前へ次へ
10/24

神さま

拝殿は思った以上に大きく、まるで生きているように僕らを見下ろしていた。脇に茂る藪も、僕らの身長を越えている。この先はどうなっているのか、なんてよく考えたものだ。地球の輪郭に沿う程先まで広がる花畑。あるいは異国の街。あるいは図鑑に載っていない、奇妙な生き物たちがひっそりと暮らしている。まあ、どうせ小さな葉の隙間から覗けば、小さく囲われた野菜畑が広がっていたのだ。老婆がパイプ椅子に深く腰掛けて、ラジオを聞いている。小鳥がさえずって、野良猫が老婆の用意した飯を食べてその場に寝そべる。それでも僕には、それが異世界に見えた。僕らの住む世界とは、違うように感じた。たった一つの藪越しというのに。それ程大きな壁の先というのは、子供の想像力を膨らます、夢の世界だったのだ。

 う…うう……

拝殿が生ぬるい息を吐き出し、小さなうめき声を上げる。それに全身が粟立って、拝殿前で僕らは立ち竦んでしまった。しかしよく目を凝らすと、拝殿の中で大きな二つの光が動いている。もっとよく見ると、その下にはもっと大きな口があって、何か話していた。

 …て、……けて、………して、

大きい口の割に小さな声で、よく聞き取れない。すると、その大きな顔とは反して小さな、黒く細い腕が伸びて、僕らのいる外へ何か放った。

「…何だ……?」

からん、ころん、と音を立てて石畳の階段を転がって落ちてきたそれは、瓶の蓋…王冠のようだ。

「ゴミだ。」

ウミカゲは何の気無しにそう言うと、転げ落ちた四つの王冠を拾い上げる。そして、手のひらの上で広げて僕に見せた。


『お父さんと思って、大切に持っていてね。』

『見てごらん。お前の王冠だよ。』

『…海、綺麗だね。』


一瞬にして、沢山の記憶が、沢山の言葉が、僕の脳裏を過っていく。どれも優しい声なのに、怖くて仕方が無かった。

「うわああ!」

思わず、ウミカゲの手のひらの上の王冠を叩き落とす。カシャン、と、王冠同士がぶつかり合う音がしたあと、また先程と同じ様に地面に散らばった。

「許して…許してくれよ!どうして着いてくるんだ!」

「ど、どうしたのっ、トウヤ!しっかりして。落ち着いてよっ。」

自分でも、自分で何を言っているのか分からない。この感覚は、金魚すくいの屋台の前で、黒猫を見た時と酷似している。

 …っぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ!

 ぎし、ぎし、がたがたがた…

拝殿の中の生き物も、僕の心のように騒ぎ出した。拝殿ががたがたと揺れて、恐怖を煽られる。僕は、追い詰められている。ある筈だけれど無い、何かの記憶に。僕は、責められている。この、王冠に。

「止めてくれ……許してくれよ…っ!許してくれ、許してくれ…!」

記憶に無い罪に対して、謝り続けた。何に謝っているのかも分からない。誰に謝っているのかも分からない。ただただ、口が動くままに謝り続ける。

 おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ!

 ごう、ごう、ごう、がたがたがた!

「うわああああ!!許して!!許して!!!許して!!!!」


「許してあげる!!」


そう、ウミカゲが叫んだ途端、拝殿の中の生き物はまるで事切れたように静まった。僕の体を、冷たい体が包み込む。

「他の誰が、君を許さなくとも…、僕が、君を許してあげる…。君の全部を、許してあげる。」

体が離れて、冷たい手のひらが僕の頬を包み込んだ。冷たい指が、頬を撫でる。その時、僕の頬を濡らすものが、一つ、また一つと僕の目から零れ落ちた。

「ごめ…なさ……、僕……」

「良いよ。大丈夫だよ。」

ウミカゲに許してもらった所で、どうにもならない事は分かっていた。しかし、今はその小さな存在が、海のように大きく感じたのだ。

 ごう、ごう、ごう、がたがたがた、ばき、ばき

再び訪れた静寂はそう長く無く、拝殿の軋む音が響いて、そちらへ目を向ける。すると、拝殿の中の生き物の顔が、すぐそこまで近付いていた。生き物を閉じ込めていた格子状の扉は、まるで発泡スチロウルか、ダンボウルのようにひしゃげて隅に蹲っている。

「ひぃ…!」

黒い生き物は、まるで太ったオオサンショウウオのような形をしていて、しかしそれと呼ぶには体がとてつもなく大きすぎた。口を開ければ、僕も彼も、まとめて一呑みに出来そうな程である。僕らの顔程ある丸い瞳が小刻みに震えていて、まるで泣きだしそうに見えた。

「…貴方、神さまなの?」

僕の言葉に、ほんの一瞬、全てのものの動きが止まる。木々のざわめきも、祭りの賑わいも、僕らの息遣いも。ほんの一瞬だけ、聞こえなくなった。そしてその次の瞬間には、神さまが大きく口を開いて、僕らを呑み込もうとしていたのだ。

食べられる。そうなったら、もう僕はどこにも帰る事が出来ないのだろうか。

「トウヤ!ウミカゲ!」

突然、僕らの視界にセピア調の袴が飛び込んだ。

「キジコ…?」

ふわりと銀の髪を揺らして、青年が僕らの方へ振り向く。

「私も、許してあげル。」

その言葉を最後に、神さまは青年を丸呑みにした。震えているのが、僕なのか、ウミカゲなのか分からない。神さまは苦しそうに顔を歪めた後、小さな金属製の何かを吐き出した。それに目を向けて、よく見てみれば、それは白衣を羽織ったロボットのようだった。

