生きるということ Ⅹ
◆
十分ほど、更に歩いてたどり着いたのは、ルドルフが住んでいたような、入り口の小さな洞穴だった。つまりこれが、俺達を襲ってきたコボルドの巣なのだろう。
「で、どうすんだ、また壊すのか」
「はい!」
良い笑顔で告げたリーンは、ザクザクと土の壁に杖を突き刺し始めた。少し前に見た光景である。ルドルフは自分の巣がどうやって破壊されたのかをまざまざと目撃し、尻尾を丸めて震えがっていた、可哀想に。
「……それで、この中に何があると?」
流石にその作業が終わるまで黙ってはいなかった、村長の怪訝そうな顔は、よりによって俺に向けられた。
「さあ……俺の雇い主はあいつなんで」
「……貴方達にはわかるまい」
俺のそんな物言いが、無責任に聞こえたのだろう。深く項垂れて、震える手で杖を力強く握りしめた。
「築き上げてきた物が壊れた時の、あのやるせなさが。信じてきたモノに裏切られた時の、あの怒りが。愛するものを失った悲しみが……同じ恵みに支えられて生きているモノ同士、種族は違えど、わかりあえていると思っていた……」
その裏切りは、最悪の形で現れることになった。
「少し頼りないが、良い息子だった。学があり、勇気があった。村の為に率先して、立ち上がってくれた。その息子が、ついぞ帰ってこなかった。わかりますか、この気持ちが」
「…………」
裏切り。信頼。冒険者にとって、前者はよくあることで、後者はそんなモノを無条件に信じるほうが馬鹿だ。
信頼に必要なのは『何故』だ。、明確な理由と理屈の上でこそ成り立つ、それがないなら、俺達は誰にも背中を預けない。
「テトナはそれでも、ルドルフを信じてる」
だから、俺はそんな言葉、言うつもりは全く無かった。黙って流して、いざという時、どっちにも逃げれるようにしておくべきだった。
目を見開いて、俺を凝視する村長に、理性が『やめろ』と叫ぶのを無視して、ほとんど考えなしに、続けてしまっていた。
「父親を喰われた事もわかってて、危ないこともわかってて、それでもあいつはルドルフを守る為に、俺達を止めに来た、子供一人でだ」
まったくらしくない。
俺が言うべき言葉ではない。何の意味もなく、何の道理もない。
「お前に――――」
我慢の閾値を、とうに越えたのだろう。村長は杖を投げ捨て、俺に掴みかかってきた。
続きの言葉はわかる。「お前に何がわかるんだ」だ。
だが、それを言い切る前に、何かが崩れ落ちる音が辺り一帯に響き渡った。
「――俺には何もわかんねぇけど」
俺は、襟を掴む手を振りほどく事なく、外壁が崩壊した巣穴を見た。
「何があったのかは、これからわかる」
…………多分。
○
そこで我輩らが見たものは、この世で最も美しく、そして残酷な光景の一つだった。
「村長さん、ハクラ、こちらへどうぞ。テトナちゃんは……」
言外に、見ないほうが良いかも、と告げるお嬢に、テトナは首を横に振って、ルドルフの手を取って言った。
「私も、知りたい」
震えている。肩も手も、恐らく心も。
「何で、って、ずっと思ってた。ルドルフは……ううん、コボルドは友達だって信じてたから。だから、見たいの」
それでも、この娘は強く前を向いている。自分の信じたいものを信じる為に。
「何かの勘違いだって、私達、仲良くできるって、信じたいの……っ!」
「テトナ……」
その背中に、村長は、少しだけ手を伸ばし、しかし、何も出来なかった。
「クゥン……」
テトナの手を、強く握り返したのは、ルドルフだった。
「うん、ルドルフ、大丈夫だよ」
一人と一匹の間には、確かに信頼関係があった。大人達は……ともすれば我輩達ですら、それは愚かだと嘲笑い、そして叱るだろう。
「大丈夫ですよ、テトナちゃんがルドルフ君を裏切るような事にはなりません」
我輩を抱きかかえたお嬢は、そのまま歩みを進めた。
ルドルフが居た巣穴より、倍は広いだろうか。その奥に、一匹のコボルドが仰向けに横たわっていた。手足はまったく肉がないのに、腹だけが大きく膨れている。妊娠していることは明らかであった。
「これは……」
コフゥ、コフゥと荒い息を繰り返すコボルドは、我輩達はおろか、巣穴が破壊されたことにすら、気づいていないようだった。それだけ、集中しているか、あるいは他に気を回す余裕が無いのだろう。
「………………」
小僧も、テトナも、村長も、三者三様に絶句していた。
何故、今、よりによってこの時、こんなものを見せられねばならないのか。この光景に何の意味があるのか、測りかねているようだった。
「ギャウウ! グア! ギャウウァ!」
ひときわ甲高い叫びと共に、母体の下腹部から、ズルリと音を立てて、小さなコボルド達がこぼれ落ちた。
この世に新たな命が誕生した、それは祝福すべき事のはずだ。
生まれたての儚い命は、全身の毛を濡らしたまま立ち上がった、生まれたての足をふらふらと引きずって母親にのしかかった。
