第九〇話 「増殖軍師」
レージュが運び込まれてから固く閉ざされていた家屋の戸に動きがあったのは、朝日が山から顔を出す直前だった。
東の空が完全に白み、永遠とも思われた夜が終わろうとしている頃、家屋の戸がゆっくりと開いた。屋根に止まっていた鳥たちが、不満そうに短い鳴き声を発しながら飛んでいくと、いつものボロいローブ姿のヌアージが中から現れる。
ふらつく足で、倒れないように一歩一歩気を付けていた彼は、戸から出てくるとそのまま段差に座り込んでしまう。ヌアージが出てきたのと同時にヴァンを除く全員がヌアージに駆け寄る。
「成功したんだろうな?」
「レージュは?」
「お嬢は?」
「少しは儂の心配もして欲しいのう……。人が飯も食わずに頑張っている最中に肉なぞ焼きおってからに……」
そうぼやくヌアージだが、彼らの目は真剣そのもので、ヌアージのぼやきなど聞いてもいなかった。すぐに答えないヌアージに凄い剣幕で迫る。
そんな中、ヴァンが悠然と立ち上がってヌアージに歩み寄っていく。ヌアージに迫っていた彼らは無意識にヴァンに道を開けた。
そして東の山から朝日が姿を現し、輝かしい曙光を横に受けながら、赫赫の髪のヴァンはヌアージに確認する。
「成功した。そうだな」
「……うむ。峠は越えた。勝利の女神は、生きておるぞ」
ヌアージが鼻息を漏らしてうなずくと彼らは喝采をあげる。ある者は涙を流し、ある者は抱き合い、ある者は長く息を吐いた。
助かった。レージュは生きている。勝利の女神は健在だ。
吉報を城郭中に知らせるために、待機していたレジスタンスの伝令役のモワノーは、早朝だということもお構いなしに、大声でレージュ生還を叫びながら走っていく。その歓喜の声は、朝日が城郭を照らすように広まっていった。
「今は眠っておるがじきに目覚める。だがしばらくはまともに動けんじゃろう」
それでも構わない。生きていてくれたのだ。それ以上に望むことなど無い。
「こやつもよく頑張ってくれた」
「もう頑張りすぎてよく覚えていませんー」
目をぐるぐるさせながらセルヴァもふらふらと座り込んでしまう。
「よくやってくれた。本当によくやってくれた。心から、感謝する……」
ヴァンは二人を抱き寄せ感謝の言葉を述べる。心に深く沁みるような声色だった。
「なに、儂は儂のできることをしたまでじゃ。そうじゃ。せっかくだから様子を見ていかぬか。直接見た方がお前たちも安心できるじゃろう」
「入っても大丈夫なのか?」
「一人だけじゃ。あまり大勢だとまだまずいのでな」
ヴァンが皆を振り返ると、全員が彼にうなずいた。ここにいる誰よりも長くレージュといた白き翼のファナーティも、涙をこすった目でヴァンに笑いかける。
「行ってやりなよ」
「ファナーティ、いいのか」
「俺はお嬢が生きていることがわかれば十分なんだ。お嬢がどこを飛び回ろうと、最後に帰ってくるのはウチなんだからね。今はあんたに譲るよ。早く行かないなら俺が行くよ」
「……すまない、恩に着る」
家屋の中に入ろうとするヴァンにヌアージが怪しげな声でささやく。
「中を見ても驚いて気絶するでないぞ」
「……どういうことだ。レージュは助かったんじゃないのか」
「助かっておるとも。腕と足は元に戻り、心臓もちゃんと動いておる。だが、ひぇっひぇっ、少し面白いことになってのう。ひぇっひぇっ」
怪しく笑うヌアージを問いつめる前に、ヴァンは中へ強引に連れ込まれる。
☆・☆・☆
小さな家屋の中は物が散乱していた。壁や天上の石壁には小さな何かがぶつかってえぐれた跡が無数にあり、床にも似たような跡がある。調度品や家具は破壊され、あちこちに残骸が散らばっていた。
これほどの騒動があったにも関わらず、外にいたときはなにも聞こえなかった。治療が行われていたというより、戦いでもあったかのようだ。
部屋の中央の大きなテーブルの上には、包帯でぐるぐる巻きにされ、胸から足にかけて大きな布が被せられているレージュの姿があった。
