第八五話 「凶弾軍師」
リオンですら十字架の網の力で吹き飛ぶ中で、自分だけはレージュと同じように全く抵抗なくすり抜けた。
何故かは分からないが、理由なんてどうでもいい。今のこの絶望的状況で、レージュを守れるのは自分だけなのだ。
ヴァンは剣を握り直し、コシュマーブルを見据える。
「宰相コシュマーブルとか言ったな。お前の目的は何だ。世界征服か、それともレージュか」
剣を構えるヴァンに、既に元の表情に戻っているコシュマーブルは嫌らしく笑う。
「フフフ、面白いことを聞くね。彼女という真実の存在に比べれば、この世界など人形劇に等しい。もちろんそこに存在するキミたちもね」
「ならばなぜ今すぐ俺たちを殺してレージュを奪わない。お前とそのイデアーなら簡単にできるだろう」
「もちろんできるとも。だが私はね、いきなりメインにがっつくほど卑しくはないのだよ。コース料理は順番に食べるし、ワインだって熟成させた方が美味いだろう? そうしてちょうど良い具合になったとき、私はそれをいただく。一息にね。今はまだその時ではないのさ」
不気味な笑みを一層深くしたコシュマーブルは、網の外にいるセルヴァを見つけると小さくうなずく。すると、彼女は首を傾げた。
「……いや、久々に巨人を見られて興奮してしまった。フフフ、少ししゃべりすぎてしまったかな。おいで、イデアー」
コシュマーブルが呼ぶと、イデアーは嬉しそうに彼に飛びついて頬ずりをする。自分と同じ顔をしたイデアーが、あの燕尾服の男に懐いているのを見ると、レージュは腸が煮え繰り返りそうになる。その怒りは、彼女だけではなく、マルブルの男たちも同じ思いだった。
「コシュマーブル。あたしは、お前を絶対に許さない……!」
ヴァンの後ろから、彼の体を支えにしてレージュが現れた。その金色の隻眼は憎しみの炎で赤く燃え上がり、コシュマーブルを焼き殺さんとしているようだ。
「やあ、レージュ。元気そうで何よりだ」
「うるさい。ローワをどこに連れて行った、言え!」
気丈に言い放ったレージュだが、その声は震えていた。無理もない。かつて自分を殺した人物が目の前にいるのだ。恐怖を感じないわけがない。
「さて、どこだったかな。宰相という者は色々と忙しくてね。些末な事は忘れてしまったよ」
はぐらかすコシュマーブルにレージュはサークレットのクレースの十字架を一つ撃ち出す。しかし、弾丸のごとく飛んでいった十字架は、コシュマーブルの目の前で光の粒となって消えた。
「怒った顔も可愛いが、しかしまだ私が一番見たい表情が見れていないな。あの日みたいな、絶望の表情を。愛する者を失ったあの表情を、また見たいな」
愉快そうに語尾を上げるコシュマーブルの声に、レージュの全身に悪寒が走った。
「……なにを、する気だ」
「フフフ……」
コシュマーブルはゆっくりと懐から何かを取り出す。彼の手には、夕焼けの光を不気味に反射する黒い拳銃が握られてた。
この世界には存在しないはずの古代遺産だが、古代遺産の知識が豊富なレージュにはすぐにそれが何かを理解した。そしてそれが、容易く人の命を奪えるものだということも。
昔、どこかであれを見たことがある。
どこかは分からないが、以前にもこんな状況があった。
そして、あの時自分は……。
押しつぶしてくるような恐怖で、胸を押さえて過呼吸になっているレージュの前に、ヴァンが剣を強く握りしめて割り込んでくる。
「俺の後ろにいろ、レージュ! 絶対に俺が守ってやる!」
「だ、駄目だ! あれは、あれは駄目なんだ!」
極度の恐怖と疲労でクレースを使うことができない。
今ここで動けないと、自分は何のために、何のためにこの体があるんだ!
あたしは、
あたしは、
私は――!
