19 悪夢の倍返し
――ロザリーは夢を見ていた。
それは幼い頃の、あの暑い日の夢。
「おかあさんっ!」
母を求め、幼いロザリーが駆ける。
角を曲がり、細い裏路地を抜けて、〝金の小枝通り〟に出る。
人の波は絶え間なく、母の姿は見つからない。
「お、か、あ、さ~~ん!!」
声を振り絞って叫ぶ。
行き交う人はぎょっとして、あるいは憐れむような顔をしてロザリーを見る。
ロザリーは四方を見回し、母を呼びながら坂を駆け下りた。
何度も、何度も母の名を叫びながら。
ミストラルの丘の麓が近づき、城門がすぐそこに見えてくる。
「おかあさん!」
ロザリーはもう一度、母を呼んだ。
人々が一斉にロザリーを見る。
雑踏の中で一人、背中を向けたままの女性がいた。
聞こえているはずなのに。
細い体に長い銀髪。
顔は見えないが見間違えようはずがない。
「うぅ、おがあざん~」
堰を切ったように涙が溢れる。
滲む視界の中で、女性は振り返った。
やはり母だった。
冷たい手の、薔薇の香りがする母。
振り返った母は、困ったように笑った。
駆け寄ってきて、抱きしめてくれる。
冷たい指で、涙を拭ってくれる。
そんなロザリーのささやかな願いは叶わなかった。
母は再び背を向けて、城門の外へ向かった。
ロザリーはもう追わなかった。
追ってはいけないのだ、と子供ながらに理解した。
ただ、心の中で母に問いかけた――
「――ザリーさん! ロザリーさんっ!」
「はあ……っ!」
ロザリーは跳ね起きた。
嫌な汗が首筋から背中へ流れていく。
「大丈夫ですか? 酷くうなされていましたよ」
ロザリーはゆっくりとロロへ顔を向け、静かに頷いた。
「私……夢を見てた」
「みたいですねぇ」
ロロはロザリーのベッドから離れ、窓のカーテンを開けた。
朝の暴力的な光が部屋に射しこみ、ロザリーは思わず顔を背ける。
「さあ、朝食に行きましょう。授業に間に合わなくなりますから」
ロザリーは部屋を見回した。
〝蝙蝠のねぐら〟と異なる景色に違和感を感じる。部屋に慣れるのにはもうしばらくかかりそうだ。
立ち上がる気配のないロザリーを、ロロは手を叩いて急かし始めた。
「さ! 早く行きましょう!」
「ちょっと待って……」
「さ! さ!」
ロザリーはのろのろと身体を起こし、恨みがましい目でロロを見上げる。
「ロロ、いやに熱心だね?」
「私が熱心なのは食事です! なんてったってタダで貴族レベルの食事にありつけますから! 一食たりとも逃せません!」
「ああ、そういうこと」
食事を最大の楽しみにしている一般出身者は多い。
「先に行ってて。すぐ来るから」
「そうですか? ではお先に!」
ロロはあっさりと引き下がり、部屋の入り口まで行って、
「すぐ来てくださいねぇ~」
と言い残して姿を消した。
ロザリーは立ち上がり、シャツを脱いだ。
汗でぐっしょりと濡れている。
「はぁ。最悪」
そう毒づく間にも、幼い自分がくり返し問いかけてくる。
――どうして私を置き去りに?
