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プロローグ

挿絵(By みてみん)


「これだけ緑が深いなら、食べ物にも困りませんし、巣穴だって豊富ですし、すくすく育ったんじゃないかと」


“お嬢”の答えは簡潔だった。


『ふむ……ではやはり希望は持てんか』


 生い茂る深緑を手持ちの杖で強引に掻き分けて、お嬢は進む。

 足元は舗装されていないが、巨大な生き物が這いずった跡が、獣道ならぬトカゲ道として残っている為、思いの外進むのは楽ではあった……先に待ち受けるもののことを考慮しなければ、だが。


 トカゲ……すなわち、我輩らが追いかけている魔物、ヒドラ。

 二頭を持つ亜龍の一種。ギルドが確認した限りで、この地に生息しているらしい個体は胴体と首、合わせて八メートルを超えているらしいからそのサイズは同種の別個体と比べてもはるかに大型だ。

 ましてヒドラは猛毒と火炎、二つのブレスを無尽蔵に巻き散らかす。腕利き“程度”の冒険者が四人では、手も足も出ずに敗走するしかなかったであろう。

 実際、ギルドによれば、冒険者のパーティは、一人が囮になり、その間に他の三人は逃げ帰ってきたという。


「こんな人が来ない森の奥に住んでるんですから、わざわざ討伐しに来なくても良かったと思いますけど……」

『人とはそういう生き物だ、お嬢。近くに異形の何かが居る、それそのものに恐怖を覚える。万が一街に繰り出してきたら大惨事であるしな』

「今回の件で人間を敵だと認識したら、そうなるかもしれないですけど」

『それはそれで笑えんが……』

「最初から、刺激しなければいいのに。この森だって、なにか特別良い物が採れるってわけでもないじゃないですか」


 人間ってほんとわかんない、とお嬢は呟いた。

 

 小一時間ほど歩みを進めると、開けた場所に出た。

 いや、開けたというのはある意味正しくないか、焦げ臭い臭いが周囲に充満している、人の手入れなく伸びに伸びた草木が燃やし尽くされ、森の中でその空間だけぽっかりと空洞のようになっているのだ。


「あっ」


 お嬢が声を上げた、我輩にも見えた。

 一人の青年が、地面に倒れていた。全身血まみれで、よく見ると右腕が無い……というか、数メートル離れた場所にちぎれて転がっている。

 その反対側に、我輩たちの探していたものがあった。

 野太い蛇とでも言うべきか、胴体の横幅だけで一メートル近くある、間違いなくヒドラだ。

 こやつが動かないのは、首から上がないからだ、側に目玉を大きく見開き絶命している、ヒドラの頭部が三つ転がっていた。どれもこれも丸めた大人一人以上のサイズがある、大物である。


「相打ち……でしょうか」

『であろうな、戦士一人で戦っただけでも上等だが……力尽きたか』


 お嬢は、その青年に近寄って、しゃがみこんだ。

 酷いものだ、皮膚は焼けただれ、全身は擦過傷と火傷だらけ、先も述べたが、よく見れば右腕は、牙で切断されたらしい。傷跡がしっかり残っている。


「どうしましょう……」

『我輩らだけで弔うのも手間だ、遺品を持って帰ってやれば……』

「いえ、見なかったことにして手柄を横取りしてもいいものでしょうか」

『悪魔かお嬢!? 上げた首級は戦士の誉ぞ!?』


 とんでもないことを言い始めた。


「……いえ、やめておきましょうか、なにせ……」


 お嬢は、つん、と青年の死体を、指先でつついた。

 ぴくり、と、その体が動いた。

 いや……死体ではない。


『お嬢』

「無事に助けられると、いいんですけど」

 

 



