前へ次へ
5/7

(102)



「やあ、ミス・アルツァじゃないか。奇遇だな」

 奇遇というレベルの確率ではないと思うのだけれど。

 声を掛けてきたのは忠島早紀だった。どうしてこんな場所にと思ったが、そもそも彼は日本人であり、その出身が広島であったことを思い出す。むしろここにいることが奇異なのは私の方だ。

「コンベンション以来か」

 以前対面した時には場の雰囲気に緊張して思わず見過ごしていたが、この人物は紛れもなくフィクションの世界の第一線で活躍してきたクリエイターなのだ。穏やかながらも、顔に刻み込まれた皺からは有無を言わせぬ気迫を感じられ、自然と背筋が伸びる。

「女性があんまり長い時間日の下にいるもんじゃない。さあこっちの日かげに移ろう」

「は、はい。そうですね」と返事をして時計を見ると、この場に到着してからすでに一時間が経っていたことに気づく。ずいぶんと長い間ここに立ち続けていたらしい。薄く仕立てていた化粧が、汗で流れ始めている。

 木陰に移動すると足元にハトが群がってきた。くりくりとしたハトの動作を観察していると、氏が私の許に戻って来てペットボトルの飲み物を手渡してくれる。お礼の言葉を述べると、代わりに質問が返ってきた。

「どうしてまたこんなところに?」

 友人の助言に従って、旅行の最中なのだと答える。

 東京に降り立った時のこと。

 ハンバーガーを食した時のこと。

 昔のカメラを初めて目にした時のこと。

 そんな諸々をとうとうと語る。

「俺も同じ気分をよく味わう。海外に出るといつもそう思うんだ」

 私にとって今の日本がアメリカと相似に見えるように、彼にとって今のアメリカは日本の相似形なのだ。RiHを起動すれば過去の小説を読むことが出来る。

 百年前の、二百年前の、三百年前の、さらにもっと昔に書かれた小説ですら即座にダウンロードして読むことが出来る。そうした小説の中には、初めて目にする海外の風景に圧巻される者や、時代遅れの山村に溜息をつく者、そして未知の世界に期待を寄せる者たちが描かれている。

 現代に生きる私たちは世界をそういうふうな目で見ることが出来ない。未知のものに目を丸くする経験を削がれているから。科学がすでに発展し切って、完成されてしまった世界に生きているから。

「どこもかしこも同じ風景だ」

 忠島氏の声が切なく空を舞う。最適化された末に、世界中の都市は普遍性の優しさに包まれた。国の輪郭が溶けてしまったかのようだ。宇宙に出なくたって、今の地球には国境はほとんど残っていないようなものだから。

「で、原爆ドームにたどり着いた君は、何かアイデアを思い付いたのかい」

 核心を突くのが上手い人だと思った。あの建物の前でいつまでも立ち尽くす私を見て、その答えにはすでにたどり着いているだろうに。

「何も」

 何もありませんでした。そう私は答える。

 私は、人が大勢死んでいったこの街の名残を見ても、原爆を象徴したこのモニュメントを見ても、無数の死体が水を濁したその川を見ても、何も感じなかったのだ。戦争の傷跡を前にして笑いながらピースをする旅行者たち。彼らと同じように。

 だって、こういうものは世界中に存在しているじゃないか。

 アウシュビッツで何人のユダヤ人が毒ガスを浴びたのか。

 ツインタワーに飛行機が突っ込んで何人が瓦礫に呑まれたのか。

 そして、原爆第三のグランドゼロで何人が皮膚を垂らしたのか。

 わたしには全部同じものにしか感じられません。歴史の流れの一部として、大量に人が亡くなった出来事としてしか感じとることができません。わたしに出来るのは、それらを元にした物語を読んで、恐れ慄くことくらいです。講習会の後に手渡される用紙に「戦争とは恐ろしいものだと感じました」とお気楽に書くことしかできないのです。

