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第八三話 「花摘軍師」

 イデアーの翼と目の真実を知って、おぞましい赤い光が目に飛び込むと、あの日の記憶がレージュの中でよみがえる。


 あの日、マルブルが陥落したあの日、すべての物が赤黒く染まる雪の城郭まちで、レージュは死力を尽くして戦っていた。しかし、彼女の力をあざ笑うかのように赤い光は城郭まちを焼き尽くしていく。辺りに満ちる守るべき者たちの断末魔は今でも耳の奥に残っている。


 そして、ついにレージュは力尽き、燕尾服の男に片目と片翼を奪われた。


 あの絶望の日と同じ赤い光が今、再び彼女の前に現れたのだ!



「うわあああああ!!!」


 レージュが頭を押さえて狂気に満ちた叫び声をあげる。


「レージュ!」


 ヴァンが叫ぶレージュをなだめようと抱きしめるが、彼女はヴァンの事など見えないかのように暴れ出す。とても少女とは思えないような力で振り払われ、ヴァンは突き飛ばされてしまう。


 レージュは、赤い光と同じどす黒い赤色になった左目を見開いて血の涙を流し、右目の眼帯(クレース)を握り潰すようにして叫び続けている。そして、死神へ変化したクレースの翼は崩れ落ち、その残骸から大量の十字架が湧き出る。ざらざらと湧き水の様に溢れ出てくる十字架たちは、辺りに十字架の川を作り出すほどだ。


 そうしている間にも頭上の赤い光は次第に大きくなっていく。しかし逃げ場など無い。どれだけ馬を走らせても、あの光からは逃れられないだろう。


 これが古代遺産の力なのか。クレースの巨大狼も心底驚いたものだが、この赤い光の容赦のない暴力っぷりはクレースの比じゃない。神話の時代にはこんな代物がそこら中に溢れていたと考えるとヴァンはぞっとする。



 どんどん赤い光が迫ってくる。気温が急激に上昇し、露出している肌がひりつく。一呼吸毎に肺まで焼けそうだ。もう、どんな抵抗も無意味だろう。空から降ってくる巨岩に対処できる術を自分たちは知らないのだから。


 この場にいるほとんどの者が諦めかけたその時、オネットが声を張り上げた。


「レージュ! 落ち着くんだ!」


 あふれ出る十字架の川はもう膝の辺りにまで量を増している。気を抜くと足を取られて流されてしまいそうだ。

 それでもオネットは必死にレージュに言葉を投げつけ続ける。


「お前はあの日、マルブルで私たちを赤い光から救ってくれた。あれほどの無茶をまた強いるのは心苦しいが、私たちは、まだここで終わる訳にはいかないのだ!」


 オネットの決死の呼び掛けにもレージュは反応しない。ただ、必死に頭を押さえ込んで何かに耐えているように叫んでいるだけだ。


「そうだ。俺たちは陛下を救わねばならない。それには、気に食わんがお前に頼るしかない。レージュ、目を覚ませ!」


 オネットとリオンの二人に続いて次々にレージュを応援する。


「レージュ殿、自分を見失うでない。心をしっかりと持つのだ」

「まだ死ぬんじゃねえぞ。俺は嬢ちゃんにまだ賭で勝ってねえんだからな」

「お嬢! 俺たち白き翼はいつでもお嬢が帰ってくるのを待ってるんだ! 絶対に帰ろう!」

「レージュ様ー。せっかくお会いできたのにもうお別れなんて嫌ですー」


 皆が口々にレージュを応援する中、ヴァンも自然と声がでた。


「レージュ、頑張れ!」


 今、この状況から皆を救えるのはレージュしかいない。自分の無力さを嘆く前に、全身全霊で皆を守護しようとしている一人の少女を信頼してやらねばならない。レージュが今、正気なのか狂気なのかは分からないが、必死に戦っている。自分の非力を嘆く前に、自分にできることが応援しかないのなら、全力で応援してやる!



「うーっ! うううっ!」


 わずかでも気を抜くと体が内側から弾け飛びそうなほどの苦痛にレージュは耐えている。

 血の涙を流し、鼻血も、血を含む涎も止まらないでも、レージュは必死に自分を、クレースを制御しようとしている。このときのレージュの心を占めているのは狂気か。正気か。だが、ただ無作為に流れるだけだった十字架の濁流の動きが緩やかになっていく。


「レージュ!」


「ああ! ああああぁ!」


 彼らの声が届いたのか、濁流となって流れていたクレースが逆流して徐々に集まってくる。十字架たちは互いに積み重なり、何かをかたちどろうとしているようだ。


「負けるな! レージュ!」

「うあああああ!!」


 レージュが一際大きく叫んだ瞬間、彼女の紅い隻眼が金色に光る。その光は十字架(クロス)の軌跡で輝き、レージュは隻眼に金色の十字架を宿した。



 するとレージュの様子は一変する。狂気の叫び声を上げることを止め、表情も、疲弊しているが引き締まり、静かな声で歌を歌うようにつぶやく。


「……множество」


 レージュが何かを歌うように風に乗せると、竜巻のような風が周囲に吹き荒れる。十字架たちがザラザラと音を立てて暴風に巻き上げられ、竜巻のように空に吸い上げられていく。


