第七九話 「治癒軍師」
「××××」
決して聞こえるはずの無い声が聞こえた。
こんな状況で声など聞こえるはずがない。
「××××」
しかし、確かに聞こえる。
妙に懐かしく、落ち着く声だ。
あたしを呼んでいる。
……誰が?
ヴァン?
白き翼のだんちょー?
ローワの爺さん?
「××××」
いや、違う。もっと昔から知っている。
ずっと、ずっと昔から。
あたしが存在する前から?
世界が、存在する前から?
――これは、彼女の?
「……レー……」
☆・☆・☆
「レージュ!」
レージュははっとして声の方向を振り返る。そこには蒼天の軍師の予想を越えた場面があった。なんと背後で浮遊している床石にヴァンが乗っているのだ。
「レージュ! しっかりしろ!」
レージュはヴァンの無謀っぷりに目を見張る。確かにやろうと思えば剥がれた床石を伝ってここまで来られるかもしれないが、ひとつ間違えば地面に落下して死は免れない。なぜ、彼は危険を冒してまでこんなところまで来ているのだろうか。
「言ったはずだ。俺を頼れと。一人で戦おうとするな。古代遺産に対抗できなくても、俺はお前の力になれる! レージュのそばにいて一緒に戦ってやる!」
ありったけの声量を込めた赫赫のヴァンの言葉は、超音波の中でもレージュの耳に届き、自然と彼女の口角を上げた。
「……にひひ」
ヴァンの顔を見たらやたらと元気が湧いてきた。ヴァンの声を聞いたらやたらと勇気が湧いてきた。ヴァンがそばで戦っていてくれるなら、笑ってしまうほど体中から力が湧いてきた。
「――吠えろ吼えろ哮えろクレース! あたしたちは何があっても負けないって、世界に解らせてやれ! あたしは古代遺産を滅ぼす者、半分の天使レージュだ!」
歌うようにレージュが叫ぶと、クレースが一層口を大きく開け、体から出る蒸気も激しさを増す。
瞬間、ゲルの鎧がついに霧散し、核である彼の顔が外気に曝される。
レージュを見る虚ろな瞳に一瞬だけ感情が戻ったような気がした。
「「今だ!」」
レージュとヴァンが叫ぶと、クレースは咆哮を止め、一直線にヴェヒターに飛びかかり、その顔を一口で喰らってしまう。
すると、吸い込まれるような力も無くなり、のしかかってきていた威圧感も消え失せる。空に浮いた足場が一瞬静止したあと落下し、オルテンシア城の正門前に次々と降り注ぐ。
ヴァンの乗っていた足場も地上に吸い込まれるように落下し、この日二度目の落下を味わう。
足場から浮き上がり、頼るものが何もなくなったとき、レージュが十字架でできた巨大な狼に乗って足場を飛び移りながらこちらへ近づいてくる。
「ヴァン!」
「レージュ!」
互いに手を伸ばし合うが、その手が届く前に、彼らは土煙舞う地上へ吸い込まれた。
☆・☆・☆
落ちてきた瓦礫だらけの正門前にクレースが大きな音を立てて着地すると、足下に敷き詰めてある石畳がめくれあがり、衝撃を逃がすようにクレースの足から蒸気が吹き出して周囲に漂っていた土煙を吹き飛ばす。
クレースの背にはレージュとセルヴァしか乗っていなかった。レージュの伸ばした手の先には誰も掴めていなかったのだ。
しかしレージュの顔には安堵の色があった。クレースの口元には、しっかりとヴァンの姿が見えている。手は届かなかったが、クレースがぎりぎりの所でくわえてくれたのだ。
「つ、疲れた……」
天使故に精神力は食われないまでも、高い集中力を要する古代遺産をこれだけ使えばいくらレージュでも疲弊する。
ここまで派手にクレースを使ったのはいつ以来だろうか。疲れ果てたレージュは、クレースの背に負ぶさるように倒れる。疲労で息を切らすレージュにセルヴァがのんびりした声をかける。
「レージュ様ー、大丈夫ですかー?」
「……レージュ様は止めろって言ったでしょ。大丈夫だよ、セルヴァ。後はみんなに戦いの終わりを教えてあげないと……。あー、でも、動けない……」
クレースの背に倒れ込んだまま呻くレージュに笑顔のセルヴァがそっと手を触れる。
「直しますねー」
セルヴァの懐中時計が浮き上がり、彫りの入った蓋が開いて時を示す針がグルグルと回ると、自分の体から疲れが染み出ていくのがわかる。
こ、これ、気持ちよすぎる……。
さっきは戦いに集中していたから気づかなかったが、この治療を受けると気持ちよさが体中を駆けめぐる。この感覚は、散々働いた後にゆっくりと風呂へ入ってマッサージを受けている時に似ている。もっとも、傭兵育ちのレージュはもちろんそんな経験はしたことがないし、マルブルの王宮にいたときもそんなことをしている暇はなかったが。
空を飛ぶ気持ちよさとは違う、初めて経験する心地よさにレージュの顔はだらけきってしまう。
それと同時にクレースが元のサークレットに戻り、だらけた顔のまま落ちるレージュをセルヴァは優しく抱き抱えて地面に降り立った。そして、クレースの口にくわえられていたヴァンが無様に地面に尻餅を付く。尻の痛みに耐えながらヴァンはレージュに駆け寄る。
「レージュ、無事か!?」
「んあ~?」
しかし夢心地のレージュからは気のない返事が返ってきた。
