89 蝶の池
一行はただちにロザリーが見たという〝蝶の池〟へ向かった。
顔ぶれは、ロザリーたちソーサリエ生四人に加え、アデルとアルマ、それにサベルの計七人。
一人ずつ馬を駆り(アデルとアルマは二人乗りだが)、夕暮れ前には問題の滝の前に到着した。
まずサベルが滝の横の崖を登っていった。
滝の真ん中辺りに岩が迫り出した部分があり、そこでサベルは何かを見つけたようだ。
岩に杭を打ち、ロープを垂らして皆を呼び込む。
ロザリーたちはロープを掴み、水飛沫を浴びながら滑りやすい岩肌を登っていった。
登りきったロザリーがふと、アデルとアルマはどうするのだろうと気になり下を覗いた。
すると彼女たちは横向きになり、四本ずつの手足を器用に使って登ってきていた。
ロザリーが岩の上から手を貸すと、姉妹が言った。
「「蜘蛛みたい、って思ったでしょ?」」
ロザリーが答えに窮し、黙って姉妹を引き上げると「いいのよ」「これが私たちなのだから」と笑った。
「こっちだ」
サベルが見つけたのは洞窟だった。
迫り出した岩は滝の裏まで続いていて、そこにぽっかりと穴が空いている。
「これよ、私が見たのは」
ロザリーの言葉に一行が頷く。
サベルを先頭に、洞窟へ入った。
洞穴は短く、潜り抜けると涸れ谷の崖の内側に出た。ロザリーが見た獣道が奥へと伸びている。
獣道を歩き出すと、ラナが呟いた。
「なんだか、巨人の箱庭に迷い込んだみたい」
確かにそうだ、とロザリーは思った。
一面に草むらが広がり、ぽつりぽつりと樹木が立つ。
その向こうを崖の岩肌が城壁のように取り囲んでいて、見上げれば空が見える。
まるで自然の檻の中を歩いているようだ。
そして箱庭と聞いてロザリーが思い出すのは、神の箱庭――エリュシオンの野の光景。
(あの日から、もうすぐ五年かぁ)
〝蝶の池〟はすぐに見えてきた。
水面が陽光を浴びて、キラキラと輝いている。
「地上目線で見ると蝶の形ってわかんねえな」
と、ロブが言うと、
「でも妙な形だ。だからノアさんも気づいたんだろう」
と、ロイが言う。
ロザリーは腰に差した剣を、鞘ごと手に持った。
イクロスで購入した剣だ。
それを池の中へ垂直に刺し入れていく。
肘の直前まで水に浸かった辺りで、剣の先端が池底に触れた。
「思ってたより深い。けど、歩いて渡れる」
ロザリーがざぶりと池に入る。
水面が胸のすぐ下まできた。
続いてラナ、サベルが池へ。
ロブとロイが、陸からラナに言う。
「気をつけろよ」「大蛇とか、いかにも出そうだ」
ラナの顔がサーッ、と青ざめる。
「やめてよ、ロブロイ!」
ロブとロイはニヤリと笑い、池へ入った。
最後に残ったアデルとアルマに、サベルが手を差し出した。
「大丈夫か?」
「ほんと心配性ね、サベル」「お気遣いは結構よ」
鏡背合わせの姉妹はサベルの手を取らず、池へ飛び込んだ。
大きな水飛沫が上がり、それが静まると、髪までずぶ濡れとなった姉妹が現れた。
「ホントに大丈夫?」
ロザリーがそう問うと、姉妹は言った。
「ええ――」「むしろ――」
そして姉妹は、身体を震わせて叫んだ。
「「冒険してるって感じ!!」」
ロザリーは、「それは良かった」と笑い、ラナやロブロイも笑った。
腰まで浸かりながら、池の中を行く。
先頭のロザリーは水面から上に剣を持ち、いつでも振るえるようにしている。
が、何かが襲ってくる気配はない。
「おっ、魚! でけえ!」
「んなもん見てねえで水の上を警戒しろよ、ロブ」
「勘弁しろよ、ロイ。水中こそ危ねえだろ」
「そうかぁ? 蛇は水面を這いずるもんだぜ?」
「そりゃ普通の蛇だ。大蛇は水中を泳ぐもんだ」
「あー、重いからか。どこで知った?」
「……いや、そうかなと思っただけだ」
「は?
