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34 アトルシャン

 ロザリーが洞窟を出ると、白々と夜が明けていた。


「あー、もう! こんな簡単なことに気づかないなんて!」


 ロザリーが歯ぎしりする。


「課外授業は魔導騎士養成学校(ソーサリエ)の恒例行事! 行き先がハイランドなのも恒例! 今年の参加者にウィニィがいることも年齢を調べればすぐにわかる! 王子様を攫う絶好の機会じゃない!」


 元の姿に戻ったヒューゴが、ニヤニヤと言う。


「先手を打ったつもりが、後手に回ってしまったねェ」


 落ち着き払ったヒューゴの物言いに、ロザリーは苛立った。


「他人事みたいに! 洞窟に戻るって言い出したのはあなたじゃない!」

「落ち着きなって。状況はそう悪くないヨ」

「どこが!」

「ボクらは今、奴らの脱出路にいる」

「あっ……そうか」

「王子を攫ってもココを通らねば奴らは帰れない。ココで待ち伏せして王子を取り返すのもひとつの手だが……それではキミは納得しないよネ?」


 ロザリーは頷き、唇を噛む。


「ウィニィを攫う過程で、絶対負傷者が出るもの。たぶん、死者も……」

「であれば、ココを塞いで奴らを追うべきダ。最低でも王子をアトルシャンへ連れ去られることはなくなる」


 ロザリーが洞窟を振り返る。


「……どのくらい崩すべき?」

「扉に【鍵掛け】で十分サ。アトルシャン側にキミの鍵を開けられる騎士はいないだろうからネ」

「扉ごと壊されない?」

「【鍵掛け】された扉は一種の呪物ダ。木製の扉であっても壊すのは簡単ではない」

「そう。わかった」


 ロザリーは洞窟の扉を閉めた。

 そしてまじないの準備に入る。


「念のタメに魔導を多めに使うといい。それだけ扉が強固になる」

「ん……」


 ロザリーは普段のまじないでは使わない、大量の魔導を身体に流した。

 次にその魔導を手の指先に集め、練り上げる。

 錠前をイメージし、その中に多層構造の迷路を作り上げていく。


「よし……いい出来……」


 イメージの中に作り上げた錠前で、扉をロックする。

 最後にロザリーは扉に手をかけ、開かないことを確認した。


「退路は断った。これでウィニィを攫っても脱出できない」

「あとは敵を蹴散らすだけダ。でも急いだほうがいい、ずいぶん時間ヲ使ったから」

「そうね。……グリム!」


 ロザリーは右足を振り上げ、地面を強く踏みしめた。

 大地の奥底から、馬の蹄音と嘶きが近づく。

 ロザリーの影が大きく揺らぎ、黒い骨馬が躍り出た。

 豊かなたてがみを掴み、ロザリーが骨馬にまたがる。


「行け、グリム!」


 黒い骨馬――グリムは、大地を揺らしながら駆けていった。



 ――その頃、砦近くの森。

 早朝の野営陣を歩く男がいる。

 鋭い眼光に、針金のように硬い髭。

 歳は六十を超えているが、がっしりとした身体は生気に溢れている。


 彼の名はボルドーク。

〝黒犬〟の二つ名で知られるアトルシャンの英雄だ。

 ボルドークは野営陣に一つだけある天幕の前で立ち止まった。


「――公子殿下」


 天幕の中から返事はないが、衣擦れの音がする。


「ウィニィ=ユーネリオンの位置を捕捉しました」


 途端、ドタドタと足音が響き、貴族の青年が天幕から顔を出した。


「まことか、ボルドーク!」

「砦へ向かってきております。昼過ぎにはこの付近に到着するかと。ここで待ち伏せるか、狩りに出向くかですが」

「無論、狩りだ! 気取られたかと案じておったが、要らぬ心配であったな!」

「左様で。すぐに向かいましょう」


 ジョン公子は宙に視線を泳がせ、それからボルドークに命令した。


「兵を集めよ。演説を行う」

「はっ?」


 ボルドークは目を見開き、慌てて翻意を促した。


「いけません、殿下。みだりに騒げば砦の王国軍に気づかれるやもしれません。兵を無闇に集めるのも承服しかねます」


 するとジョン公子は、ボルドークの頬をバチッ! と打った。


「みだりに騒ぐだと!? 高貴な私の声を、下々の兵にも聞かせてやると言っておるのだ! 私の声を聞けば、兵は士気を高め、力の限り戦うことだろう! 違うか、ボルドーク!」

「……はっ」


 ボルドークは顔を伏せたまま、後ろ向きに公子の前から下がった。

 天幕を離れると、部下の一人――隻眼の騎士が出陣の準備を指揮していた。

 ボルドークは隻眼の騎士を呼び止め、演説のことを伝える。


「演説? 今からですか?」

「そうだ」

「本気ですか? 機を逸するのでは」

「そうならぬよう、急いで兵を集めてくれ」

「善処しますが……まず、お止めしたほうがよろしいかと」

「時間の無駄だ。ああなっては折れぬお方だ」

「ああ。癇癪を起こされましたか」


 ボルドークは肯定も否定もせず、明るむ空を見た。

 まだ太陽の姿は見えないが、木々の枝の間から陽光が射している。


「時間が惜しい。兵を騒がせず、迅速に集められるか?」


 ボルドークの苦慮を見て取った部下は、己の胸板をドン! と叩いた。


「お任せください。迅速かつ粛々と兵を集めます」

「すまぬ、カーチス。無理を言う」


 去りゆく部下の背中を眺め、ボルドークは自問した。


(聡明でお優しいお子であったのに)

(なぜ、ああも気難しく育ってしまったのか)

(……違う。聡明で優しかったから、ねじ曲がってしまわれたのだ)

