31 暗中飛躍
ロザリーは夕闇の荒野を
体が軽い。
自分を幾重にも捕えていた重い鎖が外れたかのようだ。
軽すぎて転びそうになり、慌てて逆の脚を前に出す。
その繰り返しだけで、ぐんぐん前に進む。
風を切り裂き、周囲の景色が星のように流れていく。
「気分、いいな」
思わずロザリーはそう漏らした。
王都ミストラルに来てから、こうして全力で走ることなどほとんどなかった。
それはヒューゴに言われて目立たぬよう魔導を抑えてきたからで、特に寮に入ってからは一度もない。
久しぶりに膨大な魔導が流れる感覚は身体中の細胞を目覚めさせ、ロザリーの頭を隅々まで澄み渡らせていった。
『困ったものだ』
心の内から声がした。
『グンターを殺した敵部隊ヲ討つつもりだね』
「あんなの見せられたら、ね。……ヒューゴは反対?」
『本心ではネ。だが避けられないということも理解してる』
「あの敵部隊は二日前までこの辺りにいたの。あんなのと学生の集団がかち合ったら、ただじゃすまない。死人が出る」
『アトルシャン、だったか。アレはたしかに作戦ヲ帯びた精鋭部隊だろうよ。特にグンターを殺した騎士は手練れだ』
「騎士? 大きな獣に襲われたけど」
『アレは
「まだこの辺にいるかな?」
『いるだろう。アトルシャン部隊が北上して王都に向かったなら、君たちノ集団とぶつかっただろうし』
「街道を外れて迂回してたら?」
『あり得るが、それは考える必要がない。キミの目的はお友だちヲ守ることなノだから』
「そうね、王都に向かうなら王都の騎士団に任せればいい」
『まァ、一人になったのは良い判断だヨ。どんな相手でもキミならどうとでもできるが、四百人の
「――単独行動なら、みんなに力を見られずに敵を排除できる。わかってる、うまくやる」
『ならいいンだが……』
「とりあえず第二目的地の砦に向かうわ」
『了解』
それっきり、心の内のヒューゴは黙った。
代わりに、ロザリーの頭にシモンヴラン校長の言葉が浮かぶ。
『公になる日は必ず来る』
ロザリーが頭を振って、その言葉を追いやった。
(まだ、その時じゃない)
(大丈夫。うまくやればバレやしない)
◇
月が高く昇った。
ロザリーは高台に立ち、遠くへ目を凝らす。
「砦は健在ね」
眼下に見えるは、課外授業で向かう予定の砦。
砦は静かで、城壁にいくつも篝火が見える。
「アトルシャン部隊の狙いは砦じゃなかった。やっぱり王都に向かったのかな?」
「それはどうかナ」
ヒューゴが、ロザリーの影からズズッとせり上がってきた。
夜の冷気を吸い込み、大きく伸びをする。
「あァ……久しぶりに外に出たヨ。んンっ……」
「いいから。続きを聞かせて?」
ヒューゴは月光の香りでも嗅ぐように、スンスンと鼻を鳴らした。
「戦の匂いがする」
「戦って匂いがあるの?」
「無粋だねェ。気配がする、って意味サ」
「それってただの勘じゃないの?」
「勘だヨ? 幾多の戦を経験してきた、このボクのね」
ロザリーは言い返せなくなり、周囲を見回した。
砦はやはり静かで、それを囲むようにある森も静けさに包まれている。
月に照らされ明るいが、目立って動くものは見えない。
「仕方ない。カラス使おっと」
ロザリーは口笛を吹いた。
高く微かなその音色は、ロザリーの足元――彼女の影へと吸い込まれていく。
次の瞬間。
影がぐらぐらと沸き立った。
闇が煮えくり返り、千切れた闇があぶくとなって次々に空へと向かう。
あぶくは上昇するにつれて、鳥の形へと変化した。
やがて夜空に至ると、幾千羽のカラスとなって四方へと飛び去った。
――
ロザリーの
戦闘能力はほとんどなく、その能力は情報収集に特化していた。
