暮らすということ Ⅲ
☆
時折息苦しそうにしているけれど、命に別条はない。死んでいく人間を何度も見てきたから、わかる。
この馬車は、本当に良い馬車だ。振動は怪我人にとって大きな負担だけれど、それも最低限に抑えてくれている。
傷口をぬるま湯で拭って、包帯を取り替える。その作業を繰り返しながら、私は考える。
この行為に、意味はあるんだろうか。
この行為に、価値はあるんだろうか。
「…………みんな……」
虚空に手を伸ばす。意識がなくても、なにか追い求める物があれば、人はそうしてしまう。私にはわかる。
「助ける……から……」
その言葉を最後に、ふっと力を失って、腕が荷台の床を打った。
私にはわからない。
私には…………わからない。
◆
逃げると決めた後の逃走速度たるや。筋肉の質やバネがそもそも人間と違うのだろう、飛び退いて地を這うように動かれたら、この茶色と赤が支配する荒野に、あの鱗はよく馴染む、あっという間に見失ってしまった。
「あだだだだだだだ」
傷は思ったより深くなかった。少なくとも内臓がまろびでる事はなかったが、かといって放っておいて良い軽傷でもなかったので、酒をぶっかけて包帯を巻かれているのだが、これがまた中々痛い。
「あなた達は治癒も速いんですよね、だったら、あとはこれで大丈夫だと思います」
一方、セキと名乗ったリザードマンに殺されかけたクレセンは、怯えて動けない……と言ったことはなく、テキパキと治療に取り組んでくれた。俺だけではなく、追われていた奴の分まで。
「ありがとよ、助かった。で、そっちは大丈夫なのか?」
馬車の中で眠っているであろう、落馬した奴も、クレセンが治療にあたってくれていた。
「傷はほとんど擦り傷と打ち身です。疲労のほうが問題なのではないかと思いますけど……」
落馬した人間のフードとマントを剥いでわかったのは、癖毛の茶髪を肩まで伸ばした女性であるということだった。旅装に身を包んでいたので、脱がしたり消毒したりの事を考えて、手当をクレセンに任せていたのだが、上手くやってくれたらしい。
「休んでいれば目を覚ますと思います。私も……少し休みます」
「ああ。悪かったな、手間取らせて」
「……助けられたのは、私の方ですから」
ぷい、と顔を背けて、馬車の中に入っていく。手当は礼の代わりなのだろう。
「……でだ」
「………………」
「リーン」
「え? あ、はい、お昼ごはんですか?」
「んなわけねえだろさっきのは何だって聞いてんだよ!」
治療の間、特に手伝うでもなく馬車の周りをなぜかぐるぐる回っていた。
「何って言われても困るんですけど……」
「大体リザードマンとやりあったことは何度もあるが、あんなペラペラ喋る魔物じゃねえしあんなに強くもねえぞ、鎧着てるやつなんて初めてみた」
武器だって、俺の剣より遥かに上等なものだ、腹が立つ。
「多分、別の魔女と契約した魔物なんだと思います」
「別の…………何?」
「私が第一位の悪魔と契約してる様に、理屈上は他の魔女だって自分の位階以下の魔物を従えられないとおかしいでしょう?」
「魔物使いってお前の特権じゃねえのかよ!」
「特権ですよ。全ての魔物は存在してる時点でリングリーンの魔女と契約してます。それは大前提ですし、強制です。けどハクラ、コーメカさんはリビングデッドを生み出していたでしょう」
「……あ」
「魔女と魔物の契約……使役も、その延長です。契約した悪魔や、魔女本人の適性で可能な種族や傾向も変わりますし、強制力は結局、私の方が上です」
「……それこそ、クラウナをレイスにしたみたいにか」
「です。私が気になってるのは、どこの魔女がそれをやったかということです。リザードマンは確かに比較的賢い魔物です。同族同士での言語も持ってますし、武器も扱えます。ですがそれが武術の域に至ることはありませんし、人と明確に会話できる知性も持ちません。明らかに手が入っています」
