81 誰でもない男
深夜。
ロザリーは領都イェルから少し離れた草原にいた。
彼女の前をヒューゴと黒犬が歩いている。
「夜の散策って素敵だよネ。心が躍るヨ」
ヒューゴが機嫌よさげにそう言うと、黒犬が「アゥーン」と同調するように鳴いた。
「ねぇ、ヒューゴ」
ロザリーが呼ぶと、ヒューゴは踊るようにくるりと振り向いた。
「何だイ、御主人様?」
「遊びじゃないんだから。気を引き締めて?」
ロザリーが注意すると、ヒューゴは妖しく笑った。
「わかっているヨ。監視者を殺すのだよネ?」
ロザリーの目的は、王都から彼女について来ている監視者の排除である。
ずっと遠くから見ているだけなのでこれまで無視してきたが、大きな秘密を抱えた今となってはほうっておけない。
相手はロザリーに位置を掴ませないだけでなく、出入りに厳しい関所を苦もなく越えてきている。
十中八九、手練れの騎士だ。
となればどんな術を持っているか。
ロザリーに気づかれずに近づく術や、あるいは遠くからでも会話を盗み聞く術を使うかもしれない。
「賊殺シに覗き魔殺シ。今夜はいい夜だなァ」
「ううん、殺しはナシ」
「エエッ!? 冗談だろう、御主人様?」
黒犬も不服そうに「ウウウ……」と低く唸っている。
「あなたたちが賊を皆殺しにしたの、ついさっきじゃない。まだ血を見たいの?」
ヒューゴと黒犬は間髪入れずに頷いた。
「見たいネ」「アォン」
ロザリーはため息をついた。
「それに、監視は王都から続いてるの。ってことは、王宮関係者や大貴族が雇い主である可能性が高いわ。殺めると後が面倒よ」
するとヒューゴはニヤニヤと笑った。
「そのときは、雇い主も始末すれば済むことサ」
賛意を表したいのか、黒犬が「アオーン!」と高く吠えた。
「やめなさい、黒犬。監視者に聞かれるわ」
今度は黒犬は「クゥーン」と小さく鳴いた。
「好きに鳴かせてやりなヨ。監視者には外に出てきたのだって、もうバレてる。だってそれが役目なのだから」
「それは、そうかもしれないけど」
「ボクら
黒犬が同調して「アオン!」と鳴く。
「わかった、考えるわ。考えればいいんでしょ?」
ロザリーはわざとらしく腕組みして、目を閉じた。
そしてすぐに目を開き、「やっぱり殺しはナシ」と言った。
「酷イ! 横暴ダ!」
「アォン! アォン!」
「全っ然、横暴じゃない。むしろ横暴というのは、殺したがりのあなたたちのことよ。……ってか、賊の皆殺しの件だけど。あれ、わざとやったんじゃないでしょうね?」
ヒューゴはふいっ、と視線を逸らした。
黒犬は責められている理由がわからないようだ。
ロザリーはまた、ため息をついた。
「とにかく。今は監視者を見つけることが先決よ。ヒューゴ、位置はわかる?」
「もちろん、わからないネ」
ロザリーはまたまた、ため息をついた。
「自信満々に言うこと?」
「監視者とはそういうものだヨ。でなければとうに消してる」
「どうしよう。カラス使うしかないかな」
カラスとは使役する
上空からの景色をロザリーの視界にリンクさせ、広範囲を索敵することができる。
一方で、長時間の使用は頭痛を引き起こすので、ロザリーは使いたくなかった。
「じゃア、追い出し猟はどうかナ?」
「追い出し猟?」
「大きな音や猟犬を使って、隠れた獲物を追い出す猟のことサ。焦って動いたところを仕留めるってワケ」
「猟犬って――黒犬に追わせるの?」
「ソンナ安直な。猟犬はキミだヨ」
「私?」
「さっき、サベルにそうしたように。かつてルナールとかいう教官にそうしたように。魔導の圧で相手を脅すのサ」
「ああ、それ。……よくルナールの件とか出てきたわね。私でも忘れてたのに」
「ボク、人を脅す瞬間って大好きだからネ。主人が誰かを脅している光景となれば、たまらなく胸がときめくものサ」
「いい趣味してるわ、まったく」