 そのくらいわたしたち人類は、戦争という物語に慣れきってしまったのです。そんな世界に対し、腸が煮えかえるほどの憎しみがこみ上がってきていた。

 どこまで普遍性に浸かるつもりだ、と。

「『原爆を薄める』というタイトルで新作を書こうと考えていたんです。こういう、地獄に慣れきってしまって、普遍性に溺れた世界に対する皮肉のつもりで」

 口だけというのはこういうことを言うのだろう。いつの間にか時間は過ぎていき、ドームへ降り注いでいた太陽の日は陰り始めている。忠島早紀は静かに私の言葉の続きを待つ。

「この世界はフィクションじゃないはずなんです。ですが、世間を見るとどうにも反応が薄い。戦争が起きようとしても、そこに危機感を抱く人は本当に少ないんです。過ちは繰り返しません、なんていう言葉が歴史上どれだけ口に上ってきたのでしょうか。どれだけ悲劇は繰り返されてきたでしょうか。だから……そのことを題材に小説を書こうと思いました」

 そして、ここを訪れて気づいた。

 第三の爆心地が生まれたことで、『ヒロシマ』のオリジナリティは薄れてしまったのだと。

 それは私の心にも例外なくきっちりと浸透していたのだと。

 歴史が薄めるオリジナリティ。

「去年のコンベンションでも思ったのだが、君はどうにもオリジナリティというものにひどく固執しているようだな」

 その通りだ。この国のオリジナリティ。ハンバーガーのパンズのオリジナリティ。原爆ドームのオリジナリティ。オリジナリティ。オリジナリティ。オリジナリティ。

「そうでないと気が収まらないというか、そもそもキーボードを叩く指が止まってしまうんです」

「クリエイターが本来持つべき性のようなものだな。君は本当に彼のようだ」

「……彼?」

 忠島氏が口に出した『彼』という人物は、私のように少しくどいくらい物語に固執していたのだろうか。彼の目が急に細くなり、過去を懐かしむような雰囲気をまとう。そして、私の敬愛する、一人の作家の名前が挙げられる。

「前にも言ったのを覚えているだろうか。君は詩宮伝承にそっくりだよ」

 もちろん覚えている。私の心にしがみ付いて離れない賞賛の言葉だった。しかし、あれはリップサービスに過ぎなかったのではないか。私が詩宮伝承に憧れて作家を目指したというプロフィールを踏まえての言葉だったのではないか。

 私の勘違いでなければ、今回忠島早紀が口にした「彼のようだ」という言葉は、今までのどの言葉よりも真剣味を孕んでいるように聞き取れた。

 詩宮伝承は言うまでもなく伝説の作家だ。累計売上数三億七千万部を記録したのがもう二十年以上前の話で、RiHが世に出回り始めた流れでさらに部数は伸びていると聞いている。SFというジャンルで世の中に旋風を巻き起こしてきた。

 亡くなる直前には執筆支援ツール『テラリオン』を世に送り出し、私のような新人の作家が芽を開く機会をつくった。そんな、私の最も憧れる作家に私自身が相似している?

「結局俺は彼の二番手にしかなれなかった。そんな彼と昔こんな話をしたことがあるんだ。……例えばカメラだ。君は今日、ここで出会った男性から百年前に使われていたカメラを見せてもらったと言っていたな。君はそこで目新しさを感じたはずなんだ」


 ――驚いた。私にとってカメラと言えば、タブレット端末に内蔵された撮影アプリケーションのことなのだ。


「でも、それは目新しさであって、新しさではない。実際にそのカメラは百年前に使われていたものなのだから。君が経験したのは、そういう過去があったのだと知ることに過ぎない」

 私の驚きは、数百年前の小説の登場人物が感じたものとは異なる領域のものだ。彼らは新しいものを見て、その情報量に目を見開いた。対する私は、すでに経過した過去を知り、そこに目新しさを感じ取る。

