85 グレンと黒獅子
レオニードの門。地上階、厩舎。
夜半にも関わらず、年寄りの馬丁が忙しく働いている。
「あの、すいません」
突然現れたグレンを見て、馬丁は顔をしかめた。
「
「馬をお願いします」
「……おい、ふざけてるのか?」
馬丁はますます顔をしかめた。
「どうせ実習に音を上げて逃げるんだろう! 逃げるなら自分の足で逃げやがれ!」
「いや、そんなつもりは」
「だったらなんだ! 皇国にでも攻め込むつもりだっていうのか、ええ?」
「攻めはしませんが、行くのは皇国側です」
それを聞いた馬丁は、歯の抜けた口をポカンと開けた。
「……やっぱり実習が厳しすぎるんだなぁ。だから頭がイカれてこんなこと言いやがる。もう少し優しくしてやれと指導騎士に言っとかねえと」
そのとき。
厩舎の外からよく響く声が聞こえてきた。
「グレン。まだか」
その声を聞いた馬丁は飛び上がって驚いた。
すぐさまグレンに近寄って耳打ちする。
「今の、殿下か? 殿下のお供で出るのか?」
「ええ、そうです」
「おめえ、それを早く言いやがれ!」
馬丁はグレンの頭をぽかりと叩き、それから馬を馬房から出す準備を始めた。
一番いい馬とそれなりの馬の二頭に装具を付け、門の方へ引いていく。
皇国側の門は、王都の城門よりも巨大で堅牢だ。
警備の騎士も至る所に立っていて、油断なく警戒している。
馬丁の引いてきた馬にまずニドが跨がり、グレンも続く。
警備の騎士たちは当然二人の動きに気づいているが、誰も制止したりはしない。
ニドが「外へ出る」と言うならば、それに従うのみである。
地響きを立てて門が開く。
二人は〝飛竜回廊〟へと馬を駆った。
「おっとと……」
グレンは馬を御すのに苦労した。
要塞の馬は甲冑を着た騎士を乗せる戦馬で、気性が荒くプライドも高い。
またがる馬の機嫌を取るように手綱を捌くと、少しずつ言うことを聞くようになってきた。
余裕のできたグレンが、〝飛竜回廊〟を見上げる。
両脇にそびえる絶壁は切れ目なく続いていて、頂上は霞んで見えない。
軍が進むに十分な広さのある道が、壁の圧迫感によってとても
グレンは思う。
(まるで、終末へ向かう一路に迷い込んだようだ……)
前を行くニドが振り返った。
「遅いぞグレン。置いていくぞ」
「すぐに!」
グレンは馬を走らせ、ニドの隣へ向かった。
〝飛竜回廊〟は、右へ左へと蛇行している。
グレンがニドに追いつく頃には、もう〝レオニードの門〟は見えなくなっていた。
「気分はどうだ」
「悪くはないです。久々に外に出ましたから」
「良くもないか」
「閉塞感は感じています。ハイランドに圧されるような」
「閉塞感、か」
「殿下はお感じにならないので?」
「私には、あの要塞の中のほうが狭く、息苦しい」
「左様で――むっ!?」
そのとき、二人の上を大きな影が通り過ぎた。
グレンはすぐさま剣を抜き、上空を警戒する。
「殿下! 今、何かが上を!」
ニドはグレンに馬を寄せ、剣を下ろさせた。
「気にするな。
「飛竜?」
「なぜ〝飛竜回廊〟と呼ぶか、考えなかったのか?」
「それは……そうか、それで」
「ま、気づかなくとも責めはせぬ。連中は霞を喰うからな。姿を見せることは少ない」
ニドは霞がかった上空を見上げた。
「だが、肉も喰う。ここを通る者は奴らのエサだ。連中もまた、王国の護り手だと言えよう」
「皇国の者だけを見定める知能があるのですね」
「違う。王国の者でも襲われる」
「しかし、我々を襲ってきません」
「私といるからだ。連中の長を屠ったことを覚えているのだろう」
「飛竜の長? ――そうか、〝埒外殺しのニド〟!!」
グレンは思わずそう口走り、慌てて手で口を塞いだ。そのままニドの顔色を窺うが、彼は少しだけ笑みを浮かべていた。
「そう呼ぶ者もいるな」
「失礼を! 申し訳ございません!」
「謝ることはない。威名の部類だからな、いくらか私を強く見せてくれる」
「は……」
「しかしな。あれは埒外ではない。成り損ねだ」
「成り損ね?」
「お前たちの学年は、アトルシャン公国の一件の当事者だ。ならば、十五年前の獅子侵攻についても知っておるな?」
「は」
「出征の折、ここの飛竜どもが邪魔でな。私が先駆けて数を減らすことになった。ある程度飛竜を殺すと、この空を覆うほど巨大な飛竜が現れた」
グレンは再び〝飛竜回廊〟を見上げ、身震いした。
「それが、飛竜の長」
「強大であった。熟練の騎士でさえ悲鳴を上げ、埒外だと呻いたほどだ」
「なぜ殿下は、それが成り損ねだと?」
「私一人で討伐できたからだ。大した傷も負わずにな。埒外とは人の埒の外にあるものであろう。であれば、あれは埒外ではない」
「殿下もまた、人の埒の外にいるということでは」
「私はそこまで思い上がってはいない」
「……失礼しました」
〝飛竜回廊〟は突如、終わりを迎えた。
大きなカーブを曲がると、両脇の絶壁が消え、代わりに視界が広がる。
空は白みがかっていた。
見渡す限り草原で、地平線が見渡せた。
