第九一話 「離別軍師」
オルテンシア奪還から三日後。未だ戦後の処理に追われているオルテンシア城内では誰もが慌ただしく働いている。王太子殿下であるヴァンも例外ではなく、書類の束を持って部屋を行き来していた。
そんな中、レージュが目覚めたという報をヌアージが知らせてくると、ヴァンは持っていた書類の束を彼に投げ渡し、かつてないほどの早さで城の廊下を走り去っていく。途中でビブリオに怒られたような気がするがもちろん無視した。
「レージュ!」
文字通り部屋に飛び込んだヴァンを、丸縁眼鏡のメイド天使が微笑んで迎え入れ、ベッドの上で包帯をぐるぐるに巻かれた天使が悪戯っぽい笑みを向けてきた。
「やあ、ヴァン。相変わらず老けた顔をしているね。急に走ると腰に来るよ」
いつも通りの軽口を叩くレージュを見て、ヴァンは深く安堵の息を吐く。
青空から吹いてきた風がレージュの下ろしている長い金髪をなでる。
本当に生きててくれたのだな。
ヴァンもレージュに笑いかける。
「もう起きあがっても大丈夫なのか?」
「うん。まだ体はまともに動かないけど、頭は働くし、気分も悪くない。セルヴァとヌアージが治してくれたおかげだね」
「いえいえー、私は大したことはしてませんー」
「謙遜することはないぞセルヴァ。俺は何もできなかったんだからな。お前とヌアージの爺さんがいなかったら、俺はこうしてレージュに会えなかったのかもしれない。改めてお礼を言わせてくれ。レージュを救ってくれて感謝する」
深々と頭を下げるヴァンにセルヴァは馬鹿真面目に言葉を返す。
「どういたしましてー」
その様子を見てレージュもにひひと笑う。
「ヴァンだって頑張ってたそうじゃない」
「いや、何もできなかった。お前を、二人に任せるしか俺にはできなかったんだ」
「そんなことない。聞いたよ、肉を焼いて振る舞ったって。あの状況でそんなこと、普通はできるもんじゃない。だいぶ王太子殿下も板に付いてきたんじゃないの」
「あれはただじっと待っているだけなのが耐えきれなかっただけだ。深い意味はない」
「打算で動かないそういうところがあたしは好きだよ」
真っ正面から純真な好意を向けられ、純朴な少年のようにヴァンは赤面する。
「それに、あたしに一番に泣きついて手を握ったってのもヌアージから聞いたよ」
「あのジジイ……」
耳を赤くするヴァンを見てレージュはにひひと笑う。
「いやいや、あたしってば愛されているね。泣くほど心配してくれる人がいるんだから」
「当然だ。俺だけじゃない。マルブルにとっても、白き翼にとってもお前はなくてはならない存在なんだからな」
場を流そうとするが、レージュがにやにやしているところを見ると全く流せていないようだ。
「えらく上機嫌だな。俺をからかっているのがそんなに面白いのか?」
「まあそれも面白いけど……」
レージュは自分の頭の上に浮かんでいる二つの十字架のサークレットを見上げる。
「まさかクレースが増えるとはね。不思議で変な感じだけど、なんだか妙に嬉しいんだ」
クレースはレージュがいつも身につけている十字架のサークレットだ。以前は一つの輪であったそれは、今は二つに増えていた。しかも、その二つの輪は謎の力で宙に浮いている。
「いったい、これはどういうことなんだ。なんでいきなり増えたんだ?」
「んーとね、もらったんだよ」
「誰から?」
「あたしから」
「……どういうことだ?」
「にひひ。まあ、その話はまた今度してあげるよ」
クレースは、数が増えたり宙に浮いたりと変化があったが使用には問題ないらしい。これまでと同じように変化の能力を使えるし、もちろんレージュの失った片翼の代わりにもなる。
そして、クレースの回復もセルヴァがいれば容易に行える。
レージュは、空を取り戻したのだ。
「天を翔る蒼天の軍師復活ってところか」
片翼の天使は人差し指を立てて横に振る。
「ちっちっ、せっかくだからヴァンには半分の天使って呼んでもらいたいねえ。あれ、結構気に入っているんだ。にひひ」
いつもの、レージュだ。
ヴァンは改めて安堵すると、鼻の奥がツンとなるのを隠して最高の笑顔で返す。
「ああ。半分の天使レージュ、ここに復活だな」
天使はまた生きて俺の前で笑ってくれている。これほどまでに深い喜びを感じたのはいつ以来だろうか。
