救うということ Ⅲ
飛竜。
両腕は鋭い爪を有する翼、両足は太く、太く硬い爪が五指を閉じる度に獲物の肉を引き裂く。ぞろりと並んだ不揃いの牙も凶器だし、鱗は下手な金属より硬く、曲面で構成されている為、生半可な攻撃は滑って有効打にならない。
個体によってはブレスも吐くし、何より空を飛ぶのが厄介極まりない。
馬車から俺が飛び出すのと、ワイバーンが俺に気づいたのは、ほぼ同時だった。
『ギィッ! グギャウ!』
「ぐぅえっ」
ワイバーンは牽制するように、捕らえていた冒険者を勢いよく地面に叩きつけた。手鞠のように人間が跳ねて、俺に向かってくるそいつを、舌打ちをして受け止める。
「何やって――――やがるっ!」
『ギャ、ギャァッ、ギィィ!』
追撃を警戒したが、ワイバーンはくるりと身を翻し、坂の向こうへ消えていった。追いかけたい所だが……。
「おい、大丈夫か!」
声をかけてみたものの、内蔵にまで深々と食い込んだ爪痕から、だくだくと血が流れ続けていた。叩きつけられた衝撃で、骨が折れて肺に刺さったのかも知れない。呼吸はしているが、ひゅうー、ひゅうー、と抜けた音が聞こえる。
「あ、あっち…………」
見えているのか居ないのか、虚空を見つめながら、身体をガクガクと震わせ、それでも手を伸ばし、ワイバーンが消えた丘の向こうを指した。
「な、なかま、が、い、いる」
「っ」
「た、たすけ、たすけて……」
「――――後任せた!」
馬車から降りて来始めたリーン達を尻目に、俺は坂を駆け上がった。
「ハクラ! 前から来ます!」
背中からリーンの声、登り切ると同時に。
『シャラララララララ!』
――――槍による刺突が、放たれた。
坂の頂点で身を伏せていた、伏兵の攻撃だ。赤褐色の鱗に、簡素な革鎧に身を包んだリザードマン。誰かが登ってきた瞬間に仕留めようとしていたのだろう。
「――――舐めんなよ」
俺にはその軌道が見えていた。視認したわけではないが、わかっていた。
槍が頬をかすめ、肉を抉った。関係ない。直撃しなければ、死にはしない。
迷わず身体を押し込み、〝風碧〟を引き抜いて一閃。槍を放った姿勢、腕を伸ばしきったままで避けられるわけがない。
両肘の先を叩き斬り、返す刀で首を跳ね飛ばす。ぐらりと倒れる身体を蹴倒して、先へ進む。
「――――テメェら!」
坂を超えた先には、槍で腹を突かれ倒れている男と、その身体から武器を引き抜くもう一匹のリザードマン。そして今まさにワイバーンの尾に弾き飛ばされ、地面を転がる女が居た。装備を見る限り、冒険者だろう。
そして、二人に守られていたらしき、一回り小さい白いローブに身を包んだ子供だ。あろうことか、弾き飛ばされた女目掛けて、慌てて駆け寄ろうとしていた。
「馬鹿! 逃げろ!」
叫んで坂を降る間に、ワイバーンがその子供の胴体を、爪で鷲掴みにした。
「や、きゃああああああああああああっ!」
そのまま、翼を羽ばたかせ、上空へ飛んでゆく。あれ以上高度をあげられると、もう剣じゃあ届かない。弓か魔法がいる。
「っの野郎――!」
『シャララララァッ!』
だが、上だけに気を取られているわけにも行かない。槍を構えたリザードマンが、槍を俺に向け、迫ってくる。
「邪魔だ退け!」
〝風碧〟を抜き放つ。だが、リザードマンは魔物ながら良い手際だった。重心を前に寄せすぎず、こちらの間合いの外ギリギリを保って槍を振るう。
それでも、俺なら深く踏み込めば、恐らく仕留められる。だが恐らく、その間にワイバーンに追いつけなくなる。かといって背中を見せるのは危険だ。
どうする?