 人生の中で一番古い俺の記憶は、センスの悪い装飾の施された手術台の上に磔にされていた事だ。

 手術台と言っても治療の為ではなく、生物をただただ弄くり回す為のもので、手足や胴体を拘束できるパーツが付いているのは、材料が暴れないようにするためだ。

 全身の血管から血を絞るように細い管が取り付けられて、頭からつま先まで、皮膚の至るところに血の滲んだ包帯が巻かれていた。

 痛かった。

 それが自覚した最初の感覚だ。

 本能的に泣き叫ぼうとして、かすれた声が出た。水分が足りず、かひゅ、と空気だけが漏れて、喉が引きつり、更に苦しくなった。

「あら、目が覚めたのね」

 ……女の声が聞こえる。

「いい子ね、私の可愛い息子」

 優しい笑みで、誰かが俺の顔を覗き込んでいる。




「……っぐ」

 目覚めは最悪だった。よりによってあの頃の夢を見るとは。

 悲鳴を挙げなかったのは奇跡だが、すぐにそれは「あげなかった」のではなくそんな事をする余裕すらなかったのだと気づいた。全身に全く力が入らず、夢の中以上に喉がかすれている……というよりこの現実の肉体の感覚を夢の中まで引っ張っていったという方が正しいか。

 記憶が確かなら、俺は仲間たちと、異常成長したヒドラの討伐に来たのだ。

 しかし、到底叶う相手ではなく、俺は殿を努め、仲間を逃し、そして……


「……っ」


 そこで、不快感に顔をしかめた。右腕の肘のあたりに、嫌な感触があった……それに今さら気づくほどには消耗しているらしい。 

 ぬるり、ぬるりと粘質な何かが纏わりついている……薄いブルー色のそれは肘の周辺を飲み込むように包みこんでいた。


「ぐ……ス、スライム……!?」


 迂闊だった、と言うしかない。いや、そもそもヒドラとの戦いで力尽きなかったほうが不思議なのに、運良く生き延びた瞬間に、この状況は笑えない、幸運どころか地獄すぎる。


 今となっては様々な街で家畜として飼育されているスライムだが……野生種のそれは極めて獰猛で暴食だ。

 奴らはどんなものでも食う、液体と個体の中間のような、ドロドロした不定形の体を持ち、物理攻撃をほぼ無効化するどころか、武器で殴れば武器を取り込み溶かして喰らう。

 金属さえも消化してのけるのだから生物も例外ではない、というよりも消化しやすいのだから生肉のほうが好きだろう。


 唯一弱点部位である核の破壊も極めて面倒だ、魔導師が生み出す火や氷が最も単純にして最適な対処法だが、今それを望むのはあまりに酷すぎる。


 スライムに一度まとわりつかれたものの末路は悲惨の一言だ。生きたままじわじわと皮膚や肉や骨を溶かされ、その傷口から体内に侵入、今度は内側から捕食される。その痛みと苦しみは想像などできようもない、錬金術師連中によれば、こいつらの体を形成する粘液には、獲物をなるべく新鮮な状態で捕食するため、微量な麻酔成分と止血成分を含んでいるらしく、生き地獄はより長く続くことになる。