「魔女が、何らかの目的で」
「セキさんと契約して強化した、と見るのが自然だと思います。となると……」
リーンが馬車をちらりと見た。俺の視線もそちらに釣られる。
「あの追われてた女は」
「一体誰なんでしょう、という話になりますよね」
「……まーた面倒事かぁ」
何故こうもトラブルが向こうから来るのだろう。
「何言ってるんですか、助けたのはハクラですよ」
「………………」
そうだった。
女が目を覚ましたのは、それから一日経ってからの事だった。
「心当たりは…………無い、申し訳ないけれど」
襲われた理由についてそう答えた女の態度は……。
(明らかになにかあるって感じだよな)
(間が長かったですからね……)
目の前で内緒話をしてやると、複雑そうな表情で困り顔をするのみだった。
「馬の方は残念でしたが……」
クレセンが、別に本人が悪いわけでも無かろうに悔しそうに告げる。馬は走れなければ衰弱して死ぬだけだ、足を負傷すれば殺すしか無い。
せっかくだから解体して肉にしようと提案したらものすごい目で睨まれた挙げ句、馬一頭を埋める穴を掘らされた身としてはかなり納得行かないが。
「いや、ありがとう。修道女の方に祈りを捧げてもらえたなら、彼も天に行けただろう」
「……私は、正式な修道女ではありませんから」
むすっとした顔でそう言うクレセンに、女はいえ、とその手を取った。
「祈りも信仰も、心がそこにあるかが肝心でしょう? 貴女の行為で私の心は救われた、それは事実だよ」
その仕草があまりに自然かつ流麗で、本人もおかしなことを言っているという風ではなかった為、全員がキョトンとして、手を取られたクレセン本人は、表情を慌てて整え直し、微笑んで頷いたのだった。
「皆さん、助けて頂いて、ありがとう。お礼は何でも、私にできる事ならば」
「いや、別に礼目当てで助けたわけじゃ……」
「はーい! じゃあラディントンで良い宿に泊まりたいです! 奢ってください!」
「お前に遠慮と躊躇はねえのか無いなごめん意味ないこと聞いたわ!」
「一人で納得して完結しないでくださいよ!」
「だって無いだろお前にそんなもん」
「ありませんけども」
「わかった、任せて」
しかし、当の本人があっさりとそういうもので、俺とリーンは顔を見合わせた。
「え、あの、本当にいいんですか?」
「おい、こいつはマジで遠慮しないぞ、大丈夫か」
ていうかこの女、例によってとりあえずふっかけるだけふっかけただけらしい。
「大丈夫。その……ラディントンには顔が利くから」
そう告げた女の表情は、なんというか、やってしまった失敗を親に説明しづらい、子供のような表情だった。
「……名前、聞いてなかったよな」
俺自身がそれをぼかす身の上だ、あまり偉そうに言えた口ではないが。
「……そうだね、申し遅れました、非礼をお詫びします」
魔物に追われ、命を狙われ、危うく死にかけていた女は、こう名乗った。
「ギルクリム・オルタリナレヴィス・マルグレヴナ・レレント・パズ・ククルニス・ラディントン・ヴァーラッド」
長い名前を持つ者は、大きく分けて二種類。
王族か、貴族だ。
「……この地ヴァーラッドを治める、ヴァーラッド辺境伯の三女です。お見知りおきを」
北の大国の剣。つまりオルタリナ王国に属し、オルタリナ王家に仕える貴族であることを示す名前。
俺達冒険者からすると貴族というのは関わり合いになりたくない存在筆頭だ。面倒くさいし無茶ばかり言いやがる。
とりあえず旅の行動方針を決めるリーンを見てみると、それはもうものすごーく嫌そうな顔をしていた。クレセンは大慌てて服の裾や帽子の装飾を直し始めた。生意気な修道女も権力には弱いらしい。