「ハクラ!」
リーンが叫んだ、坂の上だ。手にした杖で、カツンと道を叩く。薄い緑色の粒子が波紋となって広がっていく。
その瞬間、俺はすべきことを理解した。
背を向けて、躊躇なく駆け出す。
『シャラァッ!』
それを好機と見たのだろう。リザードマンも強く足を踏み出して、槍を思い切り扱きながら突き出してきた。
その先端が、俺を捉える寸前で。
『きゅいいいいいいいいいいいいいっ!』
風より早く、俺とすれ違う形で突っ込んできたニコが、その蹄で槍の尖端を踏み砕き、叩き割った。
『シャ――!?』
リザードマンの相手をニコに任せて、〝風碧〟を鞘に収めながら、坂を駆け上がる。ワイバーンの姿は、まだ見える。
坂の頂点、リーンの隣に辿り着くと同時に、跳躍。込められる限りの力を足に込めて、高く跳んだ。
だが、ワイバーンの高さには届かない。跳躍の勢いがどんどんと失われていき、大地に引っ張られる力と、体を持ち上げる力が釣り合って、一瞬だけ、空中で静止する。
『ギィ――――――』
獲物を捕らえたまま、ワイバーンはその口の端を――俺の勘違いでなければ、にたりと釣り上げた。無様にも、分不相応に空という領域に立ち入ろうとする不届き者を嘲笑うように。
「オイコラ」
俺は〝風碧〟の柄に手を添えながら。
「調子こいてんじゃねえぞクソトカゲ!」
空中を踏んで、再度跳躍した。
『ギ!?』
厳密に言うと、俺が足場にしたのは。
『うむ、良い角度だお嬢』
リーンが放り投げた、スライムだ。
俺とワイバーンの高さが釣り合った。柄に手をかける、抜き打ちの射程圏内。
「リーン!」
「はい! 大感謝してくださいね!」
「受け止めろ!」
「…………はい!?」
〝風碧〟を横に振り抜く。一番の懸念だった、刃がワイバーンの鱗に負けないかどうかというのは、完全に杞憂だった。
刀身が硬い鱗を断ち、肉をきつい手応えと共に切断する感触。
『ギィギャアアアアアアアアア!』
「ひ――――――」
少女を鷲掴みにしていた足を、付け根から斬り飛ばす。そこで時間切れだ、身体が自由落下を始める。
『よくやった小僧、合格点をくれてやる!』
着地点に先回りしたスライムが、大きく膨れ上がった。〝風碧〟を突き刺さないようにしながら飛び込むと、ぐにゃりとした感触に衝撃が吸収された。
身体が弾むこと無く、ただブルブルとしたモノに全身が包み込まれるというのは、味わったことがない感覚だった。
「……ありがたいけど気持ち悪いな」
『感謝の気持を微塵も感じぬぞ』
「ドーイタシマシテ」
「ちょっとはこっちを気にしてください!」
一方、リーンは俺が斬り落としたワイバーンの足……から落下した少女を両手で受け止めて、そのまま後ろにすっ転び、べたんと尻餅をついている所だった。
「危うく潰される所でした! ちょっと、大丈夫ですか! もーしーもーしー!」
文句を言いながら、リーンが腕の中にいる少女の顔をぺちぺちと叩く。
「ワイバーンに掴まれてたんだろ、大丈夫か?」
身を起こしながら近寄ると、少女はうう、とうめき声を上げたが、少なくとも掴まれていた腹の辺りには外傷らしきものは見当たらなかった。身体が小さすぎて、ガッチリと固定されたのが逆に良かったのかも知れない――あの冒険者のように、爪が肉に喰い込んではいないようだった。
「わたくしは――」
『ギィィィ――――!』
詳しく様子を見たい所だが、まだ戦いは終わっていない。片足を失い、空からぼたぼたと血をばらまいてはいるが、生きている。
両翼が残っているから飛行能力も健在だ。本当は首を落としたかったが、殺してしまうと少女と、ついでに真下に居るリーンが死体の下敷きになってしまうので諦めたのだ。
「来るなら来いよクソトカゲ、次は手加減しねぇぞ」
言葉が通じなくても、殺気は十分伝わるだろう。数秒間睨み合った後。
『ギィア! ギィ! ギァ!』
空に向かって、短い鳴き声を数回上げた。
「あ、逃げますよハクラ!」
それが逃亡の合図であることが、魔物の言葉を解するリーンにはわかった様だ。
『ギャァウ!』
一度低空飛行すると、なんと、ニコが相手をしていたリザードマンが、ワイバーンの残った片足目掛けて飛びついた。片手に掴んでいるのは、冒険者のバックパックか。空いたもう片方の手で、ワイバーンの爪に上手く捕まって、そのまま一気に上空へ登っていく。
