差し伸べるということ Ⅰ
×
「シャラララララララララララ……」
〝知性〟を得た瞬間のことを、彼は今でもよく覚えている。
今まで当然の様に受け入れ、〝そう〟だと思っていた世界が、どこまでも開けて見えた。
空が青い事に理由があり、花が咲く地と咲かない地がある事にも理由があった。
〝考える〟事ができるのは大きな武器であり、特権だ。
リザードマンは屈強で力強い戦士だ。その中でも、己の部族、赤い砂漠のシャラマ族は、何より勇敢で逞しいという自負がある。
なのに、鱗も火炎袋も持たない人間という種族に敗北を続け、恵み豊かな地を占領され、荒野に追いやられているのか。
その答えが〝知性〟だ。徒党を組む。役割分担をする。技術を取得する。作戦を立てる。全てを高度に、適切に、精密に行う〝知性〟を全員が持っている。
それが、人間という種族の持つ武器であり、強さなのだ。
その強さは今、彼にもある。
「さァて。準備はいいかィ」
…………。
おっと、そうだった。
同胞たちに、この言葉は通じないのだった。
だが、意図は通じる。意思も通じる。
故に。
「――――シャラララララララララァアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
彼が高らかに吼えると、同胞達が一斉にそれに倣った。
◆
「最後に、皆で竜骸を見に行こうよ、そこで解散、どうかな」
最悪の空気のまま、日が暮れる前に、馬車はレレントに到着した。
夕食には早いが、なにかするには遅い絶妙な時間帯。
街の中に入る順番待ちの列は、裏でギルクが門番に顔を見せると、こっそり別口のルートを使わせてくれた。貴族様万歳だ。
何となく誰も何も言い出せず、よもやこのまま散り散りになるのかと内心冷や汗を流していると、ギルクがそう言ってくれた。正直かなりありがたい。
「勝手に見に行って良いのか?」
どこにあるのかは知らんが、街のシンボルらしいから、観光名所として人がわらわらと群がっている様をイメージしていたのだが。
「この時間なら一般の見学は終わってるし、神殿には私が居れば顔パスで入れる。場所は街の真ん中、ニコ君なら三十分もかからないよ」
壁の出入り口から街に入ったのだから、中央ということは一番遠い場所にあるということだが、中の移動にも馬車を使うのか。
「私は賛成です、ギルクさんが居る内に行っちゃいましょうよ。後で見に行って待つのも嫌ですし」
「お前は少し歯に絹を着せろ」
「その……私も、見たいです」
クレセンも、今が好機とばかりに会話に加わってくる。
「折角ここまで来たので、是非」
となると、後はファイアだ。あれ以来、無言で俯いていたが、視線が集まれば、はっと顔を上げて。
「そう――――ですね、そうです。わたくしも、一度祈りを捧げに行かねば」
その笑顔は取り繕ったものだと流石にわかるが、それでも会話してくれるだけありがたい。
「うん、それじゃあ竜骸神殿まで行こう、ニコ君、この白い石畳の道を、まっすぐだ。いけるかい?」
『きゅい』
ラディントンからここまで旅路を共にした所為か、ニコは必要があればギルクの言うこともクレセンの言うこともよく聞く。聞かないのは俺の指示だけだ。
大通りは馬車がすれ違えるほど広く、歩道も別に整備されているので、ニコも走り辛いということはなさそうだ。流石に野外程速くは走れないが。
「この辺りは住宅街だね。まだ職人たちが仕事をしてる時間帯だから、そんなに人は多くないみたいだけど」
煉瓦作りの家々が、次々に後方に流れ去っていく。途中、すれ違う何人かは、荷台から顔を出すギルクの顔を見て、『あ、ギルクお嬢様』と気づいて手を振ってきた。
ラディントンでも可愛がられていたギルクだったが、レレントでも扱いは似たようなものらしい。
