91 葬魔灯ノア――1
ロザリーは高原に立っていた。
夜空が近い。
高原は四方を険しい峰々に囲まれ、まるで神の創った箱庭のよう。
足元には白く儚げな花が咲き乱れ、夜風が芳香を空へ運ぶ。
再び見ることはないと思っていた、浮世離れした光景が目の前に広がっている。
「ここは――」
夜風が後ろから吹き抜けた。
その後を追うように、背後から声がした。
「――ここはエリュシオンの野」
ロザリーが振り向くと、そこにヒューゴが立っていた。
「三度目、か。困った子だ」
ヒューゴはどこか悲しげな、何かを諦めたような、そんな表情をしていた。
「ヒューゴ。私、そんなつもりなかったの。ノアさんは
「よほど伝えたいことがあるのだろうよ。それが何かは知らないが」
ヒューゴはまるで懇願するように言った。
「気をつけるんだ。ネクロは死者を操るが、ネクロ本人は生きている。生者にとって死は毒だ。特に未練を残して死んだ魂は、ね」
ヒューゴの黒髪が夜風を孕む。
彼は目を細め、遠く峰々を眺めた。
「最期を体験するたび、君の心はどこか壊れていく。死とはそういうものだよ」
「これからヒューゴやグンターの時みたいに、ノアさんの死の瞬間を見ることになるのね」
「そうだね。でも、僕らの時とは少し違うみたいだ」
「違う?」
ヒューゴが手をかざすと、そこに窓が現れた。
何の支えもなく、窓枠だけが宙に浮かんでいる。
ヒューゴが窓に手をかけ、開け放つと。
「ここは……ソーサリエ?」
そこに浮かんだ光景は、ロザリーもよく知るソーサリエの
「でも、校舎の感じが違う? 古びているような……」
窓は
熱心に書物を読んでいた男子生徒が、眼鏡を外して目頭を揉む。
「まさか……この生徒がノアさん?」
「そのようだね」
「若い。若すぎるわ。亡くなるのは、このずっと後のはずよね?」
「【葬魔灯】で見るものは、死者の想いに大きく左右される。決まっているのは、物語の結末で主演が死を迎えるということだけ」
ロザリーはもう、窓に映る光景から目を離せなくなっていた。
意識のすべてが若きノアへ向かう。
ヒューゴの声が、ロザリーの意識を窓の中へ
「ノア=カーシュリンは、いかに生き――いかに死んだのか」
「彼が伝えたいこととは何なのか」
「キミはノアと魂を重ね、身をもって知ることになる」
「さあ。逝くがいい」
ロザリーの意識は、窓の中へ飛び込んでいった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ソーサリエ、
静寂に包まれた室内で、ロザリーの意識はノアの肉体に宿っていた。
ロザリーの目に、大量の文字が飛び込んでくる。
(これは……
ロザリーの意思に関係なく、右手がぺラリ、ぺラリとよどみなくページをめくっていく。
(早っ、追いつけない!)
(ノアさん、このスピードで読めてるの?)
(とすると、ヒューゴの知識を受け継いだ私よりも
(葬魔灯もなしに、私と変わらない年齢で……)
「ノア!」
背後から声がして、ロザリー――ノアは振り向いた。
名を呼んだのは、背の高い男子学生だった。
袖と胸元のボタンがだらしなく開いている。
ロザリーの意思を無視して、口が言葉を発する。
「やあ、サベル」
(え? これサベルさん!? 若っ!)