「なんだ、どこかやられたのか? おい、しっかりしろ」
レージュの柔らかな頬を叩いて正気に戻すと、緩み顔からあきれた顔になる。
「あ、ああ……。うん、あたしは大丈夫だよ。それに、無事かはこっちの台詞だよ。なんであんな無茶したのさ。下手したら死ぬところだったんだよ」
「それは、――すまない」
レージュはセルヴァの腕から降りてヴァンと向き合う。まだ足はふらつくがなんとか一人で立てる。
「あの後レージュに言われたように城郭の解放に向かったんだが……」
☆・☆・☆
聞けば、レージュが空高く引っ張り上げられ、四肢が引きちぎられそうになっているのを見て、いても立ってもいられなくなったとヴァンは言う。
レージュの元へ行かなければ。
オネットの制止の声を振り切って駆けつけてみたが、ヴァンが城につく頃には屋上の床は全て空中に引き剥がされていた。しかし、ヴァンはそれぐらいでは怯みもせず、耳に詰め物をしてクレースの咆哮を塞ぎ、浮き上がった床石を昇っていった。
レージュの近くにいかねば。
古代遺産も持たない自分が行って何かができるとは思えない。足手まといにしかならないだろう。だが、それでも行かなくてはならない。
俺はレージュのそばにいなくてはならない。
耳に詰め物をしていても防ぎきれない超音波に気を失いかけながらも、ついにヴァンはレージュの近くまでやってこられた。
そして、ありったけの力で叫んだ。
「レージュ!」
☆・☆・☆
「……と、いうわけだ」
ヴァンの話が終わるとレージュは困ったように頭を掻いて後ろを向いてしまう。
「……まあ、不安にさせちゃったあたしも悪いけどさ。でも、命令違反は命令違反だ。罰はしっかりと受けてもらうよ」
「仕方ない。甘んじて受けようじゃないか」
「よし、じゃあ目をつぶってそこに屈め。軍師命令だ」
言われたとおりに目を閉じて屈むと、なんだかこんなことが前にもあったなとヴァンが思い出している間に、彼の頬に柔らかな唇が当たる。
目を開いて見ると半分の天使が微笑んでいる。彼女の小悪魔っぽいしぐさに微笑み返そうとしたヴァンの頬を今度は拳が打つ。しかし貧弱なレージュの拳ではヴァンは全く怯まず、むしろ殴った彼女の手の方にダメージがあるようだ。
「固った……」
「面の皮は厚いものでな」
「本当にね。リオンにでも代わりにやってもらったほうが良かったかな」
「それは勘弁してくれ。顎が砕けて飯が食えなくなる」
「ま、それはそれとして」
レージュはにひひと振り返る。
「ありがとうね。助かったよ、ヴァン」
レージュの突き出した拳と自分の拳を打ち合わせ、お互いの無事を祝う。
「あのー」
セルヴァが暢気な声で呼びかけるとヴァンが驚いたように振り返る。
「おお? 誰だ、こいつは」
「……気づいてなかったんかい」
「レージュのことが心配で頭がいっぱいだったものでな」
レージュは浅黒い頬を赤く染めると、片翼を広げて顔を覆って隠してしまう。
彼女の素直な反応を見て笑うヴァンは視線をレージュからセルヴァに移す。
三つ編み黒髪に丸縁眼鏡、気の抜けた顔にロングスカートのメイド服。そして、背から生える大きな一対の白い翼とくれば考えられることは一つしかない。
「レージュ、こいつはもしかして……」
純白の片翼で隠していたレージュの顔が再び現れると、もう頬の赤みは消えていつもの彼女がいた。
「うん、そうだよ。噂の天使だ。セルヴァっていうんだって」
「お初にお目にかかりますー。私ー、セルヴァと申しますー。以後お見知り置きをー」
ぽやぽやとした声のセルヴァは、メイド服のロングスカートの裾をちょいと摘んで頭を下げると三つ編みが垂れ下がる。
「これはまた意表を突かれたな。メイド服の天使とは。おまけに美人だ」
「ありがとうございますー。私ー、ご主人様より命を受けましてー、レージュ様の元にお仕えさせていただきますー」
「ご主人様? そいつも天使なのか?」
「申し訳ありませんー。ご主人様のことは一切話してはいけないとご主人様に強く言われておりましてー。お答えできませんー」
ヴァンが、どういうことかとレージュを見るが、彼女も肩をすくめている。
「あたしも気になるんだけどね。ご主人様とやらの事を聞くとこれしか答えないんだ。まあ、協力してくれる意志に嘘はないからとりあえずは良いかなって思ってさ。そのうちわかるでしょ」
「ところでー、どちらさまでしょうかー?」
「ああ、悪い悪い。自己紹介がまだだったな。俺はマルブルの王太子のヴァンだ。レージュの……」
ここでヴァンは一度言葉を切る。
「レージュの親友だ。よろしくなセルヴァ」
ヴァンが手を差し出すとセルヴァも柔らかな手で握り返してくる。
「はいー。ヴァン様ですねー。ふつつつか者ですがー、よろしくお願いしますねー」
「つが多いよ」
笑いあう三人の頭上では、日が西に沈もうとしていた。
その赤くなり始めた太陽を横切るように、雲の上から小さな何かが飛び立ち、この城郭に向かってきていることを彼らはまだ知らない。
17/07/14 文章微修正(大筋に変更なし)