「わああああ!!」
吠えるようにしてレージュは無理矢理恐怖を吹き飛ばした。そしてクレースを構成しようとした時、コシュマーブルが甘美な表情で、斬りかかってくるヴァンに向かって引き金を引く。
ヴァンの耳に乾いた音が響いた。
ちょうど手を叩いたときのような、とても軽い音だ。
その音以外は何も聞こえない。
自分の呼吸も、風の音も、網の外で叫んでいるオネットたちの声も、イデアーが笑う声も、レージュが泣き叫んでいる声も、聞こえない。
次に聞こえたのは、自分が地面に倒れる音だった。
それからは、何も、聞こえない。
☆・☆・☆
ふと気づくと、ヴァンは自分がとても居心地の良い場所で寝ていることを理解した。あんまりにも心地よいので、目覚めても目を開けることなく、自分が今まで何をしていたのかも忘れていた。
『~♪』
どこからともなく口笛が聞こえる。
この曲の旋律は知っている。
セルヴァの懐中時計から流れてレージュが驚いていたあの曲だ。
その口笛はどんどん近づいてくる。
そして、自分の近くで止まった。
『ヴァン』
誰かが自分を呼んでいる。
『起きてよ、ヴァン』
いや、誰かじゃない。この声は、とても良く知っている。このまま聞いているだけでも安心できる声だ。
『……早く起きろ。時間がもったいない』
頭を蹴られた。どうやらさっさと起きあがった方が良さそうだ。
「なんだ、レージュ」
体を起こしてあぐらをかくと、そこには白いワンピース姿のレージュがパルファンをくわえて立っていた。背の低いレージュは、立っていても、座っているヴァンよりちょっと高いぐらいである。
右目の眼帯と左翼の欠けた隻眼片翼のいつものレージュだ。しかし、一つだけ違うところがある。トレードマークの一つである長い金髪が、少年のように短くなってしまっているではないか。
「……いったいどうしたんだ、その髪は」
『髪のことは気にしないで。時間がもったいない』
周囲を見渡せば、どこか懐かしい匂いのする濃い霧が自分たちの周りを覆っている。ここにいるのは、自分とレージュだけで、地面や空すらあやふやな存在だ。
「ここは、いったいどこなんだ?」
『ヴァンの頭の中って言うのがわかりやすいかな。本当はちょっと違うけど』
「俺の頭の中?」
『そうだよ。ここに来る前に何があったか覚えてる?』
レージュにそう言われてヴァンは今までの事を思い出した。
ここに来る前の最期の記憶は、あの燃えるような夕日とコシュマーブルの嫌らしい笑みとレージュの泣き顔だけだ。
「……」
『あんたはあのクソ野郎に銃で撃たれた。金属の弾が高速で射出され、あんたの胸に風穴を開けたんだ』
ヴァンが自分の胸を探ってみるがどこにも異常は感じられない。
「……ってことは、俺は死んじまったのか? レージュが俺をあの世に連れて行ってくれるのか?」
レージュはヴァンと目線を合わさずに小さく笑った。
『あんたは死んでないよ。ちょっと死にかけたけど、もうじき目覚める』
手のひらで口元を覆うようにしてパルファンを持ち、レージュは小さな口から煙を吐き出す。
『まあ、その、あれだよ。ありがとうね』
「なにがだ?」
『コシュマーブルからあたしを守ろうとしてくれたでしょ。あれ、すごい嬉しかったんだ』
「当然だ。あんな奴、レージュには指一本触れさせたくない。だが、俺は……」
自分は、奴に負けた。銃とやらで胸を打ち抜かれ、負けたのだ。
ヴァンはありったけの力を込めて、あるかないかの地面に拳を叩きつける。
「俺は、ふがいない……! お前を守れずに、倒れてしまった!」
『そんなことない。ヴァンはあたしを守ろうとしてくれた。それだけでも、とっても嬉しかった』
そこでヴァンははたと気づく。
そうだ、あの場には十字架の網が張られていて、レージュを守れるのは自分しかいない。そこで俺が倒れたのだとしたら……。
「レージュ、まさか、お前は……!」
憂いの色濃いレージュの顔を見て、その先の言葉を紡ぐことができず、ヴァンは口ごもってうなだれてしまう。そんなヴァンの頭を、レージュは優しく抱き込む。
『ねえヴァン。最期に、一つ聞いて良いかな』
さきほどからレージュの言葉の端々が胸を締め付けてくる。あんたは死んでないだの、最期に一つだのと、これでは、まるで……。
『ヴァンは、何があってもあたしを信じてくれる?』
当然だ。
すぐさまその言葉を発しようとしたが、口が動かない。口から出るのは、嗚咽だけだった。
「俺は……俺は……!」
何も出来なかった。不当な差別のない国を作ることも、国王である父親に会うことも、戦いに勝つことも、友との約束も。そして、レージュを守ることも。
何一つ、出来なかった。
何一つ出来ず、レージュの最も憎むべき敵にやられてしまった。
自らのふがいなさに、涙が止まらない。
大の男が、少女に頭を抱き抱えられて涙している。自らの無力さを悔やむヴァンの赫赫の頭を、レージュはゆっくりと撫でた。
『大丈夫。ヴァンがあたしを信じてくれるなら、あたしはあたしであり続けられるから。自分を見失わないで、ヴァン』
「……レージュ」
『もっと話していたいけどもう時間だ。そろそろ行かなきゃ』
離れていくレージュの手をヴァンは掴む。しかし、その手は空を切っただけだった。
レージュの体が上へと浮いていく。
その表情には、彼女が時折見せる深い悲しみが表れていた。
立ち上がって手を伸ばしても届かず、半分の天使の姿はどんどん小さくなっていく。
「レージュ!」
逝ってしまう。レージュが、消えてしまう!
『さようなら、ヴァン』
「待ってくれ! 逝くな、レージュ!」
17/09/03 文章微修正(大筋に変更なし)