命ということ XⅪ
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小僧は、倒れなかった。膝をついた姿勢で、踏みとどまった。
『目は覚めたか、小僧』
立ち上がった小僧の姿は、もはや今までの、ヒトのそれではなかった。
下半身は漆黒の毛皮に覆われた山羊のそれ。
盛り上がった筋肉と、蹄の分だけ大きく上背が増し、ユニコーンの顔を見上げずとも良くなった。
背に生えた皮膜のある翼は大きく広がり、体躯をさらに大きく見せた。
腹の傷はふさがり、代わりに皮膚の随所が銀色の鱗に覆われている。
両方のこめかみからは、ねじれた黒曜石の角がそれぞれ生え、白かった頭髪も、黒と赤に染まり、瞳からは白目が失せ、赤一色となった。
……魔女は悪魔と交わる事で生まれる。
その時、如何なる奇跡か偶然か、極稀に、魔女が悪魔の子を身籠る事がある。
それは裏界で生まれた者と、悪魔によって歪められた母胎から産み落とされた、ヒトならざるモノ。
故に、魔女と悪魔の混血児は、古来よりこう呼ばれる。
魔人、と。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
小僧は拳を握りしめ、ユニコーンの顎を、下から殴りつけた。
『!』
その衝撃で、周囲の空気が弾け、辺り一帯の砂と瓦礫が、まとめて巻き上げられた。
霊獣の巨体は宙へ浮き上がり、虚空へとその身を躍らせる。
「――――らぁっ!」
見えた腹に放たれた横蹴りは、命中と同時に魔素の変質を引き起こし、爆発を生み出した。
ユニコーンの身体が、転がりながら、見えぬ距離まで吹き飛んでいく。
自分の行いが信じられないのであろう、破壊を引き起こした己自身に呆然としながら、小僧は呟いた。
「――――お前ら、最初から知ってたんだな」
『うむ、お嬢が小僧を最初に見つけた時、そもそもその姿だった故な』
片腕を失う程追い込まれ、本能的に血が覚醒したのであろう、とお嬢は結論づけた。
小僧がヒドラに勝てたのは、何ということはない、それ以上の出力を、最初からその体に兼ね備えていたのである。
だが、通常の魔人は、力に飲まれれば自我を保てない。
何らかのきっかけで魔人に目覚めた者がいた場合は、その姿すらヒトの形状から逸脱し、恐るべき魔物と化す。
冒険者達が駆り出され、多大な犠牲と引き換えに討伐される事になるだろう。
お嬢に出会う前の小僧が、その後、元の姿に戻れたのは、命の灯が尽きる寸前であったからにほかならない。
『だが、小僧が死ぬ寸前であったのも事実だ。我輩らは、誓って小僧の力を利用しようとしていたわけではないぞ』
「わかってるよ、だったらわざわざコボルド退治なんかに行かねえだろ」
『うむ。ならば良い。さて――――来るぞ』
ユニコーンはゆっくりと身を起こし、角をこちらに向けた。
ダメージがないわけではないようであるが……。
「――――マジかよ!」
チカリと明滅。
先端から、クローベルを崩壊させた、恐るべき熱線が迫る。
「っ、あああああああああああああああああっ!」
小僧は手を広げ、それを正面から受け止めた。膨大な熱量が皮膚を焼くが、変貌した小僧の身体は、その程度では焼き切れはしない。
魔人体となった時の姿は、悪魔側の性質に依存する。
魔女イスティラが契約した悪魔は位階第二位、七大悪魔ティタニアス・グロウブロウドゥル。
その異能は闇と血と贄。光を喰らい、闇を支配し、暗闇を繰る権能の保有者である。
「あっ――――ちぃんだよぉおおっ!」
小僧が叫び、腕をさらに突き出す。熱線が触れた部位から、黒が光を侵食していく。
相反する力で相殺された熱が、空気中に霧散する。
三十秒近い照射の後、熱線が止まった。小僧は腕を突き出したまま、凶暴になった様相に似合わぬ冷や汗を流した。
