82 追い出し猟
「見つけられんよ。お前には」
そう確信に満ちた言葉を発したとき。
ロザリーの魔導が膨れ上がった。
離れていても顔を背けたくなるような、禍々しい魔導。
その圧が、殺意が、森を吹き抜けてゆく。
「う、ぐっ!!」
潜伏を得意とするネモが、思わず呻き声を上げる。
森の木々から、圧に驚いた鳥たちが一斉に飛び立った。
「何という魔導圧! 化け物め……っ!」
ネモの全身が粟立つ。
動いてはいけない。
気取られる。
そうわかっているのに、生存本能が「逃げろ! 逃げろ!」と急かしてくる。
飛び去っていく鳥を妬ましく見ていると、首筋に鋭い痛みが走った。
危機を報せる【
術者本人が気づいていない危機的状況を事前に警告してくれる【
せっかく【隠者のルーン】で姿を隠していても、恐怖と痛みで魔導が波立てば、その気配で気づかれてしまう。
見れば、ロザリーはこの森に向かって移動を始めている。
もう気づかれたのかもしれない。
近づくにつれ、圧が重く、殺意が明瞭に感じられる。
「……チッ!」
ネモは素早く立ち上がり、森の奥へ駆け出した。
右手の甲に【星のルーン】を宿すと、さらに逃走速度が上がる。
「……逃げ切れる!」
ロザリーも追ってきている。
怖ろしく速い。
だが、蛇行しながら追いかけてきている。
おそらく、まだ
以前、狩りをしたことがないと言っていた。
獲物の追い方など知らないのだろう。
このまま南ランスローを出て街道に至れば、どうとでも誤魔化せる。
そう、考えていた矢先。
【
瞬間、ネモが急停止する。
深夜の森。
視界には誰もいない。
(だが、微かに……)
ネモが目の前の、暗い地面を凝視する。
すると土肌から、ぬるりと痩せた男性のシルエットがせり上がってきた。
「残念。出会い頭なら、殺しても叱られないと思っていたのだがねェ」
「……スノウオウルの使い魔か」
ヒューゴは恭しくお辞儀した。
「ヒューゴと申します。以後お見知りおきヲ」
「夜ならば、どこからでも出てこれるのだったな」
「オヤ、何故それを。そうか、賊狩りのときの会話を聞いていたのか。ナルホド、ナルホド……」
「それで。私に何の用だ?」
「フフ。嫌だねェ、しらばっくれて」
ヒューゴは小指の爪を噛みながら、恐ろしい形相でネモを
「図ニ乗ルナヨ、覗キ魔ガ……逃ゲラレルト思ウタカァ?」
ヒューゴの声は、底冷えするような殺気を孕んでいる。
(ッ、天井が見えない! 使い魔まで化け物か!)
もし振り返れば、この魔人は一瞬で間を詰めて、鋭い爪を自分の喉元に突きつけるだろう。
(……いや。そのまま引き裂く、か)
ネモはヒューゴに悟られぬよう、静かに足先を右へ向けた。
しかし。
「黒犬」
ヒューゴの呼び声に応じて、ネモが足先を向けた地面から、獣頭の鎧騎士が這い上がってきた。
ヒューゴに負けじと、獣じみた殺気をもって逃げ道に立ちはだかる。
(こいつも……強い)
ネモが動けずにいるうちに、恐れていた死神の足音が聞こえてきた。
背後の木の枝葉が揺れる音。
次いで、少女の声が響く。
「あなたが監視者ね」
ネモはゆっくりと振り向いた。
ロザリー=スノウオウル。
死人のように白い美貌は闇夜によく映えた。
いつの間にか禍々しい魔導は収まっている。
だがその身体の内側を、使い道を求める魔導が暴れ竜のようにのたうっている気配がする。
「誰の指示?」
冷たい声。
親しくなることを諦めた相手にかける声色だ。
下手なことを言えば命が危うい。と、ネモは直感する。
だが主人である重臣の名を口にはできない。
記憶を失ったネモにとって、拾ってくれた重臣への恩義こそが、唯一の生存理由であるからだ。
「誰? 答えて」
ネモは言葉を発しない。
沈黙。
それが彼の選んだ手段だった。
「はぁ。面倒だな、もう」
ロザリーはため息をついて、ネモに近づいた。
彼の背後に回って膝裏を蹴り、地面にひざまずかせる。
ヒューゴがロザリーに問う。
「どうするつもりだイ?」
「【思考毒】のまじないをかける」
【思考毒】とは、主に自白を強要するときに使う
思考力を奪い、嘘や偽りを言えなくする。
しかし、ヒューゴが即座に否定した。
「無駄ダ。この男は密偵。対策してるハズ」
「じゃあ、どうするの?」
「殺ス」
ネモがフッと笑う。
