生きるということ Ⅱ
ほぼ一文なしになった。いや、手元に一銭もないわけではないし貯蓄を崩したわけではないが、現金がほとんど残らなかったという意味では大して変わらない。二、三日、安宿に止まったら消えるぐらいの残高になった。
まさか行きつけの武器屋に魔導銀製の剣があるとは思わなかった。しかも両刃剣ながら左右対称ではないとかいう職人気質な理由でワケあり扱いされていてかなり安くなっていた。相場の三割引だ。
買うしかなかった、買ってしまった。刀身は多少短めだが獲物としては十分だ。今後の身の安全にもためにも背に腹は代えられないのだと自分に言い聞かせて。
おかげでその他の装備がかなり雑になった。鎧などもう革をなめしただけの場当たり物だ。
「稼がねえとな……来い……野盗来い……」
「私の真横で私が襲われるのを期待するのやめてください!」
リーンはそんな俺に対してかなり不満そうだった。いや、当たり前だが。
「で、結局どんな冒険依頼を受けたんだ?」
リーンは、ギルドのカウンターについた後、混み合う後方の列に対して一切の配慮なく、並ぶ冒険依頼の群れを前に小一時間、内容を吟味し続けた。
依頼の選り好みはギルドのカウンターが混み合う理由の一つだが、それにしたって十分ぐらいが相場というものだ。かなりピリピリした空気が漂っても平然としていたし、俺はそんな連中がいつ直接殴りかかってくるかを警戒して、結局何を選んだか見てなかった。
まあ、あれだけ時間をかけたのだから、相当実入りの良いものがあったのだろう、そもそもリーンならばどんな凶悪な魔物でも対応できるのだし、その分報酬も……
「はい、コボルド退治です」
「てめえマジふざけんなコラぶち殺すぞオイ」
「はあ……? ハクラはお仕事を選り好みするタイプですか?」
「わざわざ今更なんでこの俺がコボルドなんぞ仕留めに行かなきゃならんのだっつってんだよ!」
コボルドは、全長九十センチ程度の、直立歩行する犬のような外見をした魔物だ。
自然界での役割は食物連鎖の下の方、という時点でその弱さがわかると思う。繁殖速度は早いがとにかく弱い。角材でもあれば、十五歳ぐらいの健康な若者なら秘輝石がなくても殴り殺せるほどだ。
ただ知能はそこそこある、街では飯処に居たように、所謂「飼いコボルド」も見ることができる。申請と許可は必要だが、犬より賢く便利で仕事のできるペットとして品種改良されたコボルドも居るのだ。
とにかく、多かれ少なかれ自警団のような組織のある村なら野生のコボルドが問題になることはない。
基本的に温厚で臆病、人間を見たら襲いかかるより逃げるのが常だ。
ではなぜそんなコボルドを退治する依頼なんぞがあるかというと、食料を求めて畑を荒らし回る事があるからだ。
生命ではなく生活の危機として、厄介な魔物なのである。
……が。
「駆け出しの仕事だろうがそんなもん!」
「普通はそうなんですけどねえ」
リーンは難しそうな顔をしていた。この女に思考というものができるのであれば悩んでいるのだろうと見受けられた。
「今かなり失礼なことを考えたでしょう」
「いや別に」
「とにかく、ちょっと様子がおかしいんですよね」
「あ?」
「このコボルドはですね、どうやら人間を襲うらしいんですよ」
エスマから歩いて丸一日の道程も、馬車ならその四分の一の時間で済む。
ライデアというのがその依頼を出してきた村の名前で、有名なのは……
『果樹園であるなあ』
スライムは、まさにその村で採れる真っ赤な果実を、青い体で包み込むように取り込んでいた。皮が緩やかに溶けているのを見ると現在進行形で消化中らしい。
「果樹園! 採り放題とかやってますかね?」
「お前あんだけ食ってまだ食い足りないのか……」
肉厚のスペアリブを三人前平らげ、両手で持てるぐらい大きな小麦のパンを四つぺろっと食べつくし、今は果実をシャリシャリ齧りながらこの発言である。いくら空腹でも大の男である俺ですらそんなには食えない、この女の胃袋はどうなっているんだ。
「ふーん、そういうこといいますかー、しばらくお腹いっぱい食べれない粗食期間があったからなんですけどねー」
