第八九話 「夢幻軍師」
「……ここは?」
気がつくとレージュは暗闇の中に一人倒れていた。周りには、墓場のように、大小様々な金色の十字架が地面から生えている。それは地平線の向こうまで続いていた。
黒い空と黒い大地。それに無数の十字架。妙に冷たい空気。
なぜ自分はこんな所にいるのだろう。
なんとなく頭を掻いたレージュは、そこにいるべきものが無くなっていることに気づいて青ざめた。
クレースが、いない。
「うそ、なんで……。クレース! どこにいったの!」
呼びかけてもクレースは答えない。
眼帯にしていたクレースもいなくなっている。
「さ、探さなきゃ……。クレースがいないと、あたしは……」
立って歩こうとするレージュだが、足が動かない。それも当然だ。彼女の足は十字架となって崩れ落ちているのだから。
「……えっ? な、なにこれ!」
足だけではない、腕も十字架になって彼女の体から離れていく。
「あ、あたしの体が! なんで!?」
狼狽するレージュだが、動く度に自分の体は十字架になって散っていった。
「落ち着け、落ち着け……。まずはなんでこうなったのか考えるんだ……」
自分の置かれた状況を整理しようとするレージュは、着ている革の服がボロボロになっていることに気づく。
そして思い出す。自分がイデアーに倒されたことを。
「そうだ。あたしはオルテンシアで……」
すると、ボロいフードを被ったローブ姿の人物がどこからともなくレージュの前に現れた。背は彼女と同じぐらいで顔は見えない。
「ヌアージ? ……いや、違う」
「にひひ……」
その人物は笑っている。
レージュと同じ声で笑っている。
「まさか、イデアー!?」
問いかけると、その人物はレージュの周りを歩きながら答える。
「違う違う。あたしはレージュだよ」
「ふざけないで。レージュはあたしだ」
「にひひ。本当に?」
「本当だ。あたしはレージュ。傭兵団白き翼に拾われ、マルブルで蒼天の軍師と呼ばれた、半分の天使レージュだ」
フードの人物は、倒れているレージュの前にしゃがみ込む。フードの中に見えるその顔は、イデアーではなく、まるで鏡のように自分とそっくりだった。
「それが、レージュなの?」
「……なんだって?」
「傭兵団に拾われて、軍師をして、半分の天使と呼んでもらえれば、それはレージュなの?」
「……」
レージュが答えられずにいると、少女はフードとローブを脱ぎ捨てた。中からは、白いワンピースを着た片翼の天使が現れる。肌の色も、目の輝きもレージュと全く同じだ。ご丁寧にクレースまで被っている。ただ、金髪だけは短く切られていた。
「にひひ答えられないんだ。じゃあレージュはあたしだ」
「違うっ。あんたはレージュじゃない。レージュはあたしなんだ!」
「そうかな。あたしの手足を見てみて。ちゃんと人の体だ。でも、あんたは違う。あんたの体は十字架で出来ている。そう、まるで……」
「それ以上言うな!」
聞きたくない。
耳をふさぎたいが、自分の手は十字架になっているのでふさぐことが出来ない。
「あたしは、あたしは……!」
「にひひ。本当はとっくに分かっているんでしょ? あんたは、天使でも人間でも死神でもなくて、半分の天使レージュでもなくて――」
「黙れええっ!」
レージュが叫ぶと、目の前の自分が光の粒となって消えた。
涙を流しながら荒い呼吸を繰り返し、レージュは暗闇の中にまた一人になる。
「違う……。あたしは、あたしは……違うんだ!」
レージュの涙が地面に吸い込まれた瞬間、黒い墓場は消え去り、真っ白な空間へと変わる。あまりのまぶしさに目をつむるレージュだが、再びその目を開けると、そこは何度も夢に見た白い部屋であり、目の前に白衣を着た長髪の人物が背を向けて立っていた。
その人物が指を弾いて鳴らすと、レージュの手足が光の粒に包まれて、十字架から元の手足に戻る。
「な、治った……?」
信じられないことに戸惑うレージュに、白衣の人物は顔だけこちらを振り向き、くわえている短い棒を愉快そうに揺らして悪戯っぽく笑った。
「にひひ」
顔はもやがかかっていて見えない。
だけど、誰かはわかる。
彼女だ。
何度も夢見た彼女が目の前にいる。
たまらずレージュは彼女に抱きつく。
初めて知る彼女の温もりに触れると、自然と涙がこぼれた。さっきの涙とは違う、暖かい涙だ。
彼女がレージュの頭をそっとなでる。慈愛に満ちたその手に触れてレージュは確信した。
彼女が、自分の母なのだと。
永遠にこうしていたかった。いつまでも、彼女になでてもらいたかった。
だが、突然現れた白衣の男が彼女に何かを呼びかける。すると、彼女はレージュから離れ、その白衣の男の方へと行ってしまう。