 “運良く”顔を包み込まれるのならば苦しむ時間はそう長くないが、まかり間違って足や腹の傷口に飛びつかれたら最後だ。

 この状態に追い込まれて、火や氷で祓えないのなら手段は一つしかない。


 喰われた部位ごと、切断する。


 それが最悪の中での最適な対処法であり、それで体を失った同業者はごまんといる。

 だが……


「……くそ」


 俺にとってはそれ以前の問題だった、そもそも消耗しすぎていて、体がまともに動かないのだ。右腕を切り離す覚悟ができても、剣もないし、あっても握れない。

 両手共、指先を小さく動かすのが、せいぜいだった。


『ふむ、ようやっと神経がつながったか』


 その時、耳に聞き慣れない声が飛び込んできた。低く、ずんと響く男性の声。


『だが、まだ動かさんほうが良いだろう。体力の消耗はわずかながらでも防ぐほうが懸命である』


「……っ、誰だ、誰が……いや、誰でもいい、右腕を、斬って……」


 俺は、もうその声の主がスライムを何とかしてくれる事を祈るしかなかった。姿は見えない、だが、たしかにそこにいるのだ。

 しかし帰ってきた返答は、予想のつかないものだった。


『馬鹿なことを言うな、せっかく繋いでやったのだぞ。我輩の三日間の努力を無に返すつもりか』


「……は?」


 そう言われて、ようやく頭に血が回ってきた。

 そうだ、そもそも俺の右腕は、ヒドラに噛み千切られたのだ。ぶつりと肘から先が消失する感覚を、その瞬間思い出した。

 それは同時に、なぜ今、右腕に感覚が残っていて、指先を動かせたのかという疑問に変化する。


『神経が繋がったとはいえ、動かすのもやめたほうがいい。せめて後二日はこのままであるな』


 うぞうぞと俺の右肘に取り付いてうごめくスライム。


 ……声はそこから聞こえてきた。


「あ、アオ、起きましたか?」


 俺が悲鳴を上げる直前、草木を掻き分けて、新たな人物が現れた。

 飴細工の糸を束ねた様な、きらきらと光る金髪の、若い女だった。




「お礼は言われる気満々でしたけど、悲鳴を上げられるとは思いませんでした」


 お嬢が抱えて戻ってきた果実は、極端に甘かったり、苦味と酸味がきつかったりと、味に癖はあるものの、どれも栄養価が高く、食べて問題ないものばかりだ。

 ナイフでそれらを細かく刻んでやりながら、小型の鍋に入れて火にかける。しばらくすれば己の水分が滲み出し、煮詰まって、フルーツのポタージュが出来上がる。こんな森の奥で食べる分には、上等な食事だろう。味の程度もまあ、こんな秘境での食事と考えれば十分だ。


 最も、治療に専念している我輩は残念ながらそれらを摂取することはできない。

 

 断ち別れた青年の腕を修復する作業は骨であるし、我輩が剥離して変な雑菌を入れるわけにも行かない。

 ただ、肝心の青年は、そもそも体を動かす体力もないのであろうが、それ以上に強い警戒を抱いているのだろう、一言も発さず、ただただお嬢と目を合わせようとしない。

 ……まあ、無理もないだろうが。


「……別に喋れないなら喋らなくてもいいですけどぉ」


 お嬢はムスッと頬を膨らませて拗ねていた、とても十六を数えた淑女がとって良い態度ではないが、そもそもお嬢は淑女ではない。

 二十分ほど無言で向かい合い、やがて鍋から甘い匂いが漂いだした。完全に火が通り、果肉が溶けてドロドロになっている、食べごろだ。

 お嬢は旅道具から取り出した金属製の器にポタージュをよそい、木の匙を手に近寄ってきた。青年は身じろぎしたが、逃げることはおろか体勢を変えることもままならない。


「はい、あーんしてください、あーん」


 お嬢はいとわず、果実のポタージュを匙で掬い、口元に運んでやる。これだけ見れば、若い男女の微笑ましい交流と取れなくもないが、場所は深い森の中で、そばにヒドラの首が重なって転がっていることを考えると、なにやら黒魔術の儀式のようにも見えてこなくもない。


「……お前ら」

「えい」

「一体何もがあっづ!?」


 ここに来てようやく口を開き、おそらく『お前ら一体何者だ』と問おうとした青年に、お嬢は容赦なく匙をねじこんだ。冷ましてやるという心遣いはなかったので、多分礼がなかったことを根に持っているのだろう、お嬢はそういう娘だ。

 口を開くと熱々のポタージュが飛び込んでくる、と言う世話なんだか拷問なんだかよくわからない状態で、二人は睨み合った。

 お嬢の手にある皿の中身が冷めるまで、それは続いた。





「何者かと聞かれたら、私たちは冒険依頼(クエスト)に来たんですけれども」


 俺の口に甘苦い果実のスープをねじ込み続けた女は、自分の分を食べながらそういった。

 見れば見るほど“らしくない”女だった。右手に“秘輝石(スフィア)”があるので冒険者であることは間違いないのだが、それにしては身に纏っているゆったりとしたローブは上等な生地に金糸で凝った刺繍を施した、貴族の令嬢が着ている様な一品だし、羽織っているケープも同様だ。旅使いするような服でもなければ戦闘に着ていくべきものでもない、魔術師だって魔物の住処に入るなら革鎧ぐらいは着込む。


