第八七話 「委託軍師」
全員が意気消沈としている所に、いつもなら音もなく現れるはずのヌアージが息を切らしながらひょこひょこと走ってきた。
「こ、この年になって、こんなに走るとは思わなんだ」
「爺さん……、レージュが……」
ヴァンの泣きそうな声とレージュの様子を見てヌアージは瞬時に状況を理解する。
「ちょっとどいておれ」
ヌアージは切迫した声でヴァンをどかしてレージュに近づき、虚ろに空を見つめる隻眼をのぞき込んだり崩れた十字架を触ったりしている。
「なんだこの胡散臭いジジイは。汚い手でお嬢に触るな!」
突然現れたヌアージを引き剥がそうとするファナーティをフェールが止める。
「落ち着くのだファナーティ。オネットたちが黙って診せているということは、少なくともあの老人には何かしらの可能性はあるはずだ。レージュ殿のことを思うなら、力無きお前が邪魔をするな」
「……」
ファナーティはフェールの手を力任せに引き離すと、レージュを調べるヌアージを監視するようににらみつけている。
「ふうむ。酷いものじゃ。これでよく生きておるのう」
レージュから目を離さずヌーアジはため息をついた。
「レージュは生きているのか?」
「まだ死んではいないというだけの話じゃ。このままでは夜を越せぬじゃろう」
「やはり……」
もう、駄目なのか。
こんなところで、こんなにも呆気なくレージュは死んでしまうのだろうか。
全員が絶望の深淵に飲み込まれそうになったとき、ヌアージが立ち上がり、ヴァンの潤んだ金色の瞳を眺める。
「……爺さん。なんとか、なんとかならないか。俺はレージュを失いたくないんだ!」
ヴァンの涙ぐむ瞳を、白く濁った瞳で見つめ返す。純朴な少年の様に潤むヴァンからヌアージは目を伏せて一度深く呼吸をすると、白くて長い髭をもごもごと動かして何かをつぶやく。
「なんだ、なんて言ったんだ、爺さん」
「いや、……ここは儂に任せてもらえぬか。これでも古代遺産には多少の心得がある。もっとも、必ず救えるとは保証できんがな」
ヴァンの目にパッと光が宿る。
「頼む、ヌアージ。俺にはどうすることもできないが、やれることがあるならなんでも言ってくれ」
「それなら一つだけ約束をしてくれぬか」
「なんだ」
「あそこの家屋で治療をするが、儂が出てくるまで決して覗くな。それだけ守れるな?」
「わかった。約束する。誰であろうと、覗く奴は斬り捨てる。その代わり、レージュを助けてくれ」
「……手は尽くす。こやつに死なれては儂も困るのでな」
ヌアージは白く濁った目でもう一度ヴァンを正面から見つめた。
「本当に良いのか? もしかしたら儂がクレースを盗むために嘘を言っておるのかもしれんぞ」
「俺はレージュみたいに正確に嘘を見抜けない。だが、信じることはできる。俺は、あんたもレージュも信じている。だから、任せる。――みんなもそれで良いな!?」
ヴァンが後ろを振り返って皆に是非を問う。レージュをヌアージに任せて良いか問うた。
彼らは顔を見合わせて、ヌアージの他に誰もがどうにも出来ないのだと理解している。否定する者は、誰もいなかった。
「ひえっひえっ。信頼されておるのう」
この場に現れてから初めて笑ったヌアージは、ニコニコ顔で立っているセルヴァを手招く。
「そこのメイド服の天使、一緒に来てくれ」
「かしこまりましたー」
セルヴァが、クレースと崩れたレージュをそっと抱いてヌアージの後に付いていく。家屋の戸を開けて、セルヴァを先に中に入れると、ヌアージは彼らに振り向く。
「生きるにせよ死ぬにせよ、遅くとも今夜中にはけりがつくはずじゃ。儂が出てくるまで、分かっておるな?」
「ああ、誰も覗かせない。頼むぞ、ヌアージ」
ヌアージはうなずき、中にはいると戸はゆっくりと閉められた。
☆・☆・☆
「まだ終わらないのか」
リオンの苛立つ声が重苦しい夜空に昇っていく。もうすっかり日は暮れ、空には半分に少し足りない月が漆黒に揺らいでいる。
ヌアージとセルヴァが崩れかけたレージュを抱えて民家に入ってから既に五時間が経過していた。
オルテンシアの城郭に戦勝の空気は無い。カタストロフ兵は全て捕らえられたか逃げだしたかして、すでに敵対勢力は無いというのに、城郭は喜びに満ちてはいなかった。むしろ、占領されていた時以上に陰鬱とした重苦しい空気が充満している。
少し前にスーメルキ団とビブリオも合流してきた。ビブリオは兵たちの話を聞いてきたのだろう。落ち込んだ顔でオネットと少し話をして座り込む。スーメルキ団の面々は、オンブルと何か話し合った後、彼らもその場に座り込む。包帯を巻いたスーリも彼らと一緒に座っている。
フェールが重たいため息を吐き出す。
「古代遺産は精神力を食うと聞く。あれほどの力をだしたのでは……」
「いや、フェール殿。天使であるレージュは精神を喰われることはない。代わりに体力を消耗するが。しかし体が十字架になるなど見たことも聞いたことがない。古代遺産を使いすぎた者は、普通は廃人になるだけであるが……」
平静を装うオネットも、声は静かだが常に歩き回って甲冑を鳴らしている。
腕を押さえたまま動かないファナーティにオンブルが近づく。
「その折れた腕、早く治療した方がいいんじゃねえか。変にくっついて動かなくなるぞ」
「いらない。お嬢が出てくるまで俺はここを動かない」
「じゃあ応急処置ぐらいしねえか。腕が使い物にならなくなる」
頑ななファナーティに呆れながらも、オンブルは彼の折れた腕に剣の鞘で添え木をし、手当を始める。オンブル自身も、何かしていないと落ち着かないようだ。
誰も彼もが心穏やかでない中、日付が変わってもヌアージたちは未だに姿を現さない。その間、誰もがじっとしてこの場を動かず、ただレージュの生還を祈っていた。
オネットが兵を呼び、戦後の行動を指示していたが、彼ら兵士の顔も暗いままである。
いつまで経っても出てこないヌアージたちにしびれを切らし始めた彼らは、一人二人と家屋に近づこうとするが、その度に切りつけるようなヴァンの制止の声が飛ぶ。
「それ以上近づくな。その家屋を覗くことは俺が断じて許さん。覗こうとする奴は目を潰して足を斬るぞ」
何も出来ぬままさらに時間が経った。
もはや深夜の深い闇は無く、わずかだが夜明けの明るさが近づきつつある。普段は希望の光である朝日も、今だけは昇って欲しくなかった。
何故、今夜中にけりがつくと言ったヌアージが出てこないのか。治療が難航しているのか、それとも、考えたくはないが、それとも……。
もう、駄目かもしれない。誰もがそう思ったその時、ヴァンがやにわに立ち上がる。
皆が注目する中、ヴァンは大きな欠伸をして、わずかに明るさを増してきた東の空を眺めてひどくのんきな声でこう言った。
「腹が減ったな」