グレンがポツリと言う。
「……ハイランドを超えた?」
「そうだ」
「では、ここは魔導皇国?」
「違う。見える範囲は緩衝地帯だ。十五年前の休戦協定で、そう決まった」
「なるほど」
「もう少し、行ってみるか?」
「はい!」
二人を乗せた馬が草原を走る。
馬の足先が、草についた朝露で濡れる。
「――ロザリー=スノウオウル」
ニドの口から出た名に、グレンはドキリとした。
「先ほど口走ったのは、その名だな?」
「は。……殿下もあいつをご存じでしたか」
「知らいでか。私と間違ったということは、ロザリーは私に比する魔導を持っている。そうだな?」
グレンは目を伏せて答えた。
「それは……自分にはわかりません。その域に達しておりませんので」
「誤魔化すな。私が不快に思うとでも?」
グレンがニドの表情を見ると、彼は愉快そうに笑っていた。
「話を変えよう。……十二人。これは何の数だ?」
「今年、黒獅子騎士団に来た実習生の数です」
「そうだ。例年ならば、我が騎士団に来る実習生は十人。運悪く選ばれてしまった者たちだ。だが今年は、自ら選んだ二人が加わった。お前とジュノーだ」
「しかし、もう三人しか残っておりません」
「
「ラムジー指導教官が!?」
「奴はいつもより多いのが嬉しいのか、ずいぶん張り切っているな。だが私は、お前たちを一目見て、ほとんど残らぬと考えていた」
「優秀な者もおります。ジュノーとか」
「そうだな。ジュノーはやり通せるか半々、と考えていた。……オズは予想外だったな。初日に脱落するとばかり思っていた。グレン、奴はなぜ残っている?」
「さて。自分に聞かれましても」
(そうだった。あのお調子者はオズだったな)
グレンが忘れていた同級生の名を思い出して一人頷いていると、ニドが彼の顔をじっと見つめた。
「グレン。貴様だけは残ると確信していたぞ?」
「そう、なのですか?」
グレンは、憧れの騎士に認められたような気がした。
誇らしさに、頬がわずかに緩む。
「すぐにわかった。臭いがしたからな」
「っ、臭いますか?」
グレンが左腕を上げて、脇の臭いを嗅ぐ。
ニドは笑みを浮かべて、首を横に振った。
「臭いとは例えるなら――そう。敗者の臭いだ」
「敗者?」
「負け犬という意味ではないぞ? 負けたくせに、負けたままではおられぬ、往生際の悪い敗者の臭いだ」
「……はあ」
「誰に負けたかは聞かぬ。聞くまでもないしな」
グレンの脳裏に、遠く先を歩む親友の背中が浮かぶ。しかし、次にニドが発した言葉で、その姿が消え去った。
「私もそうだ」
グレンがハッと顔を上げる。
「殿下は最強の騎士です。負け犬ではありません」
「そうだな。もう父王にだって負けぬであろう。私が最強の騎士だ。……
「!」
「獅子侵攻を知っていると言ったな。王国はなぜ負けた?」
「……たしか、〝風のミルザ〟」
「そうだ。皇国が誇る八人の大魔導――魔導八翼の筆頭。騎士の中の騎士と評される男。それまで名も無き騎士であったのに、獅子侵攻の折に突如として現れ、我が道を阻んだ男」
「名も無き騎士? 魔導八翼であるのに?」
「それまで魔導八翼に名を連ねてはいなかったのだ。それどころか、侵攻に際して注意を払うべき騎士として名が挙がることすらなかった」
「ということは……戦前の情報戦から負けていた?」
「魔導院の学者には、そう主張する者もおると聞く。戦う前から負けていたのだとな……だが実際に戦った私に言わせれば、そんなものは敗因足りえない。王国は皇国に負けたのではない、ミルザに負けたのだ」
ニドにとって唯一の敗戦は、十五年の年月が経っても色あせることはなかった。
彼の奥歯がギシリと鳴る。
「私は増長していたのだろう。周囲の――父王の声さえも無視して、ミルザに挑んだ。勝てると思っていた。負けたことがなかったからな。……だが、相対してわかった。これは違う。
グレンが恐る恐る尋ねた。
「それほどまでにミルザは強いのですか」
ニドは自嘲気味に笑った。
「強い――というのかな、あれは。神だとか悪魔だとか評する者も多いが、私はあれこそが埒外であるように感じた」
「……
グレンの口から出たフレーズに、ニドが感心したように頷く。
「フ、人埒外か。うまいことを言う。次からはそう呼ぶことにしよう」
ニドは機嫌よさげに馬を駆り、グレンもそれに続く。
朝日は地平線から完全に姿を現している。
ニドが言う。
「夜明けだ。新たな日常が始まる。覚悟せよ」
「ハッ! ……何を覚悟すればよいのでしょうか」
「鈍いな。見張り番はこれまで。今日から実戦形式の訓練に移るということだ」
「まことですか!」
「私も参加する。ゆえに覚悟せよと言っている」
「っ!!」
ニドは空を見上げ、風が彼の首と頬を撫でていく。
「凪の終わりを感じる。世界が波打つ予感がする」
「……仰る意味が」
「宿敵を倒すべき時が迫っているという意味だ」
「はあ」
理解できずにいるグレンに、ニドは満面の笑みで言った。
「グレン。お互い倒すべき相手が強すぎて、困ってしまうな?」