わかるはずもない。
答えてくれる
ロザリーは手早く着替えを済ませ、部屋を出ていこうとした。
そしてふと、立ち止まる。
「……あれ? 〝金の小枝通り〟?」
◇
ヴィルマが生徒たちに語りかける。
「いよいよこの時間からまじないの実践に入る。みんな、心の準備はいいかしら?」
途端、生徒たちは緊張感に包まれた。
その様子を見てヴィルマが微笑む。
「
そうしてヴィルマは生徒たちを見回し、一人の生徒に目を止めた。
「オズ。私にまじないをかけなさい」
呼ばれた男子生徒は背筋を伸ばして固まった。
「で、できません」
「なぜ?」
「やり方がわかりません」
「やり方はテキストに書いてあるわ。その通りにやればいいの」
オズは言われるがままに、
「どのまじないを、ですか?」
「何でも。好きなまじないを私にかけなさい」
オズがテキストのページをめくる。
そのうちに彼は何かにハッと気づき、乱暴にページをめくり始めた。
そして、あるページで手を止めた。
オズの前の席の男子生徒が、そのページを覗きこむ。
「こいつ、【惚れ薬】のまじないをかける気だぜ!」
途端、男子生徒の囃し立てる声と、女子生徒の非難する声が教室を埋め尽くす。
「だって。何でもって!」
オズは口を尖らせてテキストを閉じた。
「はいはい。静かに」
ヴィルマが手を叩いて生徒たちを静める。
そしてオズを見つめて妖艶な笑みを浮かべた。
「オズ。いいのよ? 好きにしても」
ヴィルマは教卓に腰かけ、これ見よがしに脚を組んだ。
オズの視線が、スカートからはみ出した脚の根元に釘付けになる。
彼は先程のページをもう一度開き、そこにあるやり方通りにまじないを始めた。
一つ一つ順を追って、もたつきながらも指先を宙に動かす。
そして最後に呪文を唱えた。
「飲めば、思いのまま」
オズの様子を見つめていた生徒たちの目がヴィルマへと向かう。
まじないをかけられたヴィルマは、いっそう艶っぽく笑った。
「おお」
「効いたのか?」
皆が固唾を飲んで見守る中。
ふいに間の抜けた声が教室に響いた。
「あぁ~~」
生徒たちの目が声の主――オズへと再び向かう。
「おい、オズ?」
「やだ! 気持ち悪い!」
オズはとろんとした顔で宙を見上げていた。
身体は弛緩し、目は潤み、口元からはよだれが垂れている。
ヴィルマが言う。
「
ヴィルマは何事もなかったように立ち上がり、黒板に〝代償〟と板書した。
「人を呪わば穴ふたつ。魔女の倍返し。言い方はいろいろね。要は、まじないとは呪いであり、失敗すれば呪いが倍となって自分に返って代償を払うことになるということ」
ヴィルマがオズを手で指し示す。
「未熟な彼は、私に【惚れ薬】のまじないをかけた。しかし私は、彼より優れた
ヴィルマの言い様に、生徒たちが笑う。
「代償を減らす方法もあるわ。生贄に代表されるような〝犠牲の先払い〟。そして儀式のように多数で一つの術を成す〝リスクの分散〟が主な方法ね」
そこまで話して、ヴィルマの瞳が真剣味を帯びたものへと変わる。
「【惚れ薬】のまじないなんて、誰しも使ってみたくなるものよ。オズでなくてもね。でも軽々に使ってはならない。【惚れ薬】を上回る術ならなおのこと。もしオズが【惚れ薬】でなく恐ろしい呪詛を選んでいたら?」
生徒たちは唾を呑み、オズの弛緩した顔を見た。
彼は相変わらず、にへらにへらと笑っている。
「そう。今頃オズは生きてはいない」
冷たいものが生徒たちの喉を落ちていく。
もうオズを笑う者はいなかった。
「まじないは危険。怖ろしい呪詛なら、なお危険。確実に代償を避ける方法は一つ。まじないを使わないこと。では、魔女はまじないを使うべきではないのか?」
ヴィルマは生徒たちを見回して、それから続けた。
「いいえ。危険だから訓練する。慣れておくの。あなたたちにはそのための時間が用意されている。それがこの授業というわけ。わかるかしら?」
生徒たちはヴィルマの眼差しに応えるように、一様に頷く。
「みんな理解してくれたようね。優秀だわ」
ヴィルマは黒板の〝代償〟の文字を消した。
「しばらくは物質にかけるまじないを中心に教える。人にかけるまじないと違って、物は滅多に呪いを返さないから。ではテキストを開いて――」
「ヴィルマ教官」
オズの前の席の生徒が手を挙げた。
「オズの奴を忘れてます。元に戻してやらないと」
生徒の何人かから含み笑いが漏れる。
しかしヴィルマはあっさりと言った。
「そのままよ」
「えっ」
「わからない?」
生徒は困惑し、頭を掻いた。
「えっ? えっと、わかりません」
「彼はこの授業における〝代償〟よ」
そう言ったっきり、ヴィルマは何事もなかったかのように授業を進めた。
生徒たちはオズの「あはぁ~」「うふぅ」などというだらしない声を聞きながら、授業を受けるはめになった。
授業が終わる頃には、誰もが「自分はこうはなるまい」と肝に銘じていた。