彼女は静かな寝息を立てている。眼帯のクレースも外され、閉じた両の瞼は左が膨らみ右はへこんでいた。
ヴァンは、布から出ているレージュの細くて小さな手に触れる。
暖かい。生きている。レージュは、生きている。そのことを実感できると、鼻の奥がツンとして涙があふれた。
「良かった……。本当に、良かった……」
感涙にむせびながらヴァンは手を握る力を込める。
皆がうなだれてレージュの生還を諦めかけていた時、一番心配していたのは他ならぬヴァンであった。しかし彼はそれをおくびにも出さず、平静と暢気を装い、みんなを安心させるように努めた。これこそまさに王太子たる、指導者たる行動であるが、彼はそれを計算して行ってなどいない。そのような計算などできる男ではないからだ。
だからこそ、なればこそ、ヴァンはヴァンたりえるのである。
そんなヴァンの後ろからヌアージがのっそりと近づいてきた。
「まともに動けるまで多少の時はかかるじゃろうが、数日中に目覚めるじゃろう」
「もう一度言わせてくれ。ありがとう。爺さんがいなかったら、今頃レージュは……」
そこでヴァンの言葉は途切れる。立ち上がってヌアージの手を握る彼の頭に何か当たったのだ。ヴァンが視線を上げると、そこには信じがたい光景があった。
二つの輪っかが空中に浮いている。彼はその輪に見覚えがあった。レージュの親友である古代遺産のクレースだ。しかし、クレースは一つの輪であったはずだ。だが、これはヴァンの見間違いではなく、本当にクレースが二つになっているのだ。
「これは、クレースが、二つになっているのか……?」
見た目は変わっていない。小さな十字架で構成された天使の輪だ。それがそのまま二つに増えている。一つの輪の穴を通すようにもう一つの輪が知恵の輪のように繋がりあっている形に変化していた。
しかも、浮いている。クレースはレージュが展開するとき以外は彼女の頭に乗っかっているだけだ。それが、海に漂うクラゲみたいにプカプカと浮いているではないか。
なぜ、クレースがこんなことになっているのか?
ありえないといった表情でヴァンはヌアージの方を見る。
「……爺さん。これは、いったいどういうことなんだ?」
「ひぇっひぇっひぇっ。儂はそのクレースとやらには何もしておらんぞ。治療後に勝手にそうなったのじゃ」
「勝手にそうなったって……。どこから増えたんだ? 風もないのにどういう原理で浮いているんだ?」
「さてな。この娘が起きたら聞いてみれば良かろう」
それまで笑っていたヌアージだが、突然笑うのをやめ、真剣な表情でヴァンを見た。
「ヴァン。お前はこの小娘をどう思う?」
ヌアージはヴァンの黄金の瞳を見据えて言葉を続ける。
「城郭を容易く滅ぼせる十字架の巨人を作りだし、手足が十字架に崩れ、人間にはない翼を持つこの小娘を、お前はどう思うかと聞いておるのじゃ」
その質問に、ヴァンは歯を見せて笑って答えた。
「いつ何度聞かれても答えは同じだ。レージュは親友だ」
一瞬も考えることなく即答したヴァンに、ヌアージはフードに隠れた目を丸くする。
「……ならば、良い。つまらぬことを聞いたな」
「気にするなよ爺さん。レージュを救ってくれたあんたには感謝してもしきれねえんだからな」
「ひぇっひぇっ。そうかいそうかい」
愉快そうに笑った後、ヌアージは細く長い息を吐く。一晩中ずっと治療をしていたのだ。疲れていないはずがない。
「この娘は後で城に運ばせよう。ここはあくまで応急的な治療場だったからのう」
「そうだな」
「世話はあの眼鏡の天使にさせる。異存はないな」
「ああ」
ヴァンはもう一度レージュを見つめ直す。浅黒い肌に長い金髪、幼さの残る火傷顔に隻眼、そして純白の翼。クレースは二つに増えたが、他は何も変わっていない。いつものレージュが静かに寝息をたてていた。
朝日を思わせるレージュの金髪をヴァンは優しくなでる。
「半熟卵作戦成功だな。レージュ」
また、涙が出てきた。