「詩宮伝承と話したのはそういうことだ。現代の俺たちは過去を眺めることはできるが、未来を覗くことは許されていない。いや正確にいうと、不可能な立場にあるというべきか」

 行き先の見えない忠島早紀の話は、しかし、私をどうしようもなく引きつけていた。

「これは一部の人間しか知らないことなのだが」

 集団の仲間へ秘密を打ち明ける子どものように、彼の切り出しは心地よい。

「詩宮伝承が本当に得意としていたのは『書く』ことではなく『読む』ことだったんだ。自身の作品をわざわざ製本し、自らの物語を客観的に俯瞰することで修正を行っていた。あいつは読むことの天才だったんだ。テラリオンという執筆支援ツールは、まさにその才能があってこそ完成しえた」

 読むこと――すなわち過去を眺めること。

 彼は物語を読むことに長けていたのだと、盟友は語る。

「少し脇道にそれるが、君は共感覚というものを知っているかな」

「確かあの、文字に色がついて見えたりするやつですよね」

 サヴァン症候群を患う人たちに多く見られる特殊な感覚。一つの感覚刺激が別の感覚刺激を同時に引き起こすことで、半強制的な超記憶を実現させる。様々な感覚を一斉に動員して一つの事柄を測定することで、常人には掴みようのない別次元を感覚してしまう症状だ。例えば文章に色がついて見えることで、文字情報と色彩情報の両方でその文章を記憶することが出来るという具合に。

「彼本人が言っていたことだが、詩宮伝承にも似たような特殊な感覚があったらしい。彼には物語に数字のようなものが見えていたらしい。言うなれば物語への共感覚だ。よく愚痴られていたものだよ。あの忌々しい数字の羅列が私の執筆の邪魔をするのだと」

 数字の羅列。

 それが一体何を形容する指標なのか、伝聞で話を聞くだけの私には見当もつかない。それは当時の関係者たちにも同様のことだったらしい。忠島早紀もその中の一人だった。お前は一体何を言っているのだ。俺とお前には何か違う才能があるのか、と。

「しかしね、今ならそれが分かるんだRiHを頭の中に注ぎ込んだ私にはそれが目に見える様になってしまった。忌々しい数字の羅列が」

 悲しそうに、そして、何か口にすることを憚れる言葉に喉を詰まらせるように、忠島早紀は僅かな沈黙をつくった。私に何か重大な事柄を伝えようとしては再び口をつむぐ。

 私には彼がすでに深く語りすぎているように感じられた。

 一介の作家であり、ただ一度のコンベンションでディスカッションをしたに過ぎない間柄の私に対し、あまりにも心の声を漏らしすぎている。この線を越えたら後戻りできないような不安すら覚える。それでも私はその先を知りたかった。

 忠島氏の手が沈黙を破り、ジャケットの懐を探る。取り出されたのは一冊の手帳だった。手帳、すなわち記録を行うための情報媒体。その手帳を私の視線の先にかざし、追従するように言葉を放った。

「詩宮伝承は最高の作家だ。同期としては正直悔しいがそこは認めざるを得ない。彼は短い作家人生の中で物語というものを、そしてフィクションというものの未来を見据えていた。……新作を強く望まれていながらも、彼がどうして執筆支援ツールの制作に従事していたか、これまで考えたことはあったかい?」

 その問いにはこれまで何回も答えを探してきた。結果的に私は、彼が次世代に希望を託していたのだと思うことにした。自分が死んだ後の世界にもフィクションが多く紡がれていくようにと願ったのだと。

「俺もそう考えている。あいつはオプティミストだった。数字の羅列とやらに苛まれながらも、詩宮伝承は書くことを愛していた。だからこそ、その先に物語の終末を予感したんだ。あいつが口にした終末を俺はずっと追求してきた。そしてその末に対面した終末の正体が、この手帳には書き記してある」