「ヒドラに無謀に挑んだ四人組のパーティが、一人を置きざりにしてボロボロになってギルドに帰還、現地で何があったか調査し、可能なら遺品を持ち帰れ、という冒険依頼でした」


 じと、と睨むような視線を向けられた。そのパーティは間違いなく俺達の事で、つまりこの女は敗戦した俺達に何があったかを調べに来たのだ。

 同時に、仲間たちが無事に逃げられたという事実にホッとする。


「……ヒドラの巣に、一人で来たって?」

「一人じゃないですよ、アオが居ます」


 俺の疑問に、女は指差して答えた。

 今も、俺の右肘には青色のスライムが纏わりついている、半透明なその肉質の向こうには、まだ生々しい自分の傷跡が見える。


「……スライムを数にいれんなよ、というか、もしヒドラが生きてたらどうするつもりだったんだ」


 もし、というか状況的にはその可能性のほうが高いだろうに。


『問題ない、仮にヒドラが生きていたとしても、お嬢の敵ではない』

「はあ? 言っとくけどな、ただのヒドラじゃなかったんだぞ、尻尾の先端にも首がついてやがった……三首だったんだ、こいつ」


 俺達もただヒドラに蹂躙されたわけではない。二つの頭がそれぞれどう動き何をするか、ちゃんと把握しながら戦っていた。

 ただ……尾から伸びた三つ目の首を想定していなかった、そんなヒドラの話は聞いたことがなかったし、奴は俺達の背後にその首を潜ませて奇襲をしかけてきたのだ。


「あー、突然変異でしたか」

『なるほど、四人では手に余るはずだな』


 二人(?)は特に驚いた風もなかった、酒場で最近来なくなった冒険者が結婚して引退したらしい、という話を聞いた時ぐらいの雑な感想だった。


『さておき、貴様はその数に含めるなといったスライムに治療を受けているのだ、もう少し敬意を払ってはどうか』


 スライム本人……本人と言っていいのかはわからないが……が言った。


『体質を細胞分裂促進作用のある培養液に変化させてまる三日、余計な細胞を喰い、患部を殺菌消毒。我輩、貴様のために尽力してやっているのであるがな』


 どこから発声しているのかは検討もつかないが、確かに声は聞こえる。


『生意気は結構だが立場を弁えろよ。お嬢が救命に尽力しなければ、今頃貴様は、ヒドラがいなくなったことに気づき、縄張りを荒らしに来る魔物達の良い餌であったのだからな』


 それを言われてしまえば、もうぐうの音も出ない。俺が動けないのは本当だし、飯を食わせてもらった時点で、俺の警戒心は半ば無意味とも言える。

 コイツらが何者で何を企んでいようと、俺は抵抗できないし、何かされるなら、もうされているだろう。


「では、いくつか確認したいんですけど」


 女は道具袋から、折りたたまれた茶色い用紙を取り出した。ギルドが冒険依頼(クエスト)を出すときに使用するもので、無駄に頑丈で燃やしても沈めても変化がない。


「身長百七十六cm(セーチ)、瞳の色は赤、毛髪は白―――」

 

 俺の身体的特徴――ギルドに登録されている個人情報を羅列し、本人照合を行っていく。


「しかし、白髪は珍しいですねえ、赤い瞳も南方大陸(コルセウニ)ぐらいでしか見ませんのに」

「……やめろ、外見の話は」

「あら、これは失礼、ではですね、お名前を聞かせてもらってもいいですか? これでもし、探してる人と別人だったら悲しすぎるので」


「……ハクラ」


出身地名(ホームネーム)は?」

 

 あえてぼかした部分……出身地名に言及され、舌打ちをする。しかし、用紙には登録してある俺のフルネームが明記されているだろうし、隠す意味も実のところはないのだ。単なる習慣と、悪癖だ。

 ただ、自分の名前がとてつもなく嫌いなだけだ。

 俺は苦々しく言い直した。


「………ハクラ・イスティラ」


『ふむ? 西の魔女の牢獄か。中々妙な所から来たのだな、小僧』


 俺のフルネームに反応したのは、女ではなくスライムだった。俺は目を見開いて、それを凝視した。


「アオ、知ってるんですか?」

『贄や道具として人間を飼い殺しにする魔女は多いが、その家畜小屋の規模が街と呼べる大きさまで拡大させた者は限られる。人繭のセリセリセ、女郎蜘蛛のカーネリ、酷嬢イスティラ、どれも最悪の魔女と呼んで良い悪魔以上の悪魔ばかりよ。よくぞ鳥籠から抜け出せたものだな、小僧』


