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第九二話 「生別軍師」

 高い秋の空を、二人の天使が西へ行く。彼女らは大きな翼を羽ばたかせ、どんどん小さくなっていった。結局、一度も振り返らずに彼女らは山の向こうへ消える。その姿を、ヴァンは城壁の上から複雑な表情で眺めていた。


 彼の赫赫かっかくの髪をなでる北国マルブルの風は、少し肌寒くなってきた。


               ☆・☆・☆


 一ヶ月ほど前、死闘の末にオルテンシアを奪還した直後のことである。


 体の一部が十字架になるという瀕死の重傷から目覚めたレージュは、秋の風が吹きこむ部屋で、ヴァンにとんでもないことを言い出した。


「あたし、マルブル(ここ)から出て行くから」


 それを聞いたヴァンの反応を(うかが)っていたレージュだが、いつまで経っても彼は何も言ってこないし動きもしない。まるで石像のように固まってしまった。目の前で手を振ってみるがやはり反応はない。突き飛ばして椅子ごと後ろへ倒しても彼はそのままの格好だった。



「……なんだって?」


 倒れたままのヴァンがそう言ったのは、レージュがセルヴァに外の用事を頼んで出て行かせ、窓から見える雲を数え始めた頃だった。


「だから、出て行くって。一週間か一ヶ月か、あるいは半年、一年ぐらいになるかもしれない。もしかしたらもっとかかるかもね」

「待て、待ってくれ」


 あわてて椅子を起こしてヴァンは座り直す。


「出て行くって、そんな、唐突に言われても困る。マルブルはどうする。俺たちは、どうすればいい」

「大人でしょ。自分で考えてよ」


 突き放したようなレージュの声に、ヴァンは次の言葉に詰まってしまう。


「……何故だ」


 ようやく絞り出したヴァンの声には深く重苦しい色があった。

 レージュは二つに増えたクレースをいじりながら答える。


「まあ、いくつか理由はあるけど、蒼天の軍師がここを出た方が戦況的に良いと判断したんだ。マルブル残党軍も安定した城郭まちを取り戻したしね。あたしがいなくてもなんとかなるさ」


 戦略戦術的な理由ならすっぱりと言い切るレージュが言葉を濁している。何か言いたくないことでもあるのではないかとヴァンは推測した。


「レージュ、隠すのはやめてくれ。俺にぐらいは本当の理由を教えてくれないか」


 ヴァンの金色の瞳が、蒼天を照らす太陽のように見つめてくる。


「……そうだね。頼るって決めたもんね」


 蒼天の隻眼のレージュは小さく笑って右目の眼帯を指で掻くとベッドに寝っ転がった。


「あの巨人だよ。出したかったわけじゃないけど、実際に出てきたし、しかも制御できなかった。そんなもんを呼び出しちゃったから、あたしは皆から恐れられてしまっている。みんな、表情には出さないようにしているけど、やっぱり怖がっているのはわかるよ。当然だよね。城郭まちを一つ潰しかけたんだから」

「だがあれはレージュのせいじゃない。偽物とはいえ、赤い光があのまま城郭まちに落ちていたら壊滅していた。レージュが守ってくれなかったら今俺たちはここにいられないんだ」

「ありがとね。でも、人間っていうのは(・・・・・・・・)、皆が皆そう思えるほど強くないんだよ。他者の強大な力を恐れ、憎み、疎む。どれだけ取り繕ってもその本質は変わらないんだ」


 生まれながらに天使の翼を持つ彼女はこれまでも多くの奇異や畏怖の視線を受けてきたことだろう。自分たち赫赫かっかくの義賊団も初めて見たときはそうだった。そして、今までそんな視線を浴び続けてきた彼女の心に、人間に対する不信感が生まれるのは当然の事だ。