脅し文句にしては安い台詞だ。
脅しでないとしても、それは何の情報も引き出せずに自分を消すということ。
それは囚われの身となったネモにとって、一つの勝利に他ならない。
しかし、続く会話にネモは自身の認識の甘さを思い知らされた。
「殺しはナシだと言ったはず」
「殺して
ロザリーが眉を寄せる。
「……何ですって?」
「ソレが最も合理的な解決策ダ」
ネモがヒューゴを見上げて言った。
「そんなことをしても俺は吐かんぞ」
ヒューゴが笑う。
「吐くとか吐かないとか、そういう話ではないんだヨ。なぜ
「ヒューゴ、でもさ――」
反論を口にしようとしたロザリーに、ヒューゴが言葉を被せる。
「――御主人様。裏にいる存在が気にかかるのはわかります。ですが、その存在を解き明かすには、この者は殺すのが一番です。
「そう、かな。う~ん」
ロザリーは口ごもっている。
「そうすれば雇い主の名だけでなく、その人物の持つ情報が逐一入手できます。雇い主が邪魔になれば、
ロザリーは迷った様子で、口元を押さえている。
決断したのは、ネモのほうだった。
「私にまじないをかけろ」
ロザリーがネモを見下ろした。
「対策しているんでしょう?」
「
ネモが前髪をかき上げた。
額に
ヒューゴが言う。
「【神殿のルーン】だネ。精神を静かで落ち着いた空間に保存し、外界からの干渉を受けなくする術ダ。このルーンが浮かんでいるうちは、拷問しようが薬物を使おうが決して口を割らないネ」
ネモは一つ頷くと、目を閉じた。
【神殿のルーン】が薄らいで消えていく。
ヒューゴがロザリーに目配せした。
ロザリーはネモの前に立ち、彼の額に右手を置く。
魔導は練るまでもなく、体内を巡っている。
「……虚ろなる霧がかる。混濁たる心は、最愛たる母の胸。泥を吐け。されば霧も晴れよう」
ロザリーが呪文を唱えると、ネモが目を剥いた。
「ぐ……おえェッ」
急に
再びネモが顔を上げると、その表情はまるで変わっていた。
感情が抜け落ち、目つきがとろんとしている。
まじないの効果を確かめるように、ロザリーはネモに問いかけた。
「誰の指示で私を監視していたの?」
「……コクトー宮中伯」
ネモはあっさりとそう答え、ロザリーは眉を
想定の範囲ではあるが、そうであってほしくなかった人物だった。
「コクトー様は私を信用していないのね」
「……違う。あのお方は誰もお信じにならない」
次にヒューゴが問う。
「コクトーは、ロザリー=スノウオウルをどうしようと考えているンだ?」
「……手駒にしたいと考えている……だが、大駒すぎるとも考えている」
ヒューゴは流し目でロザリーを見た。
「キミの値打ちを見定めようとしている。ジツに商人らしい行動だネ」
「でも、監視されるのは気分が悪いわ。文句の一つでも言ってやりたい」
「問い詰めたところで、アノ男は弁解もしないと思うがネ。東商人の行動理念は単純明快。必要だからやる。それだけダ」
「居直られるのがオチ、か……」
ロザリーはパチンと指を弾き、まじないを解いた。
ネモは一瞬、今起きたかのような顔を見せたが、すぐに表情を引き締めた。
「知りたいことは聞けたか?」
ロザリーはそれに答えず、ネモに命令した。
「失せなさい。私がミストラルに戻るまで、その顔を見せるな。コクトー様には私から【手紙鳥】を飛ばしておく」
ネモは目で頷き、ゆっくりと立ち上がった。
ロザリーたちを視界に入れたまま、後ろ向きに下がっていく。
そして、スーッと暗闇に姿を消した。
ネモの消えた方向を見ながら、ヒューゴが呟いた。
「……御主人様。もう少し、演技の練習をしたほうがいいヨ」
ロザリーが、ハッとヒューゴを見る。
「やっぱりそうよね? 彼を
ヒューゴはおかしそうに笑った。
「死ぬことで自我を失うからネ。挙動不審すぎて、一発でバレるだろうヨ」
「姿だって、ヒューゴみたいにはならないだろうし」
「新鮮なゾンビだってじき腐るしねェ。黒犬みたいな
話題に出された黒犬は、意味がわからず首を傾げている。
「なのに何だい、アレは? 演技どころか、ただオロオロしてただけ。酷い有り様だったヨ」
「悪かったわね! あれ? そうだっけ? って混乱したの!」
「先が思いやられるヨ。ねェ、黒犬?」
黒犬は「アォ~ン」と夜空に吠えた。