「ギルクさん、どこでも人気あるんですねえ」
「あはは……………………姉様が、ほら、昔からあれだからね。反動で……」
「…………ああ…………」
長女のクルルは、幼少期からあんなモンだったのか。
「あれ、でも確か、もう一人、お姉様がいるのではないですか?」
クレセンが指折り数えながら言った。クルルが長女で、ギルクが三女なので、確かに間にもう一人居るはずだ。
「ああ、アソラ姉様はファイクに嫁いだから」
ファイク領、地図では、レレントを更に北上して、ミアスピカを超えた先だ。
領地が隣接しているだけあって、その辺りの政略結婚があったのか。
「あ、違うんだ。政治的な意味合いもあったとは思うんだけど、アソラ姉様は、ファイクの次男に一目惚れしてね。ひたすら猛アタックを繰り返し続けて、向こうが折れたの」
「お前の所の姉妹はアグレッシブな奴しかいねえのか」
街一つを取り仕切る敏腕領主に、押しかけ貴族令嬢に、魔女未遂、そりゃあ父親も頭を抱えるだろう。
「したたかじゃ貴族なんてやってられないよ、何言ってるの」
「……………………あ、そうすか」
「それでも、私達はだいぶ好きにさせてもらってるんだけどね。兄様達には、そういう自由はあんまりなかったみたい。婚約者も決まってたし」
そんな会話を挟みながら、パカポコと蹄が石畳を打つ音と、カラカラと車輪が回る音を聞き続ける。
やがて、背の高い建物が少なくなっていき、ただでさえ広かった道が更に開けてきた。
「あ、見えてきた。あれだよ、竜骸神殿」
ギルクが指す先、道の奥に見えたのは――昔話の王様が被ってそうな王冠の形、とでも形容すべきシルエットだった。
灰色の無骨な石をひたすらに積み重ねて造られたドーム状の建物の周囲を、規則正しい感覚で建てられた石柱がぐるりと囲っている。目算だが、横幅だけで百メートル近くはありそうだ。周りの建物よりも明らかに古く、それでいて見劣りしない存在感は、確かに、他にはない荘厳な雰囲気がある。
「わぁ……」
俺から見ても若干の驚きがあるのだから、以前から知っていたであろうクレセンからすれば感動ものなんだろう。
「厳密に言うとね、レレントに竜骸があるんじゃなくて、竜骸を祀る神殿が合った場所に、レレントを造ったんだ。この神殿だけは、昔からずっとここにあったんだって」
そういえば、クレセンもそんな事を言っていた気がする。
やがて、神殿の前にたどり着くと、警備なのだろう、ガシャガシャと鎧がこすれる音を立てながら、槍を携えた騎士が近寄ってきた。
「申し訳ありませんが、今の時刻は竜骸神殿の立ち入りは禁じられています」
「そこをなんとか、お願いできないかな、イルニース」
早速、ギルクが幌の外に顔を出して交渉を始めた。どうやら顔見知りらしく、騎士の驚いた声が聞こえてきた。
「ギ、ギルクリム様!? いつレレントにお戻りに?」
「たった今だよ、知人と一緒でさ。どうしても竜骸を見せてあげたいんだ」
「いや、ですが、規則が……」
「頼むよイルニース、私と君の仲じゃないか」
「い、いや、しかしですね……」
「こんなにお願いしてるのに」
「今はその、間が悪いと言いますか……」
「うっ、八年前のことを急に思い出して口を滑らせてしまいそうだ……仕方ない、ハーロット司祭のところに懺悔にいこうかな」
「少々お待ちいただいてもよろしいですか!?」
上司に伺いを立てに行ったのか、ガシャガシャと足音が遠ざかっていく。指で丸を作っているので、多分大丈夫なんだろう。かなり悪辣な取引が行われた気がするが、まぁいいや。
「お友達なんですか?」
クレセンが尋ねると、うん、とギルクは笑顔で言った。
「幼馴染だよ。レレントの教会の、司祭様の息子なんだ」
幼少期からの付き合いは、そのまま握った弱みの数ということらしい。
「ちなみに、八年前何があったんです?」