 今まで彼女はそんな視線を受け流し続けていたように見えるが、やはり気にならないわけがない。

 当然だ。レージュはまだ十三歳の少女だ。全世界から好奇の目を向けられて居心地の悪さを感じずにはいられないだろう。


 ……なんだかここにきてレージュとの距離が遠くなってしまったように感じる。彼女が身を引いているのか、俺が無意識に後ろに下がっているのか。あるいはその両方か。


 悩むヴァンにレージュは儚げにほほえむ。



「ねえ、ヴァンも、あたしが怖い?」



 レージュがたまに見せるこの表情。彼女のその表情を見るとヴァンは胸が締め付けられる。自分はこの世界にいてはいけないのではないか、と問いかけてくるようだからだ。


 いつもは勇ましく戦場をかける蒼天の軍師も、この表情のときは止まり木を探して飛び続けている疲れ果てた小鳥のようだ。


 しかしヴァンは歯を見せて笑った。

 いつものレージュと同じように笑って彼女の頭を乱暴になでる。


「こんなちんちくりん娘が怖いものか。俺は今でもお前を友だと思っているぞ。レージュはどうだ。もう俺を友と思ってくれないのか?」


 ぐりぐりとなでられたレージュの髪はボサボサになったが、彼女はヴァンの顔を見ていつもの笑顔に戻った。


「にひひ。まさか、あたしは友達を絶対に捨てたりしない。どこまでも付き合ってもらうよ」


 彼女のその言葉に嘘はないだろう。

 ただ何か、決して相容れぬ何かが彼女の言葉にはあったのをヴァンは感じた。


「まあ、ちょっと脱線したけどここまではあくまで表向き、周知の話だ。あたしが出て行く本当の理由、あたししか知らない個人的な理由は別にある。それをヴァンにだけ教えてあげるよ」


 レージュは右目の眼帯を指で掻いている。さっきから時折そうしているが火傷のあとかゆいのだろうか。


「あたしが出て行く本当の理由、それはあの夢だ」


 古代遺産を使った後に見るという白い部屋の夢のことだろう。


「あたしがクレースを使った後の眠りで変な夢を見ることは言ったよね」

「ああ、よくわからない金属の箱に囲まれた白い部屋の話だろう」

「そう。そんで今回も見たのさ。でもいつもと全然違った。いや、同じ世界なんだろうけど、全く知らない場面だった。それに彼女(・・)の言葉も何故かかなり理解できたし、何よりその内容が……」

「内容が、どうした」


 顎に指を当てて真剣な表情で考え込むレージュに先を促すが、彼女は首を横に振ってしまう。


「……いや、あたし自身もまだ整理ができていないんだ。憶測で物を言うのはやめよう。とにかく、その夢の事を確認するためにも一度ここを出る必要がある。どうにもあの夢はあたし個人の問題だけじゃない気がするからね。マルブルからも一旦離れた方が良さそうだし、ちょうどいいや」


 その夢は、レージュ自身のかなり深いところの話なのだろう。ヴァンは口を挟めずにいる。


「ついでにこれもヴァンにだけは言っておこうかな。セルヴァの時計から流れたあの曲のことを」


 そう言ってレージュはクレースの十字架を一つ取り外して笛のようにくわえて吹き始める。セルヴァがレージュに出会ったときに聴いた曲だ。風に乗って耳に届く不思議な音色のその曲は、やはり心当たりがない。しかし聞いているとなんだか懐かしい気持ちになる。


「この曲がどうかしたのか」

「夢の中の彼女(・・)が言うには、この曲の題名は半分の天使(・・・・・)って言うんだって」


 その名を聞き逃すヴァンではなかった。彼の座っている椅子が音を立てる。


「それは、俺が」

「そう、ヴァンがあたしに付けてくれた二つ名と同じなんだ。これはちょっとした偶然で済ませるにはいかないんだよね。一応聞くけどさ、知ってたわけじゃないよね?」

「もちろんだ」

「だよね」


 ヴァン自身は夢の中の彼女(・・)のことなど当然知らないし、隻眼片翼のレージュを見てふと思ったことなので、そんなところと一致しているとは考えつかなかった。


 そして真相を知るためにレージュは古代遺産へ行くという。


「夢にしか見たことの無いこの世ならざる場所といったら古代遺跡しかない。この世界のことわりも、クレースの事も、あたし自身の事もあそこには全部あるはずだ」

「確かにそれはそうかもしれないが、古代遺跡なんて入ろうと思って入れるもんでもないぞ」


 レージュは空を見上げ、手を伸ばして片翼を羽ばたかせる。


「まあ、ふつうの人はそうだろうね。でも、仮にもあたしは天使なんだ。それも、天使の輪(クレース)を二つも持つ上位のね。だからか、クレースが増えてから聞こえる声があるんだ」


 半分の天使が口笛を吹くと、窓の外を鳥が西へ飛んでいく。


「声?」

「うん。西の空があたしを呼んでいるんだ。そこに何があるかはわからないけど、必ず何かある」

「……どうしても行くのか?」

「大丈夫、絶対に帰ってくるよ。信じて待ってて」


 もうヴァンは何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだ。



 それから一ヶ月ほど経って九月に入ると、天使たちは西へと飛び立っていった。


               ☆・☆・☆


 西へ飛んでいった天使たちが完全に見えなくなってもヴァンは空を見上げたままだった。


 ヴァン(人間)では決して届かぬ空を、レージュ《天使》は行く。

 決して、手の届かぬ場所を……。


「必ず、戻って来いよ。レージュ」

次回以降はレージュ編となり、彼女にスポットを当てていきます。(`・ω・´)ゞ

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