「クルル……」
母コボルドが呻くように鳴いた。子供はそれを聴いて、同じように小さく吠えた。
「クル……、ギッ、ゴ、ギャフッ、グェッ!」
そして……憔悴した、たった今、自分を産んだ〝母親〝の細い首元に喰らいついた。
「……え?」
テトナが、声を漏らした。しかし、そんなものでは、何も止まらなかった。。
ぺきぺきと骨が折れる音が聞こえる。
我輩らに全く気づく事なく、連中の食事は始まった。まだ固まりきらない柔らかい爪と、生えかけた牙で、自らを産み落とした肉の毛皮を剥いで、露出した部位に食らいつく。
「何してるの」
たまらず、駆け出そうとするテトナの手を、ルドルフが掴んで、止めた。
「ルドルフ、だって、あの子達、何、何してるの!?」
痙攣し、舌を放り出して、びくびくと震えながらも、母親は、ぎゅう、と子供を抱きしめた。それは抵抗ではない、もっと喰え、と促しているのだ。
程なくして当然のように、母親は絶命した。その遺体を、産まれたばかりの子供は喰らい続けた。
「おお……なんと、なんという……」
「……どうなってんだ、リーン」
小僧や村長とは対照的に、お嬢は欠片も動揺していなかった。無表情に、この光景を眺めている、眉の一つもしかめない。
「……お前、こうなってるってわかってたのか?」
「何が起こってるか想像は付いている、と言ったじゃないですか」
いつも通り、呆れたふうに、そう言ってのける。
「いいですか? ここのコボルドは甘果実を主食にしていました。この森は実り豊かですから、わざわざ人間が育ててる果樹園に行かなくても良かったんです、他の生き物と争う事なく、手軽に栄養豊富な餌を得ることができる、コボルドにとっては理想郷だったんです」
「そ、そうですとも、だから、我々は」
共存できていた。そのはずだ。
「でも今までは平気だったんだろ? 原因は何なんだ?」
「そんなの、ライデアの村人達が森の果実を乱獲したからに決まってるじゃないですか」
あっさりとお嬢が言うと、村長は叫んだ。己が責められていると感じたからか、鬼気迫る表情になった。
「我々はすべての果実を取り尽くすようなことはしていない! 確かに売り物になるような、良く熟したものは持っていってしまったが、十分な量を残した!」
その怒声に対して、お嬢はどこまでも平坦な声だった。何も知らない子供に言い聞かせるように、指を一本立てた。
「コボルドには知能があります」
それは、目の前で肉を貪る獣への皮肉か。お嬢は言う。
「だから、ライデアの村人達が食べ頃の果実を採っていった事で、自分達の食べ物が見るからに減ったことは理解できます、だったら当然、こう思うでしょう? 残りの果物も人間が持って行くかも知れないって」
村長の表情が、固まった。まさか、と零れた呟きを、我輩は確かに聞いた。
「でも、おじいちゃん達は、ルドルフ達の分を、ちゃんと残したって……」
「ええ、でもですね、テトナちゃん。ルドルフ君達には、甘果実がどれ位残ってるかなんてわからないんですよ。どれだけ採って食べても、足りなくなる事はなかったから、そんな事考える必要なんて全く無かったんです」
故に。
「切り詰め、節約し、計画的にやりくりすれば、豊かな恵みに育まれ、増えに増えた全てのコボルド達が、急場を凌げるかも――なんて、そこまで考えられるほど、コボルドは頭がよくありませんよ、どころか、素人の人間にだって難しいでしょう? それが出来るのは、甘果実の木に精通してる、ライデアの人達だけです」
肉を貪る音が響く。
「満たされることに慣れきって、満腹以外を知らない彼らに、それを耐える理由がありません」
血をすする音が鳴る。
「資源は残っていました。あなた達はそれを考慮して収穫しました。でも、彼らにはそれが理解できませんでした」
風が吹いて、背後にある木々が揺れた。
食べごろに熟した野生の甘果実が揺れて、一つがぽとりと地面に落ちた。
母親の命の残骸を貪るモノは、それに欠片の興味も示さない。
「けど、それが何で人食いに発展したんだ?」
「資源が限られてるわけですから、当然待ってるのは奪い合いです、村人達は、コボルドの群れが複数あった事も知らなかったはずですから」
はっと顔を上げたのは、テトナだった。
そう、ルドルフと交流を重ねてきたテトナすら、その発想がなかったのだ。
彼らにとって、コボルドは『森に生息している魔物』でしかない、彼らの社会性や生態に関しては、まったくの無知なのだ。
コボルド達が甘果実の収穫期を知らなかった様に、村人達はコボルドの事を知らなかった。
「……なら、俺らを襲ってきたのは、その縄張り争いに負けた連中か」
「はい、当然、勝った群れが甘果実を独占します。ルドルフ君は、その群れに所属してたんですよ」
ルドルフが、その声に合わせて鳴いた。肯定の意味なのだろう。お嬢は続ける。