「キジ、コ…?」


『お父さんと思って、大切に持っていてね。』

『元気になるって言ったじゃないか!元気になるって、言ったじゃないか!』


記憶が僕に囁きながら、頭の中へ帰ってくる。僕はウミカゲの頭を撫でて立ち上がると、自分の手が自然に届く、神さまの顔の、唇の辺りに触れた。

「ここは、僕の世界なんだね。全てが、僕で出来た世界。あまつさえ、僕の許せない僕の世界だ。」

瞳が揺らぐ。生温かい息が、僕の服を靡かせた。

「僕、死んでしまったんだよね。僕は最後まで、自分を許せなかった。だから、殺した。」

神さまが、くう、くう、と甘えるような声を出す。それに僕は、胸が締め付けられるような思いだった。

「神さま、貴方も僕なんでしょう。僕の中で、存在を許されなかった感情たちが、こうして神社で祭りを営んだ…。…なら、この祭りを終わらせる方法は、一つしかないじゃないか。」

拝殿に閉じ込められた感情は、もう抱き込めない程に肥大してしまっている。それでも、僕の両手が届く限り、めいっぱい神さまを抱きしめた。

「貴方はきっと…、僕の甘えたい気持ちとか、我が儘な感情なのでしょう。…でも、それが僕らしさでもあった。僕の自我…僕の全てだ。」

彼は、僕が涙を流すことを許されて、飛び出して来たのだ。泣く事は自分を慰める行為だ。結局自分が、可愛いのだ。

「お祭りは…、もう終わりです。…許してあげる。帰っておいで。」

僕の涙が、神さまの頬を伝う。僕はこの涙に、罪悪を感じない。今は、ウミカゲが許してくれるから。

神さまは一歩後退りすると、うめき声を上げてその場に蹲った。それはだんだんと小さく縮んでいき、遂には僕らと同じ大きさの球体になってしまう。しかしそれで落ち着いたと思えば、それはボコボコと泡立つように再び肥大していき、やがて背の部分が裂けると、中から弾けるように、人の上半身が飛び出した。

「…キジコ?」

慌てて二人で駆け寄って、その人物を確認する。その顔は少し幼げにも見えたが、確かにチョコバナナの屋台の青年、キジコだった。しかし、青年は首を横に振る。

「神さま、なの?」

僕の問いに、青年は頷いて微笑んだ。

「私は神さまの一部だった。キジコという名を借りて、外へ出た。そして今、その名を返し、神さまの体に帰った。それだけです。そして今度は、貴方の中へ帰る番。」

神さまが、その黒い繭を脱いで、僕の胸に手を当てる。

「仲直りの方法、知ってる?」

「仲直りのハグだ!」

そして、ウミカゲの答えに頷いて、腕を広げた。

「…怖くないの。」

「どうして?」

「さっき、赤獅子から、ヒトとダレカの話を聞いたんです。ヒトはダレカの一部だったけれど、それに気付くまで、ヒトは自分の人生を歩んでいた…。」

「怖くないよ。」

「……どうして?」

「私は君だからさ。」

「…分からないな。」

「それで良いさ。私は君だけれど、君は、君なのだから。…さあ、仲直りのハグをしよう。」

僕らはめいっぱいにお互いを抱きしめ合った。感情を、記憶を、鮮明に取り戻していくのが分かる。切ないくらいに胸が苦しくなって、自分への嫌悪が湧きあがった。それでも、許さなくてはならない。この祭りは、もう終わるのだ。僕は目を閉じて、心を落ち着かせた。

目を開けると神さまはいなくなっていて、その代わり、沢山の白い紙が落ちていた。拾ってよく見てみると、沢山の文字が書き殴られている。目を通せば、それが何なのかすぐに分かった。

「…これは……。」

「それ、何…?」

「…これは、…僕が、書いたんだ。」

賑わいの声が消えた祭りの方へ顔を向ける。視界に入った白衣を羽織ったロボットは、いつの間にか粉々に砕け、何年も月日が経ったように朽ち地面に散らばっていた。

『私も、許してあげル。』

その残骸を拾い上げる。これは、僕の仕出かした事。

「キジコ、ごめん。仲直りの、ハグをしよう。」

優しく抱きしめると、それらはもっと細かくなって、やがて砂のような小さな粒になっては、僕の指をすり抜けていく。やがて空っぽになった手のひらを見て、僕は本当に、さよならをしたんだと感じた。

「トウヤ…」

「…大丈夫。僕は大丈夫だよ、ウミカゲ。」

失う事が悲しみと直結している様子の彼は、当然僕を心配する。しかし僕は悲しいばかりでは無くて、優しく微笑むと白い紙を掻き集めた。

「…よし。それから、きっと…神さまが使っていた、放送器具がある筈なんだ。……あった。拝殿の中だ。」

大きなスピーカーのコードを辿れば、それは拝殿の中へ続いていた。僕は走っていくと、マイクの前に屈みこむ。

「何を…するの?」

「……、よし。コードも、切れていない。まだ使える。…今からこれを、読み上げるんだよ。…ここに、全てが書かれているんだ。僕の、全てが。」

ウミカゲは、不安そうに僕を見つめていた。怯えている。彼にとってこの祭りが全てなら、無理もない。ここには、祭りを終わらせる為の、僕が全てを思い出す為の、神さまの言葉が、綴られているのだから。

「……今日は、雨が降っていたんだ。」

前へ次へ目次