若きサベルはノアの横を通り過ぎ、彼の前の席に後ろ向きに座った。
そして凄むような口調でノアに尋ねる。
「なぜ授業に出ない」
「ああ、サベル。君は堅物の教官たちとは違うと思っていたのに」
サベルは机をガンッ! と叩いた。
「真面目に答えろ!」
その声は静かな
「僕に構うのは、君くらいだよ」
そう呟いてノアは肩を竦め、それから小声で答えた。
「僕には授業よりも優先すべきことがある」
「また魔導具か?」
「これさ」
ノアが手元の書物の表紙を見せる。
「古代……魔導語か?」
「〝旧時代〟の言語だよ。遺跡研究には欠かせないものでね」
「やっぱり魔導具じゃないか。お前、騎士でなく技師になるつもりか?」
ノアがおかしそうに笑う。
「やだなあ、サベル。
「そうさ。お前は
「確かにそうだね」
「じきに卒業試験が始まる。このままじゃお前、卒業できないぞ」
「それは困る。騎士にならなきゃ跡目を継げないし、継げないと遺跡の研究ができなくなる」
「だったら――」
「――でも、今いいとこなんだよね。読むたびに知識が血肉になっているのを実感できる。今を逃すと、一生後悔しそうなんだよ」
「ノア! お前な!」
そのとき、ノアがポンと手を打った。
「そうだ。卒業試験を延期させればいいのか」
「……はあ?」
「ああ、いや。冗談だよ」
その言葉を最後に、視界のほとんどが真っ黒に染まった。
ノアが座っていた椅子の横にあった窓だけが色付いていて、そこに映る景色がぐるぐると変貌する。
再び明るくなると、周囲の光景が一変していた。
ノアは椅子に座り、膝の上に置いた自分のこぶしを見つめていた。
こぶしの中は手汗でびしょ濡れだ。
隣から年配の男性の声がした。
「ノア! いい加減、顔を上げないか!」
「はい、父上」
そう返事したのに、視線は一向に上向かない。
「いや、はは……参ったな」
そう言ってこぶしを震わせるばかりの息子を見て、父は大きくため息をついた。
「申し訳ない、愚息がこんな有り様で。人間不信なところがあるとは思っておりましたが、まさかここまでとは……」
ノアの父が謝罪すると、テーブルの向こうからも男性の声が聞こえた。
「いやいや! 女遊びに
「そう言っていただけると……」
そのとき、テーブルの向こうから鈴を転がすような声がした。
「魔導具にお詳しいのですよね?」
初めてノアが顔を上げた。
目の前には長テーブルがあり、その向こうの窓から見覚えのある街並みが覗く。
ロザリーは気づいた。
(この長テーブル。窓から見えるのは領都イェル? ということは、ここは領主の館の居間だ!)
澄んだ声の主は、十代後半の美しい女性だった。
「私、あまり存じ上げないのですが。魔導具とはいったいどのようなものなのですか?」
それをきっかけに、ノアの口から次々に言葉が溢れてきた。
「魔導具とは、魔導の術を再現する道具とお考えください」
「再現? それは誰でも使えるのですか?」
「それこそが最も重要な点です。術が使えなくても、魔導を待たない民草にだって術を再現でき得るのです」
「魔導が無くても? すごい!」
「そう! すごいのです! かつてこの世界には、高度な文明が存在しました。そこでは食糧生産も建築・運搬・教育に至るまで、ほとんどの労働を自律的に動く魔導具がこなしていました。人々は文化的な活動にのみ、労力を費やしていたのです」
「まあ! まるで楽園のよう!」
「魔導具は可能性の海です。〝旧時代〟のように、とはいかないまでも、魔導具を発展させてゆけば世界はもっと、もっと良くなる。そう私は信じているのです!」
「素晴らしいお考えですわ、ノア様!」
ノアはハッと我に返り、頭をガシガシと掻いた。
恥ずかしそうに俯きながら、震えるような声で話す。
「……こんなに異性と話したのはあなたが初めてです、エヴァ殿」
「まあ。私たち気が合いそうですね、ノア様」
エヴァは眩しい笑顔をノアに向けた。
エヴァの笑顔を最後に、また視界が暗転した。
居間の窓に映る景色だけが変貌していく。
そして――
「……ア! ノアったら!」
「ん……」
ノアがふと見ると、エヴァの顔がすぐ近くにあった。
髪を結い上げ、純白のドレスを着ている。
「やあ、エヴァ」
ノアは微笑み、愛しい人に目を細めた。
その反応にエヴァは眉を顰め、ノアの耳元で囁いた。
「今、立ったまま寝てたわよ?」
「そうかい? いやそんなことはないと思うんだけど……ハハ」
「あなた。今から何をするかわかってる?」
「えっ」
「亡くなったお父様に、立派な姿を見せるんじゃなかったの?」
ノアの背筋がグッと伸びる。
「そうだった。すまない、研究続きで寝不足で――」
「――言い訳は結構です。今日だけは研究を忘れて、私のことだけを考えて?」
「もちろんだ。今日、僕たちは夫婦になるんだから」
目の前の扉が開き、教会内の参列者の顔が見える。
通路に敷かれた白い布の上に二人が歩み出ると、若い女性を中心に歓声が上がった。
花びらで飾られた通路を進み、やがて祭壇に至る。
頭上のステンドグラスから、色鮮やかな光が二人に降りてきた。
「ほら。またぼーっとしてる」
エヴァに肘で打たれ、ノアは彼女を見た。
「綺麗だよ、エヴァ」
エヴァは視線を逸らし、頬を赤く染めた。
「……ずるいわ。その一言で帳消しにしようなんて」
「思ったことを口にしただけさ」
神父がゴホン! と咳払いし、二人が口を閉じる。
「汝、ノア=カーシュリンはエヴァ=フォクスを妻として迎えることを――」
誓約の言葉の途中で視界が暗転した。
ステンドグラスだけが色鮮やかに残り、その内側が渦を巻いて変貌していく。
再び明るくなると、また景色が一変していた。