「デモ、二人にしたような生温い脅しではダメだ。相手と距離があるし、監視者は二人よりも手強い騎士だからネ。魔導を惜しまず、確たる殺意を込めて、ひと思いに恫喝するんダ」
「んー、やってはみるけど」
「自信がない?」
「どこにいるかわからないから。脅すにも相手が見えないとやりにくいな」
「そうだねェ。きっと――」
ヒューゴは辺りをぐるりと見回し、遠くに見える森を指差した。
「――アノ森だと思うネ」
「なぜそう思うの?」
「小高いところにあるから。領都イェルがよく見えそうダ」
「それだけ? あっちの崖の茂みに隠れているかもしれないよね?」
「そうだけど……まぁ、勘だヨ」
「勘、ねぇ」
「外れてる気がする?」
「……ううん。あなたの勘は当たるもの」
ロザリーはイェルに背を向け、ヒューゴの指差した森を見据えた。
そして目を閉じる。
魔導を生み出す井戸は、心の臓の奥底にある。
井戸の中の魔導を増やし、いつでも使える状態にすることを〝魔導を練る〟という。
ロザリーがサベルたちを脅したときは、魔導を練った状態で敵意をぶつけた。
だが今回は、魔導を生み出すのを止めない。
井戸の中の魔導はみるみる水位を上げて井戸から溢れ、激流となって一気に身体を駆け巡る。
ロザリーの周囲が陽炎のように歪み、不穏な紫の色が滲む。
「アァ……」
その様を眺めるヒューゴが、恍惚とした表情を浮かべる。
その横で黒犬は耳を垂れて背を丸めていた。
――その、少し前。
領都イェルを望む、小高い森。
闇に沈む木立の中に、一人の男がいた。
二十代中頃の青年。
長い前髪に隠れた、猟犬のような瞳。
漆黒の
彼の名はネモといった。
さる重臣の子飼いの魔導騎士である。
家名はない、ただのネモだ。
かつてはいずこかの国の騎士であったが、記憶を失い彷徨っているところを、その重臣に拾われた。
生まれはどこなのか。
家族はいるのか。
本当は何という名前なのか。
彼は何も覚えていない。
明らかなのは、彼は優れた
今も【鷹のルーン】を瞳に宿して、強化された視力で領都を監視している。
「……飽きてきたな」
ネモはそう、ボソリと呟いた。
ロザリー=スノウオウル。
監視対象として非常に興味をそそられる人物だ。
だが、やはり子ども。
重要人物監視の任に就くことの多いネモにとって、彼らの旅はさして面白いものではなかった。
先日のポートオルカで、彼らの船に忍び込めなかったのは痛恨事だった。
二百もの
おかげで監視対象が
先ほどの賊の殲滅は多少興味を持って見られたが、あれでは物足りない。
期待するのは、アトルシャン事件のような一大事。
この任に就くにあたって、主である重臣はネモに言った。
「彼女はまた、渦の中心となるだろう。王国中を巻き込む大嵐の、な」
今のところ嵐が訪れる気配はない。
彼らの旅路は
ネモが退屈を奥歯で噛み潰していると、監視対象に動きがあった。
館から出てきて、そのまま領都を後にする。
「この時間から動く?」
供は二人。
学生ではない。
「使い魔か……」
少し歩いて草原に着き、立ち止まって何か話し込んでいる。
話しながら、たびたび周囲を見回してもいる。
ネモは目を凝らし、ロザリーの唇を読んだ。
「『監視は王都から――』。なるほど俺を捜しているのか。監視に気づかないほど鈍くはないのだな」
その推測を肯定するように、「アオーン!」と犬の遠吠えが響いた。
ネモは念のため、【隠者のルーン】を発現させた。
暗い森の風景に、ネモの姿が同化していく。
「見つけられんよ。お前には」
そう確信に満ちた言葉を発したとき。
ロザリーの魔導が膨れ上がった。
離れていても顔を背けたくなるような、禍々しい魔導。
その圧が、殺意が、森を吹き抜けてゆく。
「う、ぐっ!!」
隠密を得意とするネモが、思わず呻き声を上げる。
森の木々から、圧に驚いた鳥たちが一斉に飛び立った。
「何という魔導圧! 化け物め……っ!」