「……随分と詳しいんだな」


 人に言いたくない出自の話を、ぺらぺらと、それもスライムにされるとは思わなかった。


『そう睨むな。別に流布しようとも思わぬ。普通の人間ならばわからぬ事だし、それを秘そうとした貴様は正しい』


「……くそ、つーか、お前の名前は」

「はい?」

「何だその質問は全く想定してなかったみたいな顔はよ! お前の名前だよ!」

「全く想定してませんでした……」

「ひっぱたくぞ女ァ!」

「はあー? 聞こえませーん、女じゃありませーん! ちゃんと名前がありますー!」

「だからその名前を教えろっつっていってええええ!!」

『大声を出すな小僧、そして大声を出させるなお嬢』


 身動きできぬまま痛みに震える俺を見て、この女、「あ、やり過ぎちゃった」と呟いた。わざとかてめえ。


「冗談ですよ、冗談。こっちはアオ、私の旅の道連れです」


 薄々察してはいたが、やはりアオ、と先ほどから呼んでいたのは会話の流れ的にもこのスライムのことだったようだ。

 固有の名前を持ち、人語を理解どころか、常人が知る由もない魔女の街の知識を有し、俺の治療を自らの意志で行う事のできるこいつを、スライムと分類していいのなら、だが。


「で、お前の名前は?」

「秘密です」


 人差し指を口の前に立てて、パチンとウインクされた。


 ブチッ


 数秒して、女の顔が強張った。俺の形相の変化を見て取って、本気だと理解したらしい。


「違います違います落ち着いてくださいいいですか手順というものがあるんですってば」

「俺に残された手順はお前をしばき倒して亡き者にすることだけだ」

「その怪我でそんなことしたら本当に死んじゃいますよ!」

「お前を消せるなら本望だ」

「そのレベルでキレたんですか!?」


 繰り返すが俺は自分の名前が嫌いであり、口にするのも嫌だ。

 事情が事情なので自らそれを言わざるを得なかった。それは仕方ない。

 だが、その果てに自分は名乗らないなどと言う舐めた真似をする奴を許してはおけない。命は救われたかもしれないが、だからおちょくられて良いかというのは別問題だ。


 本当に立ち上がりかねないと思ったのか、冷や汗をダラダラと流しながら女は言った。


「条件があります」

「あぁ?」

「あなた、未来永劫一生涯、私に尽くしてくれます?」

「するわけねぇだろ何だその初対面の人間に対する過剰要求!」

「じゃあやっぱり教えません」


 俺が全てをなげうって顔面に拳を叩き込んでやろうと気合を入れた直後、ですが、と続ける。


出身地名(ホームネーム)はリングリーン、知り合いからは、もっぱらリーンと呼ばれています」


「……リングリーン?」


「です、聞き覚えぐらいはあるのでは?」


 女……自称リーンは、得意げに胸を張った。

 が……


「そりゃ知ってるは知ってるよ、けどおとぎ話だろう、リングリーンの魔女なんざ」


 それはどの大陸のどんな地方にも、形はどうあれ伝わっている童話の主人公の名前だ。

 世界で唯一、善良を成した魔女、とも呼ばれている。


『おとぎ話ではない。お嬢はリングリーンの直系、南の最果ての魔女の後継者だ』


 先程から俺が怒りに身を任せようとする度に、地味に右腕を締め付けてきていたスライムが口(は見えないが)を挟んできた。


『故に我輩はお嬢の眷属なのだ。竜を従えた魔女の子孫なのだ、スライム一匹従えられぬ道理はあるまいよ』


「………」


 リングリーンとは、世界で初めてこの世界に現れた、邪悪なる悪魔――魔王を討ち滅ぼしたと言われている魔女の名前だ。

 その魔女は、魔王が生み出し、世界に蔓延らせた邪悪なる“魔物”という生物達を説き伏せ、導き、従えて、強大なる蒼き竜の加護を受け、共に戦いこれを討ち滅ぼしたという。


「俺がその名前を聞いたのは、童話と詐欺師のトークの中だけだ」

「はあ、随分とお耳が悪いご様子ですね。実は今も私の声が聞こえていないのでは?」