「待って! 行かないで!」
レージュの悲痛な呼びかけが届いていないのか、彼女はどんどんと離れていってしまう。
レージュは追いかけて走り出すが、狭いはずの白い部屋はどこまでも伸びていき、いつまで経っても彼女との距離は離されるばかりだ。
息も切れてきた頃、レージュの前に見知った人物が次々と現れる。
「だんちょー、ローワ、ヴァン、それに傭兵団や騎士団、義賊団のみんなも……」
彼らはみんな、いつの間にか現れた劇場の舞台のような壇に立ち、レージュに微笑みかけて手を差し伸べている。
壇に上がったレージュは、彼らを忙しなく見渡して少し逡巡したが、すぐに彼女を追おうとした。
「ど、どいてっ」
彼らをかき分けて彼女を追いかけようとするレージュの腕を誰かが掴む。
「離して!」
振り解こうとしてもその手は離してくれない。
「あたしは、あたしは彼女を追いかけるんだ。なんで邪魔をするの!」
力任せに振り払おうとすると、レージュの腕が取れてしまった。血の代わりに十字架が流れ出す自身の腕に息を呑むが、とにかく拘束からは逃れた。これでまだ彼女を追える。
腕を捨てて再び走り出そうとするレージュだったが、すでに彼女の姿はどこにもなかった。
すると、文字通りレージュは足から崩れ落ちる。足が十字架に戻ってしまったのだ。
「あ、ああ……」
再び闇が世界を包み、白い部屋は消えて十字架の墓場が現れる。
レージュの残った腕も崩れ、体まで十字架に変わろうとしている。当惑するレージュだけでなく、彼女を囲む彼らもみな十字架になって崩れてしまった。
そして、漆黒の空も、暗澹とした大地も、世界全てが小さな十字架となって崩れてゆく。
無数の十字架と共に無限の闇へと落下するレージュの隻眼からは全ての色が消えていた。
……どれぐらい落下したのだろうか。百年とも思えるし、まだ一瞬しか落ちていないのかもしれない。まだまだ底は見えない。
だけど、もう、なにもかもがどうでもよかった。
――何かが聞こえた。
何かはわからない。
でも、確かに聞こえた。
……。
……音楽だ。
この曲は、知っている。
彼女が口ずさんでいた、あの曲だ。
『約束だ』
誰かの声がした。
約束。
あたしは約束をした。
レージュの隻眼に金色の光が微かに燃え上がる。
「誰と?」
自分の声が問いかけてくる。
見れば先ほどの短髪の自分が共に落下していた。
「誰と約束したの?」
「……みんなと」
「みんなって?」
短髪の自分が笑っている。悪戯っぽい笑みを浮かべて笑っている。
……その顔を見ているとなんだか妙にムカついてきた。こんなにも小憎らしい顔をしていたのか、自分は。
「ねえ、みんなって誰なのさ?」
「みんなはみんな、これまで出会ってきたみんなだ」
「みんなと約束した?」
「そうだ。だんちょーとも、ローワとも、ヴァンとも、そして彼女とも。あたしは約束した!」
レージュの隻眼にはすでに輝かしいぐらいの光が灯っていた。
「にひひ。そうだよ。レージュは約束した。それはレージュだけの約束だ。それがレージュなんだ。だったら絶対に守らなきゃいけないよね。なら、こんなところでのんきに落ちている場合じゃない」
短髪のレージュが笑うと、レージュも悪戯っぽい笑みを返す。
「わかっている。だからあんたの翼を貸して」
「もちろん。レージュの頼みは断れないからね。にひひ」
二人のレージュは互いに向き合って手を握る。そして呼吸をぴったりと合わせ、お互いの右翼を思い切り羽ばたかせた。
二人の半分の天使は、十字架の雨の中を、漆黒の天頂に向かってグングン昇っていく。
すると、闇のみが広がっていた空に一点の光が現れる。その光を目指して彼女らはいっそうスピードをあげた。
「ねえ、レージュ」
もうすぐで光の中に届く頃、短髪のレージュが呼びかけてきた。すると、短髪のレージュが被っているクレースを取り外してレージュの頭に乗せる。
「クレースを貸してあげるよ」
「触っただけでも怒るレージュがまさかクレースを誰かに貸すなんてね」
「誰かじゃない。自分に貸すなら大丈夫さ。ねえレージュ」
「にひひ、確かに。でも、あんたはクレースが無くて大丈夫なの?」
「ヘーキヘーキ。あたしにはあたしのクレースがちゃんといるから」
受け取ったクレースからは暖かい思いが流れ込んできた。懐かしくて、愛おしい。そんな感情で心が満たされていく。
「心を強く持つんだよ、レージュ。大丈夫、レージュならどんな困難も乗り越えられる。あたしが保証するよ」
「自分に保証されるのも妙な気分だね」
「にひひ。ところで、あたしの正体とか聞かないの?」
「どうせ答えないでしょ」
「さすが、わかってるね」
「「にひひ」」