(すべては十五年前の戦のせいだ)


 十五年前。

 魔導騎士養成学校(ソーサリエ)の王国史でも語られぬ戦があった。

 第二次獅子鷲戦争――通称、獅子侵攻。

 獅子王国が兵を挙げ、皇国へ攻め入ったのである。

 皇国は連邦国家である。

 魔導皇国バビロニアを宗主国として〝大盟約〟で結ばれた多数の国・地域・都市で形成される。

 荒ぶる獅子に真っ先に立ち向かうことになったのは、獅子王国と領地を接する北部の連邦諸国だった。

 アトルシャン公国もその内の一つ。


 王国の攻めは凄まじかった。

 先陣を切るのは、長子〝黒獅子〟ニド率いる精鋭騎士団。

 王国の主だった魔導騎士のほとんどが従軍し、総大将は獅子王エイリス自身。

 王国にとっても総力戦と言っていいものだった。


 緒戦は王国軍の連戦連勝。

 北部諸国の軍はあっという間に打ち負かされ、王国軍の侵攻路となった地域は散々に蹂躙された。

 戦地からの一報が届くたび、皇都バビロンの民は震え上がった。


 しかし、獅子の牙が皇都に及ぶことはなかった。

 皇国最強の魔導騎士〝風のミルザ〟が戦地に襲来し、すべてを覆したのだ。

 王国軍は深刻なダメージを負い、撤退を余儀なくされる。

 かくして獅子侵攻は王国側の敗戦で幕を閉じた。


 国を挙げて臨んだ戦での敗戦は、王国内に暗い影を落とした。

 治安を守る騎士と働き手となる青年層を多く失ったことで、王国の秩序は大いに乱れた。

 王国史で触れられぬのも、その傷の深さの表れ。

 一方で、王国以上に深い傷を負った者たちもいた。

 最初に立ち向かった北部の諸国である。

 中でもアトルシャン公国の被害は甚大だった。

 魔導騎士の多くを失い、民は略奪、陵辱されるがまま。さらには時のアトルシャン公までも討ち取られていた。




「諸君! ついに雪辱を果たす時が来た!」


 ジョン公子の声が響く。

 集められた三千弱の兵の目が、馬上の公子へと集まる。


「――あの時。私は初陣で、十二の少年だった」


 ボルドークの部下カーチスのお陰か、兵からは(しわぶき)一つ、聞こえない。


「華やかな騎士たちが魔導を駆使して鎬を削る――そんな夢見た戦場とは程遠かった。そうだな、ボルドーク?」


 問われたボルドークが即答する。


「控えめに言って、あれは地獄です」


 ジョン公子が頷く。


「そう。地獄。これより相応しい言葉はあるまい」


 噛みしめるようにそう言い、公子は続ける。


「実を言うと、あの戦のことはそれほど覚えていない。思い出せないのだ。悲鳴と血飛沫。暴力と恐怖。ただ、それだけ。このボルドークが私を救い出してくれたらしいのだが、公都へ逃げおおせても、私はずっと呆けたままだったそうだ」


 ジョン公子が兵を見回す。

 兵の中には、十五年前の戦の生き残りが多くいた。

 その一人一人に向けて、公子は語る。


「人は言う」

「もう終わったことだと」

「終わった?」

「ではこの痛みは何だ?」

「この憎しみは? 帰らぬ家族や友への想いは?」


 惨状を思い出し、涙を拭う者もいる。


「あの地獄を経験してなお、私について来てくれた卿らには感謝の言葉もない。王国の地を踏むだけで、息苦しさを感じる者もいよう。この私もそうだ。――だが、それも今日までのこと!」


 ジョン公子がこぶしを振り上げる。


「今! 我らの手の届くところに、にっくきエイリスの息子と二百を超える仔獅子がいる! 悪夢にまで見た、獅子の仔らが!」


 兵は未だ、静寂を保っている。

 しかし、公子の熱量に当てられ、今にも破裂しそうなほど昂っていた。


「我々は王国へ来た。何のために? 長く暗い地下道を抜け、獣のように森に隠れているのは何のためだ? 十五年の時が過ぎてもなお我らを苦しめる、忌まわしい記憶を消し去るためであろう!」


 ジョン公子の激情が、兵を焚きつける。


「血祭りだッ! 仔獅子共の血で、悪夢を真っ赤に塗り潰そうぞッ!!」


「「ウオォォォーッ!!」」


 ついに兵たちは弾け、獣のような咆哮を上げた。

 こぶしを振り上げ、地面を踏み鳴らす。

 ジョン公子はふうっと息を吐き、傍らのボルドークに言った。


「どうだ、ボルドーク」

「はっ。見事な演説でございました」


 事実、ボルドークは感心していた。

 やはり公子は聡明なのだと再認識した。

 ただ、最後の言葉だけは聞き流せなかった。

 ボルドークはジョン公子から離れ、カーチスを呼んだ。


「申しわけありません、結局大騒ぎとなってしまいました」

「お前のせいではない」

「公子がああも演説がお上手とは……砦の敵に気づかれたやもしれませんので、急いで出立の準備を進めております」

「……うむ」

「他に何か?」

「あくまで狙いはウィニィ王子の誘拐。他は二の次だ」

「わかっております」

「お前はそうでも、公子の言葉に乗せられて血を求める者もいよう」


 カーチスが兵たちの表情に目を走らせる。


「……かもしれませんな」

「王国の民が何人死のうが知ったことではないが、ここはその王国だ。目的を忘れてはしゃぎ回っておると、たちまち囲まれて、十五年前と同じ光景を見ることになる」

「おっしゃる通りかと。騎士の間で作戦の確認をしておきます」

「兵にもだ。公子の耳に届かぬようにな」

「ハッ」

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