☆・☆・☆
「それじゃ、感動の再会はこの辺にしておこうか」
レージュがパルファンを取り出して火をつけずにくわえると場の空気は一気に引き締まる。この切り替えの早さは流石と言ったところだ。
ヴァンも改めて気を引き締める。
「だいたいの状況はヴァンが来る前にセルヴァから一通り聞いた。お互い、よく無事だったものだよ」
「まったくだ」
イデアーの登場からの出来事を改めて振り返ってみても、本当に良く生きていたものだと実感する。
天地がひっくり返ったような、今でも信じられないあの赤黒い世界。ありとあらゆる攻撃が通じず、偽の赤い光すら呼び出す天使イデアーと、天を貫く巨人を一撃で粉砕したコシュマーブルという男、この二人を相手に、あの場にいた全員が歯が立たなかった。大陸最強のリオンですら、イデアーに傷を負わせることができず、敗北している。
良く生きていた。というよりも、殺されなかっただけだ。奴らは、殺そうと思えばいつでも殺せた。見逃してもらっただけだ。ヴァンは拳を固く握った。
「レージュ。あの時のこと、覚えているか」
「偽物の赤い光を見てからのことはよく覚えていない。体も心もバラバラになったみたいだったから。実際、バラバラだったらしいね。腕も足も十字架になったってセルヴァから聞いたよ」
しかし今はもう元通りの浅黒い肌の腕と足に戻っている。触ってみても固い感じはなく、プニプニとしている普通の体だ。
「クレースを使いすぎたからああなったのか?」
「……かなぁ。あんなことになったのは生まれて初めてだからよくわかんないや。それか、あのクソ野郎の顔を見たからかもしれないけどね」
クソ野郎とは宰相コシュマーブルのことだろう。レージュがこれほど人を嫌悪しているのは見たことがない。
「あいつがレージュの羽と目を奪ったのか」
「そうだよ。マルブルを赤い光で焼いた後に嬉しそうに笑いながらね。しかもあのイデアーというあたしの偽物に付けるとか、悪趣味にもほどがあるよ。ああ、思い出すだけでも腹が立つ」
その思いはヴァンも同じだった。あの時はファナーティのように飛び出しはしなかったものの、両の拳は爪が食い込んで血がにじむほどに握りしめていた。
「イデアーは古代遺産で作られたキメラの上位版みたいなものだと思う。一人で動いてたからね。首をねじ切られても生きているなんて普通じゃない」
「今回のことで俺は古代遺産の恐ろしさが改めて身に染みた。あんなものがこの世界のあちこちに存在していると考えるだけでぞっとする」
「さすがにあそこまでの物はそうそう無いだろうけどね。あたしが古代遺産を殲滅しようとするのも分かるでしょ」
「ああ、痛いほどによく分かった」
この大陸中に散らばる古代遺産がいっぺんに使用されたならば、恐らくアーンゲル大陸は消えてなくなるだろう。そして、大陸全てを巻き込む全土戦争が起きている今、いつそのような状況になってもおかしくはない。
一刻も早くこの戦争を終わらせねば。
「しっかし、体が十字架になるなんて、いよいよあたしの人外っぷりにも磨きがかかってきたね」
「レージュ」
「大丈夫。あたしがなんであろうと、あたしはあたし。でしょ?」
「……ああ、その通りだ。レージュはレージュだ。それだけは忘れるな」
前から頼もしさはあったが、危なげでもあった。小さな天使は自分の存在に悩んでいたからだ。だが、今の彼女にその影はない。溌剌とした顔には、今まで以上に輝いて見えた。これも、クレースが増えた影響だろうか。
俺は、レージュの心の重荷を半分もってやれたのだろうか。いや、持ってやれたのだと思おう。そして、これからも支えていきたい。
この先もレージュと一緒なら、どんな苦難も打開できる気がする。マルブルの開国王の伝説のように、半分の天使レージュとならばきっと素晴らしい国を築けるはずだ。
「それでレージュ。今後のマルブルの動きはどうしたらいいだろうか。俺は――」
「ああ、その前にね、ヴァンに言っておくことがあるんだ」
「なんだ」
レージュは蒼天の隻眼で、窓から覗く同じ色の空を見上げる。
「体の調子が治って、あたしが動けるようになったらね」
「ああ」
「あたし、マルブルから出て行くから」
第三章・半分の天使と半分の天使 完