こうなったらもう手出しは出来ない。どっちにしても深追いするつもりはなかったが……。
「っ、ちょっと! 来てください!」
戦闘の余韻が消えない内に、クレセンの悲鳴が響いた。
「ちっ……リーン! お前は向こうの冒険者を見てやってくれ! 一人は腹を貫かれてた!」
「りょ、了解です、そっちは…………」
「…………多分、もう手遅れだ」
クレセンが助けを求めたのも、恐らくはそれが理由だろう。
坂を下ると、馬車から降りたクレセンとギルクが、なんとか血を止めようと、布を腹の傷口に押し当てている所だった。
「ハ、ハクラ、さんっ」
思えばこの時、俺は初めてクレセンに名前をまともに呼ばれた気がする。
「血が、止まらないんです、このままじゃ、このままじゃ……」
どちらが怪我人かわからないぐらい、血の気の引ききった青白い顔。修道服の袖を真っ赤に染めて、それでも目の前にある命の火が、みるみる小さくなっていく。
なまじ、冒険者であることが、この男の不幸だったかも知れない。普通の人間なら、とっくに死ねていた。下手に頑丈だから、致命傷のまま息がある。
ちらりとギルクを見る。目を伏せたまま、静かに首を横に振った。
それを確認して、俺は鞘から〝風碧〟を引き抜いた。
「っ、な、何を…………!」
慌てるクレセンの隣に膝をついて、俺はその冒険者の少年に聞いた。
「楽になりたいか」
少年はパクパクと口を開いて音のない声を発し、ガクガク震えながら……頷いた。
「…………悪いな、間に合わなくて」
首に刃を押し当てて、切断する――それで、もう苦しまずに済む。
介錯は初めてではないが、かと言って慣れるものでもない。それでも、自らが死にかけながらも、仲間の安否を気遣った若い冒険者を苦しませるのは、あまりに酷だ。
「や、やめ――――」
クレセンの静止を振り切って、刃を――――。
「おまちください」
「あ?」
いつの間にか俺の隣に、ワイバーンに捕まっていた、あの少女が立っていた。背伸びをして、両手で俺の手に触れている。大した力ではないので、振りほどこうと思えば振りほどけるのだが。
「わたくしに、お任せください。どうか、刃をお下げください」
川のせせらぎのようなか細い声、だが、どこかで聞いたことがある気がする。
俺の返答を待たず、少女は、長いローブの袖から人差し指を出すと、俺の〝風碧〟の刃に、ぐいと押し付けた。
「お前、何やってんだ!?」
ぷつりと皮膚を断つ感触、だらりと血が溢れる。小さな傷だが、その出血の量からすると、肉を深く切っている筈だ。そんな己の傷に厭うことなく、そのまま指を少年にかざす。
「〝私があなたを救いましょう。いずれあなたが救うべき誰かのために〟」
言葉と共に、ぽたりぽたりと、傷口に血の雫をこぼして行く。
「〝祈りを聞き届けましょう、その尊い想いを無駄にしないように〟」
次の瞬間。
「〝全ての傷を、癒やしましょう〟」
濃い蒼色をした光の粒子が、血と傷口の接触面から勢いよく放たれた。
リーンが杖を振るった時に出る緑色の光とよく似ているが、量が桁違いだった。光はやがて少年の体全体を包み込み、更に蒼色を強くする。
「おい、嘘だろ!?」
光の勢いが強くなると同時に、致命傷だったはずの傷が、みるみる塞がっていく。真っ白だった皮膚に赤みが戻り、ショックからくる震えまでもが収まっていく。
俺はこの現象を見たことがある。クローベルだ。
「っ」
不意に、頬がじくりと熱をもった。先程、リザードマンの槍がかすめた所だ。
指で軽く触れると、もう何の痛みもなかった、血が止まっている所か、傷痕すら、感触では確認できない。
ニコの親、ユニコーンが命と引換えに見せた奇跡、あらゆる傷と病を癒す、治癒の光。
「かっ、は、はぁっ! ぁ――――つ、冷たい…………!?」
言葉を発することが出来なかったはずの口から、そんな呟きが出てくる頃には、もう怪我は完全に治癒していた。ゆっくりと身を起こし、自分自身も信じられない、と言った表情で、自分の体を見下ろす冒険者の少年が、そこに居た。
「何が、どうなって……?」
何がどうなっているのかなんぞ、こちらが聞きたいぐらいだ。
治療を終えた少女は、静かに微笑み立ち上がると、てとてとと俺に近づいて、その手を伸ばしてきた。
傷があった頬を、ついとなぞって。
「よかった、あなたも、ご無事で」
そう呟いた。俺の頬に伸びてきた、刃を押し当てたはずの指の血も、もう止まっていた。