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66 腹の底

 ――ピチョン。

 ツンとした褐色の鼻に、雫が落ちてきた。


「冷た……」


 ラナは目を開けた。

 気を失っていたようだ。

 辺りは暗く、ぼんやりとしか見えない。

 身体を起こすと、雫で濡れた鼻先がひんやりとした。

 風が流れている。


「ここは……?」


 次第に目が慣れてきた。

 腰を下ろしているのは五段櫂船の甲板で、やや斜めに傾いている。

 甲板は揺れておらず、船が陸地にあることを示していた。


 どこかに流れ着いたのか、あるいは座礁したのか。


 ふと見上げると、そこに夜空はなく、遥か上に白い天井のようなものが見えた。

 続いて周囲を見渡すが、壁は見えない。

 屋内にしても、ずいぶん広い空間のようだ。


 ラナは腰を上げた。

 大きく伸びをして、それから何となく鼻先の雫を指ですくって舐めてみる。


「……しょっぱくない」


 ラナが状況を把握しかねていると、甲板を歩く足音が聞こえてきた。


「ラナさん! 気がつきましたか!」

「カテリーナさん!」


 カテリーナは駆け寄ってきて、ホッとした顔でラナの両手を取った。

 ラナが尋ねる。


「私たち、どうなったの?」

「わかりません、私も気を失っていて。船ごと割れ目に落ちて、目覚めたときにはここにいて……そのときにはロザリーさんとヒューゴさんはいませんでした」

「ロザリーがいない……? そうだ、ロブロイは!?」

「双子さんはあちらに」


 カテリーナの指差した先に、倒れたロブロイの姿があった。

 同じポーズで甲板にのびている。


「よかった。あとはロザリーね」

「偵察に出たのかもしれませんわ。ヒューゴさんや骸骨さんたちの姿もありませんし」

「そっか。きっとそうだね」

「私も船の状況を調べてきました」

「船は大丈夫なの?」


 カテリーナは力なく首を横に振った。


「ダメです。船の背骨といえる竜骨が著しく損傷しています。この船が海に浮かぶことは二度とないでしょう」

「そんな……私たち、遭難したってこと?」

「そうなります。幸い、食料と水は無事でしたからしばらくは生きられますわ」

「その間に帰る手立てを考えなきゃ」

「ええ。まずはここがどこなのか、ということですわ」

「う~ん。陸地みたいだけど天井があるし……海底洞窟とか?」


 すると甲板から下層に繋がる階段から、威勢のいい女性の声が響いた。


「ここは奴の腹の底さ!」

「あなたは――」「――ナスターシャ!」


 ラナとカテリーナが身構える。

 ナスターシャは構うことなく近づいてきて、その後ろには何人も手下を連れている。

 ラナが囁く。


(あんな人数、どこから!)


 カテリーナが囁き返す。


(おそらく、先に落ちた船の乗員です。見覚えのある顔がありますから)

(あんな小型船で生き残ったってこと? 海賊って悪運強いわね)

(ええ。まったくその通りですわ)