 ヴァンがデビュ砦で見た踊るようなクレースではない。もっと嵐のように暴力的で、全てを破壊するようなクレースだ。


 巻き上げられる十字架たちが持つ力は、上空にある『赤い光』と変わらぬほどの力を持っていると、物事を見定めるヴァンの鷹の目が理解する。


「Печаль Печаль Печаль」


 レージュが十字架の瞳を輝かせたまま何か解らぬ言語を歌って指をはじくと、竜巻になっていた十字架たちはついに、山よりも大きい、天を貫くほどの巨人を作り出す。

 十字架たちは大きさを変えたりせず、小さい十字架のまま巨人を構成しており、その総数はとても数え切れない。


 巨人は、まるで骨や筋肉が存在するのではと思うほど精巧に人の形を作りだし、その顔には表情すらある。しかし、立ちこめる暗雲の上の表情が見える者はいなかった。

 地上で巨人を見上げている者たちは、これならなんとかなるかもしれないと思うよりも、言い知れぬ不安を感じていた。



 この巨人は、いったい何をするために現れたのだろうか。



 良い方に考えれば、自分たちを赤い光から救うためにレージュが作り出したのであろうが、今のレージュに物事を正しく判断する能力があるとは考えにくい。もしも、もしもこの巨人が暴れでもしたら、自分たちの勝利の女神に殺されるかもしれないのだ。

 彼らの不安は的中し、巨人は足を持ち上げてゆっくりと彼らの頭上を通過して振りかぶろうとする。もしここでこの足が振り下ろされたり、蹴り出されたりすれば、自分たちは虫けらのように死ぬ。その恐怖が、彼らの足下から這いずり上がってきた。


「勝利の女神を疑うな! レージュを信じろ! あいつは、俺たちを殺すような奴じゃない!」


 赤黒い世界で声を張り上げたのはヴァンだった。


天使(レージュ)は苦難を共に戦う仲間だ! 信じろ! あいつがどんなに変わろうと、俺はレージュを信じ続ける!」


 ヴァンの思いが通じたのかわからないが、レージュは彼らの方を見向きもせず、迫ってくる赤い光だけを金色の隻眼で見つめている。


「ударять ногой」


 またもレージュが何か歌うと、巨人の振りかぶった足がヴァンたちの頭上を突風を巻き上げて通過し、赤い光をボールのように勢いよく蹴り上げた。巨人の足が触れた途端、赤い光は無数の十字架となって空に霧散する。


「赤い光ではないのか!?」


 レージュ以外では唯一赤い光を間近で見たことのあるオネットが驚愕した声を上げる。

 そう、あの日にマルブルに落ちた赤い光は、レージュが破壊しても岩石のまま残って火の雨となってマルブルに降り注いだのだ。だが、この赤い光は十字架となって霧散した。まるで、クレースの『変化』の能力のように。


 赤い光から散らばった十字架が光の粒となって上空に吹き飛ばされていくと、大空を覆っていた暗雲もほとんどが身を引き、元の夕焼け空に戻っていく。


               ☆・☆・☆


「……助かったのか?」


 フェールが確認するが、誰も答えられずにいる。赤い光は消えた。だが、巨人は両の足で立ったままでいる。

 まだ、やることがあるようだ。


 巨人は、その巨体に見合わないほど素早く左手を伸ばし、足下の小さなイデアーを掴まえて握りつぶそうとする。ずっと笑っているイデアーは、それをさせまいと巨人の十字架のてのひらの結合を破壊するが、散らせたのは表面だけで、すぐさま再生した手に掴み上げられる。


「……ニヒ、ヒ」


 左手の握り拳から顔だけでているイデアーは締め付けられる痛みに笑ったまま顔をゆがめている。必死に抵抗しているようだが、彼女が結合を破壊するよりも再生するほうが早いらしく、その拘束から逃れることはできずにいた。


 無駄な抵抗を続けるイデアーに巨人の右手が迫る。

 そして、イデアーの小さな頭を指で摘むと、花を摘むより躊躇(ちゅうちょ)なく、その細い首をねじ切った。


 ヴァンたちが凄惨な光景を前にして息を呑む中、二つに分かれたイデアーが水っぽい音と共に石畳に落ちる。分かれた頭はジャガイモのように転がり、胴体は痙攣けいれんしながら首から鮮血を噴き出して血の川を作った。


 生暖かい血の臭いでむせかえりそうになる中で、彼らはレージュから目が離せなかった。


「本当に、あれはレージュなのか……?」


 誰かから絞り出すような声が漏れるが、答えられるものは誰もいない。



 血の涙の跡が残る冷たい顔で、レージュは二つに分かれたイデアーを眺めている。そしてゆっくりと歩きだし、イデアーから流れた血の川を踏みしめながら近づいていった。赤い水たまりを歩く足音はやがてイデアーの頭部で止まり、血の染みた金髪を掴んで自分と同じ大きさの頭を持ち上げる。レージュはそのままイデアーの右目に手を伸ばして眼球に触れようとした。


 しかし、伸ばした手はその動きを止め、イデアーの頭を乱暴に投げ捨てる。もはやレージュの十字架の隻眼にはイデアーは映っておらず、暗雲がかすかに残る夕焼けの空だけを見つめていた。一瞬の間の後、レージュの冷たい表情がみるみる怒りに染まっていく。

 彼らも彼女の視線の先に目を向けると、ファナーティが何かを見つけて突然叫び出す。


「人だ。人間が(・・・)空中に立っている(・・・・・・・・)!」


 そこには人の形をしたものがいた。

 翼も持たずに空に浮いている、燕尾服を着た(・・・・・・)人間が空中に立っているのだ!

17/08/11 文章微修正(大筋に変更なし)

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