無数に散った
ロザリーは両目を手のひらで覆い、瞼を閉じた。
自分の視界を断ち、カラスの視点に切り替えて辺りを見回す。
「ああ、よく見える。これなら見つけられるわ」
横に立つヒューゴが、彼女に言う。
「初めから使いなヨ」
「
「キミってほんとに繊細だよねェ」
「うるさいなぁ……んっ?」
何かを見つけたロザリーは、
「……見つけた」
アトルシャン部隊は森の中に潜伏していた。
木々や土肌に溶け込むような保護色のマントを身に着けていて、ひと目では人とわからない。
「千じゃきかない。二千……いや、もっと? 見えづらくて数えにくいな」
「兵の数はいいヨ。魔導騎士の数は?」
「そんなのわかんない。見分け方あるの?」
「騎士章つけてなイ? 胸につけるバッジみたいなサ」
「誰もつけてないっぽいけど。マントの下かなぁ」
一瞬、ヒューゴは言葉を詰まらせた。
「それは……本気だネ」
「本気?」
「魔導騎士という人種はネ、自らの権威をひけらかすものなんダ。騎士章なんてその権威の象徴。マントで隠れるなら、十人中九人はマントの上に騎士章を付けるネ」
「また偏見?」
「純然たる事実サ。なのにそれを隠すということは、それだけ本気だということ」
「本気だと騎士章隠すの?」
「騎士章って目立つかラ。隠密行動を徹底するなら隠すんじゃないかナ」
「あぁ、なるほど」
ロザリーは集団の一人一人に目を配った。
行動から騎士を判別しようと試みるが、うまくいかない。
「あ、ちょっ! んーっ、もう!」
「……ねェ。急に変な声、出さないでくれるかナ」
「こいつらのマント、変なの。注意してても見失っちゃう。なんだか、動くたびに模様が変わってるような」
「もしかして」
ヒューゴがふと思いついたことを口にする。
「【隠者のルーン】かモ」
「
「そうそう。自分の姿をトテモ見えづらくするってだけなんだケド」
「でも、だとすれば、あの二千人以上がすべて
「それはないネ。騎士二千人なんて、獅子王国にだってポンと出せはしない。属国ひとつには到底無理な数だ。出すにしても
「ってことは、
「魔導具というものがあるんダ。超常的な力を持つ道具で、そのほとんどは特定の魔術の効果を再現するもノ。……見えづらいのは人でなく、マントなんだよネ?」
「そうか、じゃあマントが【隠者のルーン】を再現した魔導具だと?」
「おそらくネ」
「ふ~ん。私もひとつ欲しいな」
「魔導具は貴重ダ。買い集めるにしろ、自国で生産するにしろ、二千以上も揃えるには相当苦労したはずだ……彼らはそうまでして気配を隠して、いったい何をする気なんダ?」
「何って、砦攻めじゃないの? 砦の前にいるんだしさ」
「攻めてないじゃないか」
「これから攻めるんじゃない?」
「時間が合わなイ。洞窟から出たのは二日前――王都を出た日なんだろう? いくらでも攻める機会はあったはずダ」
「それは……攻めあぐねてる、とか?」
「そんな強固な砦に見えるかイ? ボクなら三十分で落とせる」
「あなたと比べてもさ」
ロザリーは瞼から両手を下ろし、目を開けた。
「酔っタ?」
「少し」
こめかみをグリグリと押しながら、ロザリーは砦に背を向けた。
「何にせよ、ここにいてくれたのは好都合ね。
「サクッと殺っちゃうつもりかイ? それはダメだよ、コノ人数だから何人かは取り逃してしまう」
「いいじゃない、一人や二人」
「ダメだ。そいつからキミの本性がバレてしまう」
「んー、またその縛りになるのね。じゃ、どうする?」
ロザリーが尋ねると、ヒューゴはニッと笑った。
「先に退路ヲ断つ」
「退路――洞窟ね?」
ヒューゴは静かに頷いた。