 ラナとカテリーナが甲板に目を走らせる。

 落ちた剣をそれぞれ見つけ、互いに頷き合う。

 二人は一斉に駆け出し、剣を拾った。


 ナスターシャが邪魔をしてくると二人は予想していたが、彼女はその素振りも見せなかった。

 腰に手をやり、首を傾けて見下ろしている。


「やり合う気はないよ?」


 ナスターシャの台詞に、二人は顔を見合わせた。

 ラナが訝しげに尋ねる。


「休戦する、ってこと?」

「同盟と言うべきかねえ。ここを出るまで争っても仕方ないだろう?」

「それはそうだけど」

「ま、仲良くしようよ、お嬢ちゃん」


 そう言ってナスターシャが右手を差し出すと、カテリーナが声を荒らげた。


「誰が海賊と仲良くなど!」


 だがナスターシャは声を荒らげたりせず、質問で返してきた。


「ここはどこだい?」

「……あなたは、奴の腹の底と言ったわ」

「おやおや。仲良くできないのに、あたいの言葉は信じるのかい」

「ッ! 減らず口を……!」


 カテリーナは今にも剣を抜きそうな勢いで、ナスターシャの後ろの手下たちが色めき立つ。

 ラナが止めに入った。


「待って、カテリーナさん。ナスターシャも煽らないで」


 ラナは両者の間に立ち、まずカテリーナに語りかけた。


「ナスターシャの話を聞くべき。私たちはここがどこか見当もつかないんだもん」

「でも、ナスターシャの話が本当かどうかわかりませんわ!」

「それは聞いてから判断する」

「策略かもしれませんわ」

「それも含めて判断する」

「……私はラナさんほど、自分の判断に自信を持てませんわ」

「私だって自信ない。でも、今ここで殺し合うべきではないって判断には自信がある」

「……そうかもしれませんね」


 カテリーナが折れたのを見て、ラナはナスターシャのほうを振り返った。


「同盟に応じるわ」


 ナスターシャがニッと笑った。


「嬢ちゃんのほうが話がわかるね。気に入ったよ」

「お世辞は結構。奴って何?」

「海峡に潜む化け物のことさ。――大喰らい(グラットン)。あたいらはそう呼んでる」

大喰らい(グラットン)――いったいどんな化け物なの?」

「クジラさ。町一つ、丸のみできるほどの化け物クジラだがね」

「じゃあ、ここはクジラのお腹の中なの!?」


 ナスターシャは頷いた。

 ラナは話の真偽を計りかねて、カテリーナのほうを見た。

 カテリーナは唇を指で遊ばせ、思案している。


「……ダミュール海峡の大クジラは有名です。非常に大きく、激突して大型船が沈むこともしばしばですわ」


 そこまで話し、ナスターシャへ鋭い視線を向ける。


「でも、ここまでの巨体は聞いたことがない」


 ナスターシャが答える。


「聞いたことが無くても、現にいるじゃないか」

「一番の疑問は――ここが生物の体内とは思えないこと」


 カテリーナは耳に手を当てた。

 聞こえるのは、そこにいる者たちの息づかいや衣擦れの音、そしてわずかに風の音だけ。


「生物の体内とは、生きている限りもっと忙しく賑やかに活動しているものです。魚もそう、イルカやクジラもそうです」

「そりゃそうなんだがね」


 ナスターシャはボリボリと頭を掻いた。


「だがクジラなのは間違いないのさ。あの形状はクジラさ、海に住む者が見間違うはずがない」

「姿を見たのですか?」

「浮かび上がるところをこの目でね。ちょうど、あんたのところの町長の船が呑まれるときさ」

「……そう」

「地面は見たかい?」

「地面?」

「この船の下さ」

「ええ、船体をチェックしているときに。……白い砂が一面に見えましたわ。まるで珊瑚礁にある砂浜のような……」

「あれは塩さ」

「塩? あれが全部?」

「舐めてみたからね。これも間違いない」


 ナスターシャが空間を見渡す。


「確かに大喰らい(グラットン)の腹の中は、あたいが想像してたのともまったく違う。でもね、ここが奴の腹の中なのは確かなのさ。多少の疑念は飲み込んで、やるべきことをやるしかない」


 ラナが問う。


「何をやるつもり?」

「あたいらを吐き出させるのさ! 呑み込んだなら、吐き出せるのが道理だろう?」

「そんなこと、どうやって――」


 そこまで口走ったラナだったが、考えてみるとそれしかないようにも思えた。

 ここが腹の中であるならば、もたもたしていると消化されるかもしれない。

 クジラの尻側(・・)から出るような事態は極力避けたい。


「――化け物にも弱いところはあるはずよね。ここは体内なんだから、もしかしたらそこら中が弱点かも」


 ナスターシャが嬉しそうに手を叩く。


「やっぱり嬢ちゃん、話がわかるねえ。そうさ、痛いところを見つけて突いてやるのさ!」


 しかし、ラナが首を捻る。


「ん~、やっぱりダメかも」


 すぐに意見を翻したラナに、ナスターシャがこけそうになる。


「なんだってんだい、嬢ちゃん……」

「私たち、ここに船ごと落ちたのよね? その衝撃で吐き出さないなら不可能じゃない?」

「あたいらでは不可能かもしれないね。でも、ハニーなら?」

「ハニー?」

「黒髪紫眸のあの女性(ひと)のことさ」

「ああ、ロザリーのこと? ……そっか! あなたはロザリーの力をあてにして、同盟を持ちかけてきたのね!」

「ご名答!」


 ナスターシャはラナの顔を指差して頷いた。


「でも、そのロザリーがいないのよね」

「みたいだねえ。……おや、ちょうど帰ってきたみたいだよ」


 ナスターシャが傾いた甲板から、下の地面を覗きこむ。

 ラナとカテリーナも手すりから見下ろすと、白い地面を歩いてくるロザリーが見えた。

 ヒューゴと、三百体の〝野郎共〟も後に続いている。


「あれは……死霊(アンデッド)!? なんであの死霊(アンデッド)共は、お行儀よくハニーの後についてきてんだい?」

「そりゃあ、ロザリーは死霊騎士(ネクロマンサー)だから」

死霊騎士(ネクロマンサー)!?」

「お~い、ロザリィ~! どこ行ってたの~!」


 ラナが大声で問うと、ロザリーがこちらを見上げた。

 彼女も手を振り返し、後ろを振り返りながら何か言っている。


「なに~? 聞~こ~え~な~い~!」


 ロザリーは一旦諦め、船に近づいてきた。

 そして十分近づいてから、手をラッパのように口に当てて叫んだ。


「向こうに集落を見つけた!」

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