「このタイミングでなんでそんな斬新な罵倒ができるんだお前」

「私が名乗ってそのリアクションを返してきたのはあなたで記念すべき三百六十八人目だからですよ」

「数えんのか全部」

「それと、話をするときはちゃんと人の顔を見てください」


 その言葉は無視して、俺は目をそむけた。

 異様な執念を感じる……というか普通に恐ろしい。

 とりあえず名乗るつもりはないようで、それはつまり俺からすれば信用する訳にはいかない、ということだ。

 確かに、気になる女ではあるのだが……


「…じゃあ、リングリーン」

「知り合いにはもっぱらリーンと呼ばれています」

「……リングリーン、お前」

「リーンと、呼ばれています」

「………………リーン」


 数秒にらみ合い、俺が折れた。なんだこの屈辱は。


『お嬢、楽しく話しているところ済まないが』


 ふいに、スライム(固有名詞はなんとなく嫌だった)が言った。


「はい?」

『客のようであるが』 


 この時点で、俺は自分がどれだけ消耗していて、注意力散漫だったかを理解した。

 言われた耳をすませば、はっきりわかる。枯葉を踏みしめる小さな音、喉の奥から隠しきれない唸り声、ポタポタと水滴の垂れる音。

 こちらが気づいたことに、向こうも気づいたのだろう、気配を隠すことをしなった……十頭近く居る。


「……マジかよ」


 俺が呟くと同時、そいつらは姿を現した。

 そこらの野犬など問題にならない、二メートル超えの体躯に、引き締まった全身の筋肉が膨れ上がって血管が浮き出ている。

 爪は長く、牙はそれより鋭く研がれ、目をらんらんと光らせる頭部は、何の因果かヒドラと同じ二つ。


双頭狼(オルトロス)……!」


 魔物化した狼、首から枝分かれした二つの頭部が、合計四つの瞳で舐め回すように俺たちを見た。

 それが、群れで取り囲んでいる……ヒドラが死んだことを知り、血の匂い……俺のだ……を嗅ぎつけてやってきたのだろう。

 万全の状態で、装備がちゃんとあっても、この数を相手にするのはかなりの手間だ。

 だが、今は武器は無く、体は動かず、足手まといがいる。女……リーンはどう考えても前衛(フロントマン)ではない、冒険者である以上、戦えないことはないだろうが、それでも後衛か治療役(ヒーラー)なのは装備からもわかる。四方八方から襲いかかられたら、対処できるわけがない。


「……今すぐ逃げろ」

「はい?」

「俺が食われてる間に、できるだけ遠くにだ」


 ……選択肢はひとつしかない、抵抗して逃げる獲物と、動かず抵抗不能な獲物。

 何匹かはこっちで引きつけられるだろう、残りは自分で対処してもらうしかないが、この場で二人共食われるよりマシなはずだ。

 最も、騒ぎを駆けつけた森の魔物が、また襲ってこないとは限らないが……


「え、ハクラ、食べられたいんですか?」

「俺が囮になってる間に逃げろっつってんだよわかれよ!」


 リーンはこの期に及んですっとぼけた事をのたまった。

 その顔に危機感は一切感じられず、全く動揺していない。

 何だこいつは。頭がおかしいのか。

 俺が本気でそう思い、そのまま口にしようとした。


『まあ黙ってみていろ、小僧』


 遮ったのは、そんな声だった。


『そもそも疑問に思うが良い、お嬢は一人でこの森の奥地まで来て、一人で貴様の食う食料を集めて回っていたのだぞ。どうやってだと思う?』


「……あ?」


 そこで俺は完全に失念していた、真っ先に浮かぶべき疑問を、リーンがあまりに堂々としているが故に抱いていなかったことに気づいた。


 ヒドラの巣で壊滅した冒険者のパーティの事後調査の依頼。


 女一人の冒険者に、許可など出るはずもないのだと。


 リングリーンは、俺達を囲んだオルトロスの中でとひときわ大きな個体……群れのリーダーなのだろう……に無警戒に近寄った。


「お、おい馬鹿!」


 それに合わせるようにして、オルトロスが動いた。瞬時にそのか細い喉がへし折られる姿を幻視した。

 