『いやお嬢の食い意地はいつもこんなもぐべっ』
リーンは食事中のスライムの上に全体重を載せて座り込んだ。ぶよぶよと弾むが飛び散らない。理想のクッションと呼べなくもない。
「その上馬車移動だろ……大丈夫か、体重」
「な、なな、ど、どれだけデリカシーないんですか!」
「俺にデリカシーを要求するなら外見に見合った行動と言動をしろ」
「むっかぁ〜〜! 平気ですもん! ちゃんと食べた分は運動してますから!」
『いやお嬢この重さは前より少し増えてがふっ』
リーンはクッションの上で座り直し、断末魔が響いた。
「いーんです、そもそも私は食べた分はこっちに行くんです」
自信満々に腕を組むリーンの腕の上で、ゆったりとした服に沿う様に豊かな胸の形が浮かび上がった。
どうです、と言わんばかりの顔だが、俺はわざと、聞こえるように盛大なため息をついた。
「もうちょっとお前に可愛げがあればなあ……」
「んなっ!? 昼間はチラ見して顔真っ赤にしてたくせに!」
「今ここに至るまでのお前との交流で女という生き物への期待値がかなり下がったことは礼を言うべきだな……」
「た、たった十日ちょいで人のことの何かわかるというのです!」
「お前が質の悪いひねくれ者の大食い女であることは十二分に理解できたわ!」
「な、なんですってぇ!? アオ、主の命令です、懲らしめてやりなさい!」
「現在進行形でお前のケツの下で潰れてんぞそいつ」
「ア、アオー!? どうしてこんな事に……ハクラ! あなたって人は!」
「お前が潰したんだよ!」
他の客がいないことをいい事に大騒ぎする俺たちを見て、御者台の親父が声を上げて笑った。
「がっははは! 仲いいな兄ちゃん達、芸人の漫才でも見てるみたいだ」
「む、見てて笑ったなら見物料ください」
「お前の図々しさはどこからくるんだ本当に」
「いいですかハクラ、まず世界の中心に自分が立つところからです」
『小僧、一応言っておくがお嬢は本気だぞ』
「だろうな……」
とうとうこらえきれなくなったらしく、親父は十秒近く膝を叩いて爆笑し、馬が驚いて歩みが止まった。
「ところで、ライデアってどんな村なんですか?」
「ん? ああ、のどかなとこだよ、人は気さくだし飯も旨い、上等な甘果実が良く生る土地でなあ、果実酒も甘ったるいんだがそれも結構な人気でよぉ」
「果実酒! そういうのもあるんですか! はぁー、良い宿取りたいですねぇ」
「ほんっと食いもんのことばっかだなおい」
「失敬な、冒険依頼のこともちゃんと覚えてますとも。こういう地元密着型の依頼はスパッと解決すれば大体盛大にごちそうしてくれるものなのです」
「お前まさかそれ目当てで依頼選んだんじゃねえだろうな!?」
リーンは目をそらしてひゅーひゅーとならない口笛を吹き始めた。まじかこいつ。
「しっかしまあライデアも災難だなあ、やっと忙しい時期を乗り越えたと思ったら魔物絡みの騒動だろ? お嬢ちゃんの言うとおり、さくっと解決してくれると俺も助かるねえ」
「忙しいって、なんかあったのか?」
「いやあ、今年のユニカ祭りの開催が一月も早まったもんで、クローベルに納品する果実の収穫も早くなっちまったんだよ。果樹園の甘果実も熟しきってねえってんで、質も数も足りてねえときたもんだ。外の森まで大人も子供も駆り出されて、片っ端から収穫と出荷作業に追われてよ、俺だってここしばらくはひたすらエスマとライデアを往復よ」
「はぁ、そりゃ災難なこって」
「むしろ冒険者はこぞってクローベルに行くもんだと思ってたよ、兄ちゃん達は変わりもんだなあ」
「いや、俺もなるべく早めにクローベルに行きたかったんだけどな……」
ライデアに向かうことになった元凶を横目で見ると、顎に手を当てて、形の良い眉をこれ以上ないほど歪めながら、何事かを考えていた。
「んー……最悪のパターンもありえますね」
「は? 何が?」
「ああ、いえ、何でもないです、あとは現地を見てからですね」
リーンは食べ終えた果実の芯を馬車の外に投げ捨てると、鳥達がこぞってそれを貪りに空から降りてきた。