「やべえ、俺が今何が出来て何が出来ないのか全然わからん」
『お嬢が側にいればまた別なのだがな。だが案ずるな、少なくとも暴走することはない』
その血を持つ魔人の身体は、ヒトよりも遥かに魔物に近い。
故に、魔物使いの娘たるお嬢の力があれば、その力に理性を喰われること無く、十全に引き出すことが出来る。たとえ離れていても、契約さえ結んでいれば、力はお嬢の制御下だ。
『――返せ』
それでもユニコーンの攻撃は止まぬ。熱線が効かぬとあれば、角を振り上げ、前足で地面を蹴って、突撃してきた。
「っ!」
直撃と同時に振り下ろされる角を、小僧は未だ握っていた剣の打ち払いで受け止めようとした。
一瞬だけ力が拮抗し、その後、パリン、と音がして、小僧が収入のほとんどをつぎ込んで手にした魔導銀の刃が砕け散った。
「んっ、なっ!」
角がそのまま小僧の心臓をえぐる軌道で突かれた。背の翼を広げ、後ろへと飛ぶ。
儚く砕けた剣の尊い犠牲がなければ、回避できなかったであろう。
「ミ、ミ、ミスリルの剣だぞ!?」
『霊獣の力そのものであるぞ、オリハルコンを相手にしていると思え』
素材の違いもそうであるが、そもそも魔人化した小僧の腕力に、魔導銀が耐えられなかったのだ。
「先に言え! っつーか翼、使い辛ぇなクソ!」
もっと身体と意識が馴染めば飛行も叶うだろうが、今、それは望めまい。
ユニコーンは再度、角を振り下ろすべく、身を走らせた。
『小僧、剣の柄を離すなよ!』
「――――おい何やってんだ」
『いいから構えよ!』
「くっそ、死んだら許さねえからな!」
小僧が折れた剣を突き出す。我輩はその腕を走り、柄に身体を絡みつかせ、形を変えた。
間一髪、間に合った。
ガギギ、と、固い物同士がかち合う音。
『ダマスカス鋼を事前に喰えたのは幸いであったな』
スライムという種は、己の身体を喰った物と同じ材質に変化させてゆく。
ただし、我輩のそれは少々極端かつ特別性であり、喰ったものを記録している限り、ありとあらゆる素材と性質に、変じる事ができる。
今の我輩は、小僧が振るうダマスカスの剣である。魔導銀よりは固い。小僧の膂力にも、ある程度は耐えられる。
「そりゃあ、アグロラに感謝しねえとなあ!」
角と拮抗する剣。
鍔迫り合いは、しかしすぐに均衡が破れ始める。
根本的な出力の違いは如何ともし難い。
『小僧、貴様の力はその程度ではないはずだ!』
「ただでさえどうしていいかわかんねえのに無茶いうなや!」
叫びながら、小僧はユニコーンの胸を蹴り、突き飛ばしつつ距離を取る。
爆発と衝撃が再びユニコーンを吹き飛ばすが、やはりまた立ち上がる。
「くっそどういう体力してんだ!」
『生命が尽きるかどうかという意味で言うなら、無限に等しいと思え』
「あぁ!?」
『ユニコーンであるぞ、死者すら蘇生する生命を司る霊獣だ。当然、自身の生命力もまた凄まじい』
「じゃあどうすりゃいいんだよ!」
『もしも命を奪うのであれば……角を断つ以外あるまいよ』
「……あれをか?」
小僧の視線の先。
奴もまたこちらを見据えながら、ユニコーンの角が、内側から、更に強く、青白い光を放ち始めた。
『返せ』
今までとは、比較にならない力の本流。
天を覆う黒雲が、怒りに応じるように渦巻いていく。
人の叡智が及ばぬ、天候という領域を、捻じ曲げる権能。
我輩らが相手にしているのは。
天災、そのものだ。
「…………なあ」
『うむ、不味いな……あれを解き放てば、戦闘云々ではない。ここらから見える範囲の全てが蒸発するぞ』
「どうすんだあれ」
『どうにもならん』
「おい」
『大丈夫だ、小僧、お嬢はなんと言った?』
我輩がそう言うと同時、ザクザクと戦場に新たな足音がなった。
「はっ……はぁっ、ふう……おまたせしました、ハクラ、アオ」
白い布の包みを持って、息を切らせながら、お嬢が駆けつけた。