「果実を確保出来た方は今まで通りの生活を出来ますが、負けた方はそうは行きません。水分すら甘果実で補ってきたコボルド達は、あっという間に追い詰められて、他に食べられるものを探さなくてはならなくなりました」
コボルドの食性は『刷り込み』だ。甘果実を主食として居たコボルド達は、そもそも甘果実以外は食べ物として認識すらしていなかった。
だが、生き物である以上、喰わなければ飢えて死ぬしか無い。負けたコボルド達は、最後の手段を選んだ。それが――
「自分を喰わせること、だってのか? そんな馬鹿な話あるかよ、その前に、狩猟なり何なりするだろ」
「出来るわけないじゃないですか、今の今まで、放っておいても勝手に落ちて来るような果実が主食だったんですよ? それに」
お嬢は、ルドルフと、その手をつなぐ、テトナを見た。
「コボルド達は、人間と交流がありました。自分達と違うけれど、危害を加えない、隣人が。森のコボルド達にとって、他の生き物というのは攻撃する対象ではなくて、共存する対象です。だから――獲物を狩らずに得られる食べ物は、もうそれしかなかったんです」
飢えに飢えたコボルドの群れは、優先順位を付けたのだろう。老いた者から順番に、若い個体に未来を与える為に。何としてでも、この危機を乗り越え、世代を跨ぐ為に。
「親を喰った世代の子供は、なんとか生き延びて、次世代を産み落とし、そして、同じように自分達を食わせました。これであっという間に甘果実の味を知らない、コボルドを生まれて初めて食べた、肉の味しか知らない第二世代の完成です」
――もはや、母コボルドは元の形をなしていなかった。それでもなお子供達の食欲は旺盛で、溢れだす内蔵すら、地面に舌を這わせて啜る。
うぇ、と、テトナの喉から、嫌な声がした。
「食う物に困窮したからではなく、純粋に餌として、肉を喰う種族に変じた彼らは、残りの果実を独占した群れを、どう認識すると思いますか?」
そんなもの決まっている。
最初に食ったものを生涯の主食にする食性を持つのであれば――そいつらの主食は、他のコボルドだ。
少し時間がたてば、木はまた果実をつけるだろう。だが、群れにとっては、もうそんな物はなんの役に立たない。食べ物として認識されない。
供給が需要に追いついた時、もう全てが手遅れだった。
「そうして、共食いの潰し合いの結果、何が起こったかと言えば、コボルドの絶対数がそもそも減ってしまったんです。主食が減った以上、他の食べ物が必要です。コボルドより大きくて、肉も沢山ついてる人間は、まさしく代替物としてぴったりでした。飢餓によって死にものぐるいになったコボルド達が一斉に不意打ちを仕掛けてきたら、健康な大人でも危うい、実際にそうなりました」
子供は、食事を続けていた。頭蓋をかち割り、その中身までもを舐めて、折れそうな骨をひたすらしゃぶり尽くす。
テトナの父親も、こうやって貪られたのだろうか。生きたまま食われたのか、天が微かな慈悲を与え、命を奪われた後に贄となったか。我輩らがそれを知る由もない、骨の欠片が残っていたとして、それを判別する手段もない。
「…………グルル?」
ようやく。ようやく我輩らに気づいて、こちらを見た『人食い』共の、その形相と言ったら。
血に濡れて固まった体毛に、瞼を捨ててきたかのような剥き出しの瞳、生臭い呼気を繰り返す口、紅い雫を垂れ流す舌。
これをコボルドと言われて、誰が信じるだろう。臆病で愛嬌のある顔立ちなどどこにもない、これはただの肉食獣だ。同族喰らいの、魔物だ。
「リーン、こいつら」
「無理です」
きっぱりと、お嬢は言い放った。
「こうなったら、無理です。矯正も共生も出来ません。共食いでしか生を繋げない生き物なんて、下の下の下です。それに」
ひたひたと足音を立てて、母を貪り終えた赤子達が、迫ってきた。
座りきっていない首をゆらゆらとゆらし、まだ足りないと言いたげに喉を鳴らし、もっと寄越せと舌なめずりする。
「たとえ矯正できても、ルドルフ君を始めとする、他のコボルドは彼らを許しません。数が減ったあとは、淘汰されるだけです。彼らは、生き物として、詰みました」
コボルドは多産の生き物だ。だから子供を生んだ時点で母親が喰らわれる彼らは、子孫を残す芽が消える。
コボルドは賢い生き物だ。仲間同士で手を取って外敵と戦える。彼らはその輪に加われない。敵とは彼らの事だからだ。
コボルドはか弱い生き物だ。臆病で可愛らしいから、人の隣人として生きてこられた。彼らはその対象にならない。人を喰ったからだ。
急場を凌ぐ為に未来が奪われ、今を生きる為に現在を奪われ、人を喰ったが故に信頼を築いた過去が奪われ、そして生きようとしたが故に――命を奪われる事になる。
「我々は……」
村長は、杖を取り落とし、膝をついた。
「間違って、いたのか……?」
それに答えられる者は、現時点では、恐らく誰も居なかった。