これは完全に興味本位なリーンの質問で、ギルクはふふ、と指を立てて唇の前に当てた。
「それは、イルニースの見せる誠意次第だね」
結論から言うと、騎士は誠意を見せてくれた。
「ただし十分だけです! 十分で出てきてください! いいですね!?」
「了解、それじゃあ行こうか。イルニース、馬車を見ててくれる?」
「俺は神殿の警備なんですけどね……」
無事交渉が成立し、ギルク、クレセン、リーンと順番に降りて、俺も続こうとした所で、
「ハクラ様」
背中からファイアが声をかけてきた。……一応ローブを被っているとはいえ、こいつをここで降ろして正体がばれないものか。
「どうした? リーンの言動について謝罪を求めてるならそれは本当にごめん」
しまった、罪悪感に駆られて反射的に謝ってしまった。
「い、いえ、そうではなくて、その。一つ、伺いたいことがありまして」
「?」
「その、ええと……」
もじもじと言い淀み、視線をうろうろさせながら、時折こちらを何度か見て、うう、と顔を伏せる。
「……この話は、ここだけの秘密にしてくださいますか?」
「…………………………わかった、秘密にするからさっさと言え」
知るべきではない話を聞かされるのはごめんなのだが、ここで嫌だ断るというのも角が立ちそうだ。正直、少しでもファイアの機嫌をとっておきたい。
「ありがとうございます、あの、ですね」
言いながら、また両手を組んだ。これはもう祈りの仕草というより、単に癖になっているのだろう。
「わたくしのしたことは……間違いだったと、思いますか?」
「…………あん?」
「リーン様の言ったことを、考えていました。わたくしは、目の前で傷ついた人がいれば、救うのが当たり前だと、思っていました。でも、それは、間違っていたのでしょうか?」
「…………何で俺に聞くんだよ」
「ギルク様とクレセン様は、わたくしを慮ってくれそうなので」
つまり、俺は遠慮せずに物を言うと思われているわけだ。
「知らん」
そういうことなら丁度いい。ご機嫌取りは止めて、はっきり言わせてもらうことにした。
「………………え?」
想定していなかった答えだったのか、きょとんとするファイア。
「聖女サマの正しいか間違ってるかを判断できるほど、俺は偉くも賢くもねえよ、そんなことは知らん」
「えっ、あの、その……」
「ただ、リーンのあれは半分難癖だから、気にすんな」
実際の所、リーンが喧嘩を売った理由の半分以上は、本人の言葉通り、『自分のためではなく他人のため』というスタンスを口にするファイアが気に食わなかったのだろう。
同行している俺達のことを考えていなかっただろう、というのは多分後付けだし、ファイアの行動が自己中心的なものだとは俺は思わない。
「少なくともお前が助けなけりゃ、あの三人は死んでた。あいつらは感謝してるはずだろ」
「で、ですが……皆様に、ご迷惑を」
「それに」
自分の、傷のない頬を指して、なるべく軽く聞こえるように言った。
「俺も治してもらったしな。ありがとよ」
「…………………………」
ファイアの口が、小さく開いて、ぱくぱくと何か言おうとしたが、言葉にならず。
数秒間を置いてから……数時間ぶりに、柔らかい笑顔が戻ってきた。
「ありがとうございます、ハクラ様」
「何で俺が礼を言われてんだよ」
何より、実際にファイアのとばっちりを受けて俺達が襲われたわけでもないのだ。発生していない問題を責めるのも気に病むのもお門違いだろう。
「それより、十分だけって言われてんだ、さっさと行くぞ」
「は、はい。その、ハクラ様」
話題を切り上げようとした俺に、ファイアは小さな手を伸ばし、こう言った。
「……降りるのを、手伝っていただけますか?」
「…………はいはい」
手を引いて、荷台から降ろしてやる。恐ろしいほど軽かった。