。人ごとのように思う。しかし、母から告げられた言葉に、僕は小説なんかでよく聞く、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。「トウヤ、落ち着いて聞いてね。今日一緒に遊んでいた、ヨシカゲヤシロくんね、助からなかったみたいなの。」どうして。どうして彼が。母にそう問い詰める僕の言葉は、一緒に海辺で遊んでいたのに、どうしてミカゲは助からなかったの、と取れるだろう。しかし、僕からしたらその問いは、海に落ちたのは僕だけの筈なのに、どうしてミカゲが死んだの、という意味だった。母から見た僕は、とても可哀想な生き物だったろう。抱きしめる母の温もりに、意識が遠のくその直前に、触れた誰かの温もりを思い出して、全てを悟ったのだ。僕は卑怯な人間で、それを明かせなかった。ミカゲの両親に責められる事も無かった。それどころか、「トウヤくんだけでも助かって、良かった。」「これからも、ヤシロとお友達でいてあげてね。」と優しい言葉をかけてくれて、僕はとうとう死んでしまいたかった。あの日着ていた服の中には、王冠が二つ入っていた。罪と共に、王冠が蓄積されていく。これが僕の罪の形だ。僕に生きろと言うのだ。涙は出なかった。これが僕の、3つ目の罪。
全ての罪が僕を生きるという事に縛り付け、それが反って僕に死を望ませた。
そして今日、漸く僕は生きる事への罪を得る事が出来たのだ。僕はやっぱり、社会不適合者だったのだ。世渡りが下手くそと、人は言うのだろう。間違いを間違いと言う事は、必ずしも正しい判断では無い事。この世は歪曲している。その一つでも正せば、全てに影響を及ぼす。だから、誰もこの歪みには触れないのだ。暗黙の了解だ。社会不適合者には、それが出来ないのだ。この涙は故意ではない。だからもう、死なせてくれ。許してくれ、父よ、親友たちよ。僕はこれまで片時も貴方がたを忘れた事は無い。こんな短い一生も、少しの償いになればと願う。