 俺はフィクションの臨界点を見たのだと、忠島早紀は告げる。

「アルツァ・シュタイン。君は詩宮伝承に似ているが、同時に俺にも似ている。むしろ今の君は少し俺に寄っているだろうな。手帳の中身を見て君がどう思うかによってその答えは知れる。だから、俺はこの手帳をミス・アルツァ――君に渡してみようと考え始めている」

 夕焼けの光を吸収する真っ黒な手帳を片手に彼は言う。

 枠の決まったパズルのピースのようなものなんだ、と。

「言葉は一体どれだけの恐怖を記述することが出来るだろうか。言葉は一体どれだけの喜びを記述することが出来るだろうか。例えば、小説で表現し得る最高の恐怖とはどんなものだろうか」

 忠島氏の話は加速する。

 言葉が人から人へと情報を伝達する手段に過ぎないのであれば、そこには一定のラインが存在するのではないか。人間が知覚しえない感覚であれば、それは言葉として生まれる必然性がないのではないか。

 例えば色だ。言語によって色彩には表現の幅が存在している。ある国では青は青でしかないが、別の国では青にも複数の種類が用意されている。それはその国で生きる種族が多彩な青を知覚する能力を獲得していたからこその結果なのだ。

 青がただ一つの青としてしか見えないのであれば、一つの言葉で済んでしまう。

 同時に、人間が想像しえぬ存在は物語にならない。ドラゴンもユニコーンもペガサスもそして神さえも、それらはすべて人間の空想の範囲内の存在だからこそ語り継がれてきたのだ。人間には想像できない、形而上のさらに上位に位置する何か。それらは人間の頭には決して降りてこないのだと。

「俺らにとって、想像の限界点がいわゆる神というやつなのだろう」

 静かに聞き続けることしか出来なかった。坦々と語られる言葉の端々に、私の探し求める答えの片鱗が掴めそうな気がしたからだ。後もう一歩。後もう一歩踏み込みさえすれば答えに触れられる。忠島氏の話が途切れたのは、そんな時だった。

「すまない。女性にこうも捲し立てるなんて、お恥ずかしい所を見せてしまったな」

「ちょっと待ってください。その話にはまだ先があるはずです。フィクションの臨界点とは何ですか。あなたは一体何を知ったのですか。詩宮伝承は一体何を予感したのですか」

 てのひらがじわりと湿る。日はもう沈みかけている。そして私たちはすでに語りすぎていた。そのことは互いに理解している。でも、私には最後のピースが足りない。理解に至るための要素がまだ足りていない。

 そんな私に忠島氏は手帳をゆっくりと差し出してきた。

「その答えはこの手帳の中に記されているはずだ。その事実は私一人が抱えるには重すぎるものだ。長年これに苛まれてきたし、その結果前線からも遠ざかり始めていた。どうして俺がこんな話を君にしたのか、疑問に思っているかもしれないな。一度イベントでディスカッションしたという関係以上のものは俺たちにはない。でもな、あのコンベンションで君は言っただろう。初めて読んだ本が詩宮伝承の著作であり、彼に憧れて作家になったのだと。あの時俺はこう思ったんだ。もうそんなに時が経ったのか、と。詩宮伝承に根底の部分で影響された人間が作家になる世代がやって来たのか、と」

 ――俺にとってはそれで十分理由になるんだ。

 私は手帳を受け取った。

「これを君に。これはお世辞ではないが、ミス・アルツァは本当に素晴らしいSF作家だと思う。だからこそ、これを読んでもらいたい。でも最後は自分で悩んでほしい。これを真に受けるか、否か。これにはRiH開発者の知人に協力してもらって進めた研究の結果が記されている。そして、詩宮伝承が見ていた風景を見るための方法が。

 これを読んだ君は、おそらく、フィクションというものを書けなくなるだろう」




   (102)




次回は明日(4/22)の夜に更新予定です

前へ次へ目次