「ハッハッハッハッハッハッハッ」


「……あ?」

 

 ……信じられなかった。

 オルトロスは凶悪な魔物だ、肉食、獰猛、群れで狩猟する生粋のハンターだ。

 人間なんて、連中の大好物だ、まして連中の目の前にあるのは、若い女の柔らかい肉だ、何を差し置いても飛びつくご馳走に違いない。


「よしよし、いい子ですね」


 それが今、まるで飼い犬が何かのように頭を差し出し、撫でられるがままになっている。気持ち良さそうに目を細め、ぺろりとその手をなめた。


『言ったであろう。お嬢は あらゆる魔物を従えたリングリーンの魔女の直系、その正当なる後継者であると』


 得意げに、スライムはそういった。


『魔物はお嬢の敵ではない。従順なる眷属である。あらゆる魔物は、お嬢に従い尽くす。腹を空かせた獰猛なオルトロスも、喰うに喰い尽し良く肥えた突然変異のヒドラでもな』


 バウ、とオルトロスのボスが一声吠えると、俺達を囲んでいた群れが背を向けて、潮が引くように去っていった。数分前の緊張感は消え失せて、嘘のような静寂が戻ってきた。


「ヒドラが居なくなったのを見に来たみたいでしたね。もう死んでしまったので、縄張りにするならご自由に、って言ったら、喜んでました」


 なんでもないように戻ってきたリーンは、笑いながらそういった。

 

「お、お前、魔物と会話できるのか!?」


「はあ、普通の人はできないんですよね、不思議なことに」


 ……なんでこの女が一人でここまでこれたか、理解できた。


 ヒドラが生きていても関係なかったのだ。そもそも襲われる事がないし、まして依頼は事件の経緯と冒険者の末路を探る事だ。俺が死んでいるのを前提に、最初から、当事者であるヒドラに話を聞くつもりで、やってきたのだ。


「ハクラが動けるようになるまでは、ここにいても良いそうです、よかったですねー、あの子達が話がわかる子達で」


 リーンは、満面の笑みを浮かべた。洒落にならないことに、小憎たらしいほど美しく、愛らしい表情だった。


「さてさて? なにか私に言うことが有るんじゃありませんか? ハクラ?」


 俺がずっと、意識的に見ないようにと背けていた顔を、リーンは掴んで、ぐいっと己に向き直させた。

 目が合う。じいっとこちらを見る瞳は、透き通った緑色をしている。

 陽光を受けて、葉から滴り落ちる朝露の雫は、きっとこんな色をしているに違いない。

 きらきらと輝いて、宝石以上に澄み渡り、見つめたものを魅了して、心を奪って惹きつける、世界に一つしかない翠玉色。


 初めてリーンを認識したその時から、多分これを見つめてしまったら、俺は「負ける」と思っていたから、見ないようにしていたのだ。


 リーンがどれだけの事をしても、全て許して両手を上げてその言い分を聞き入れてしまいそうになるから、見たくなかったのだ。


「……ドーモアリカトウゴザイマス」 

「うわ、ここまで気持ちのこもってない感謝は久々に聞きましたよ……」


 リーンは呆れたようにつぶやいて、俺の顔を解放した。


『お嬢、わかっててやっているな』

「ええ、まあ」


 そして、ふふ、と楽しそうに笑った。


「私の瞳は、綺麗でしょう? 照れちゃいました?」


 どうやら、この女はちゃんと自分の魅力というものを理解しているらしい。

 体の一つも満足に動けば、叩き倒してやるのだが。


 何にせよ、俺と、リングリーンの魔女との出会いは、命を救われ、一方的に介護される形で始まった。





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