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 一週間に亘った日本旅行も最終日を迎えた。空港で飛行機を待ちながら、ふと忠島氏がコンベンションで語っていた一昔の飛行機とやらのことを思い出していた。その昔、飛行機は大部分が鉄で出来ていたのだと、たしかそんな話だったはずだ。

 例の手帳はいまもカバンの中に収めてある。中身は一度ホテルの中で開いていた。記されていたのはいくつかの情報。

 一つ。「読書の最適化」を掲げたRiH《=Reader in Heads》の開発集団は、詩宮伝承と協力関係にあったということ。

 執筆支援ツール「テラリオン」の作成にも使われた物語解析システム。詩宮伝承が保有していた物語を読む才能だけでは、あのようなアプリは実現不可能だ。ノウハウがいる。 

一方、RiHの方もたとえ膨大な資金力を保有していたとしても、読者へおすすめの本を正確に提示するあの購買誘導システムは実現不可能だろう。RiHによる書籍の解析精度は前述の通り完璧なものだ。

 つまるところRiHには詩宮伝承の才能が転写してあるのだと、そういうことらしい。詩宮伝承の『読む才能』だ。技術的な検証は不可能だが、手帳にそう記してある以上、現状では信じることしかできない。

 二つ。「ライ麦畑で捕まえて」という作品の一節が引用されていること。J・D・サリンジャーという人物による作品らしいが、その引用部分は以下の通りである。


「何よりもまず、君は、人間の行為に困惑し、驚愕し、はげしい嫌悪さえ感じたのは、君が最初ではないということを知るだろう。その点では君は決して孤独じゃない、それを知って君は感動し、鼓舞されると思うんだ。今の君とちょうど同じように、道徳的な、また精神的な悩みに苦しんだ人間はいっぱいいたんだから。幸いなことに、その中の何人かが、自分の悩みの記録を残してくれた。君はそこから学ぶことができる」


 そしてその後に小さくこう追記されている。


「わたしは孤独でありたかった」


 こればかりは忠島氏の意図を把握しかねる。この引用部分の文章に何か思うことがあったのだろう、という程度しか想像できない。その後の追記に関してはさっぱりだ。

 三つ。おそらくこれこそが最重要事項なのだろう。そのページには得体の知れないURLとパスワードが書きこまれていた。ページにはそれ以外何も手をつけられていない。不審に思い、次のページを覗くとこう書かれている。


「You will have read All.」


 めぼしい情報は以上だ。あと一歩踏み込むとしたらURLへアクセスすることくらいだけれど、忠島氏が最後に告げた一言がずっと頭をふらついて決心がつかなかった。しかしこの時の私は日本を離れるという寂寥感に包まれていて、不安定な感情に焦燥を駆り立てられていたのだ。

 だから、とうとう最後の一歩を踏み出した。脳内ネットワークに接続し、URLを一文字ずつ確認しながら入力していく。そしてエンターを認証したとき、私の意識は吹っ飛んだ。




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 ぐらっと脳みそがシェイクされる感覚を味わう。

「ここはフィクションの臨界点です」

 脳内に投射された太字の文字列が、振動に合わせてぶれている。

「パスワードを入力してください」

 急かされるようにパスワードを入力すると、次の一言が浮かんできた。

「あなたはすべてを読む権利を獲得しました」

 瞬間、私の脳内に膨大な『何か』が流れ込み始めた。雪崩れ込み始めた。荒れ狂う流入に戸惑いながらも、私はこの『何か』をだんだんと、そしてゆっくりと理解する。そう、これはフィクションだ。人類が自らを装飾することを覚えてから数千万年という年月をかけて編み出してきたフィクションの集成だ。楽しい。悲しい。嬉しい。怖い。愛してる。ただただ心地よさが凌駕する。しかしそれは麻薬による幻影に似ている。その後に待ち受ける事実には絶望の色が予感できる。しかし、私には拒むことなどできなかった。震える脳がそれを許さなかった。

 私は後悔するべきなのだろうか。

 フィクションの臨界点を見たことを。

 あなたならどう思うだろう。

 私は今でも何が正解だったか確信出来ていない。




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 そして、結果として――私は作家を辞めた。


突然ですが、次回で最終回です。

アルツァが対面した「フィクションの臨界点」。

その正体が示すものに、最後までお付き合い頂けると嬉しいです。


今回は以下の作品から一部引用したことを明記しておきます。


J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝 訳)

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