「てめえ、兄に向ってその口の利き方はなんだ?」
「数秒早く生まれたくらいで兄貴風吹かすんじゃねえよ」
「数秒でも兄は兄だろうが」
「数秒ぶんの敬意は払ってやってんだろ、知ったか兄貴」
「やんのか、ロイ」
「おお、やってやるぜロブ」
そのまま、池の中で胸ぐらを掴み合うロブとロイ。
ラナが呆れたように言った。
「やめなよロブロイ。あんたたちはケンカしたって、どうせ泥仕合にしかならないんだからさ」
ロブとロイはしばし睨み合い、同時に「「ふん!」」とそっぽを向いた。
サベルが先を行くロザリーに問う。
「……あいつらこそ大丈夫か?」
ロザリーは前を見たまま、答えた。
「問題ないです。彼らにとっては日常会話みたいなもので」
「そうか。俺にはわからんな」
ロザリーが振り返る。
「一人っ子ですか?」
「ああ。……弱小貴族だが、跡取りだった。親には悪いことをした」
「私も一人です。親の気持ちなんてわからないし、気にしたって始まりませんよ」
「助言はありがたいが、半分以下の年齢の小娘に言われると腹が立つな」
「それは失礼」
ロザリーは前を向いた。
そこからしばらく行くと、枯れ木が見えてきた。
「これか……」「でけえな……」
ロブとロイが呆然と呟いた。
枯れ木の幹回りは想像より大きく、よほどの巨木であったことが窺える。
自然と歩く速度が上がり、ざぶり、ざぶりと水面に波が立つ。
「入るよ」
そう宣言して、ロザリーは枯れ木の
中は完全な空洞で、館の居間くらいの広さがある。
隅に、小さなボートが漂っていた。
日が暮れかかって薄暗いが、見上げれば空が見える。
ロザリーは
最後に姉妹が入ってくると、彼女たちはボートを見て身震いした。
「ノアさんの?」
ロザリーの問いに、姉妹が頷く。
ロザリーは、目線と同じ高さにあるボートの縁に手をかけた。
そのままボートをギィッと揺らす。
ボートは振り子のように左右に揺れ、その中が見えた。
船の中にはオールとロープだけ。
姉妹はそこに父の亡骸がないことに、心から安堵した様子だった。
ラナが
最後に吹き抜けになっている上を見上げ、それから誰に言うでもなく尋ねた。
「じゃあノアさんはどこ行ったの?」
その問いをきっかけに、皆が
「ただの枯れ木に見えるが」
「アルマ、何かあった?」「いいえ。底も異常なし」
「上かなあ。ロザリー、登ってみる?」
「自分で登りなさいよ、ラナ」
「おい!」「こっちだ!」
ロブとロイが何かを見つけた。
そのおどけたような双子の動きに、ラナが冷めた口調で問いかける。
「……ロブロイ、何ふざけてんの?」
するとロブロイは、興奮した様子で叫んだ。
「ここに何かあるんだよ!」「見えないけど、何かある!」
「またまたぁ~」
ラナが近寄っていき、ロブとロイの言う方へ手を伸ばす。
「んっ?」
ラナの顔色が変わる。
先ほどのロブロイと同じような動きで、手足をバタつかせた。
「ほんとだ、ある! 壁? 陸? 見えないけど何かある!」
ロザリーはピンときた。
すらりと剣を抜き、ラナたちのほうへ向かう。
「わっ! わっ! 何するつもり!?」
「いいから。退いて、ラナ」
ラナは素直に場所を空けた。
ロザリーは剣を待たぬ左手で、何もないはずの空間を確かめる。
「ここね」
ロザリーは剣を寝かせると、その何かの表面を、切っ先でギッ、ギギッと削った。
切っ先の這った跡が破れ、下から石床が覗く。
「なっ、何だこりゃ!?」「どういうトリックだ!?」
ロザリーは手で確かめながら、見えざる何かの輪郭に、爪で引っ掻くように削っていく。
「【隠者のルーン】。対象をとても見えづらくする効果があるの」
サベルが眉をひそめる。
「
「ですね。だからこれは【隠者のルーン】の効果を再現した魔導具」
ロブとロイが色めき立つ。
「「魔導具!?」」
「【隠者のルーン】の効果を持つ、布状の魔導具を貼り付けてるの。アトルシャンの連中が使ってたからピンときたんだ」
後ろで、ラナが手を叩く。
「思い出した! あいつらの姿、森の中で全然見えなかった! これのせいだったのね!」
「そう。奴らは同じ効果のマントを身に着けてた。……よし、これでいいかな」
ロザリーは剣を納めた。
輪郭が露になった石床に、ロザリーが飛び乗った。
まだ透明な部分が残る床を足の裏で確かめつつ、幹を手探りする。
「あった、扉ね。……ノアさんって
水の中の姉妹がロザリーがを見上げる。
「そうだけど」「なぜ?」
「扉に【鍵掛け】のまじないがかかってるから」
「「……」」
姉妹は返事をせず、黙りこんだ。
自分の言葉が、父の気配を身近に感じさせてしまったのだろう。
ロザリーはそう察し、【鍵開け】に取り掛かった。
指を波打たせ、両手を重ねる。
鍵の難度は、そう高くない。
両手の形を鍵に合わせ、左に捻る。
「ん?」
鍵となった両手が回らない。
焦って逆向きに回すと、すんなりと鍵は開いた。
「右回し。ノアさん、性格悪いなぁ」
ロザリーはそう呟いてから、後ろを振り向いた。
「開いたよ。アデル、アルマ、先に入る?」
尋ねられた姉妹は、揃って硬直してしまった。
顔色が悪いのは、水で身体が冷えたせいではないだろう。
「ちょっと待ってくれ」
サベルが手を挙げた。
そして振り返り、姉妹のほうを向く。
「わかっていると思うが――」
そう前置きして、サベルは姉妹に言い聞かせるように話した。
「ここにノアのボートがあるということは、彼はこの中にいる可能性が高い。もしかすれば、生きているのかもしれない。だがおそらくは――」
「――わかっているわ、サベル」「ほんの少し、怖気づいただけ」
「迷いはないわ」「覚悟はできてる」
「……そうか。二人とも強い子だ」
サベルはそう言って、姉妹の頭に右手と左手をそれぞれ置いた。
姉妹は揃って、邪険にその手を払いのける。
「もう! 子供扱いはやめてよ」
「私たちはもう丸二年、領主やってるのよ?」
言葉とは裏腹に、姉妹の顔には照れくさそうな笑顔が浮かんでいた。
そして一行は、姉妹を先頭に扉の奥へと向かった。
ノア=カーシュリンの眠る、遺跡へと。