「だから、どうか気を使わないでほしい……その、嫁にも行っていない、三女だから、それこそ、宿を取り次ぐぐらいのことしか」
確かに、領主の娘が宿を融通してくれと言えば、そりゃあいくらでも良い所に泊まれるだろう。
だが、それなりの地位がある奴が追われていたとなると、やっぱり話は変わってくる。
「……本当に心当たりはないんだな?」
「少なくとも魔物に追われるようなことは……それと、皆さん、ラディントンでの滞在はその……どれぐらいの予定なのかな?」
「ぁー……何日ぐらいだ?」
「んん、そーですね、用事は半日もあれば終わるので……休養を兼ねて三日ぐらいでしょうか」
「人様の奢りだから一ヶ月ぐらい逗留するとか言い出すかと思ったぜ」
「いくら私でもそこまでしませんよ! 一ヶ月分の費用を三日に圧縮して豪遊します!」
「金は使わせるつもりなんじゃねえか」
弱みを見せたら徹底的に食い尽くす、ピラニアみたいな女だった。
「あはは……それならよかった、わかりました。では三日ということで」
露骨に安心したように息を零すギルク。
「……なぁ、本当にいいのか? あいつ、ものすごい飲み食いするぞ。たかだか宿代とか思ってるなら考え直したほうが良い」
親切心からそう言ったが、ギルクは柔和な笑みのまま、
「大丈夫」
と言うのだから、もう流れに身を任せるしか無い。
「ハクラさんは、何かないかな?」
「……俺もか?」
「勿論です。私の命を直接救ったのは、ハクラさんでしょう?」
そう言われると、あまり働いてなかったリーンが真っ先に報酬を要求した構図に若干納得の行かない感じがしなくもないが……。
「……だったら、剣だな」
できれば〝本気〟で振り回しても壊れない、頑丈なものが良い。
「わかった、私は武器には詳しくないから、職人へ取り次ぐよ。そこで好きなものを選んでもらったらいい」
「…………た、高価く付くぞ?」
念押しのつもりでそう言ったが、ギルクは笑みを崩さなかった。
「はい、お任せください」
もしかして、貴族というのはいいヤツなんじゃないか? という気がしてきた。勿論それは錯覚で、実際はギルクが恩を忘れない女だということなのだろう。
「じゃあ、遠慮なく頼む。流石にこのなまくらだとキツい」
もし、またセキと戦う羽目になったら、この剣じゃ勝負にならない。
「クレセン君は、なにか」
「え…………あ、その、私は何もしていませんから」
言われ、少し考える素振りを見せたものの、丁重に断るクレセン。
「大丈夫だぞクレセン、そこの大飯食らいよりは役に立ってる」
「なぁにを言います! 私のアドバイスがなかったらハクラは今頃黒焦げですよ!」
確かにそれを言われるとその通りなのだが、やっぱり釈然としない。
『きゅう』
その時、不意に馬車がゆっくりと減速した。
「? ニコちゃん、どうしましたか?」
不審に思ったリーンの声に、ニコは振り向いて首を傾げた。次の瞬間。
ズン、と地面が揺れた。
「うおっ」「きゃっ」「ひゃんっ」「わっ」
反応は四者四様、小さな地震はこれまでもあったが、これはひときわ大きい。揺れが収まるまで十秒と少し。ガラガラと山のどこかで岩が崩れる音が聞こえてきた。
『きゅい』
俺達がもう大丈夫だろうか、と思う暇もなく、ニコは再び、勝手に歩き出した。さすがのリーンもこれにはぽかんとしている。
一足先に地震の気配を察知して、それが歩きながらでは流石に問題だと感じ取って足を止めた賢すぎる馬車馬は、そんなのは大したことではないと言いたげに、もう一度『きゅう』と短く鳴いた。
ギルクは険しい顔で、幌から顔を出し、空を見上げた。
それから更に一日半かけて、ようやく馬車はラディントンに到着した。