第七八話 「狼子軍師」
ゴム鞠と化したヴェヒターを、金色の隻眼で見上げて決意を新たにしたレージュはセルヴァに向き直る。
「セルヴァ、さっきの回復はまだ使えるよね?」
「もちろんですー」
「よし。クレース、今日は存分に暴れてやろうじゃないか」
レージュが十字架の翼をサークレットに戻して宙に放り投げると、十字架たちが一斉に弾け、鰯の群のように優雅に空を泳ぎ始める。
「紡げ紡げ。蒼天を流るる綿雲の糸で」
歌い出したレージュの指揮者のような指先の動きに合わせて、十字架たちは意志を持っているかのようにお互いに結びつき合って、小さな狼の形を紡ぎ出す。
「育て育て。母なる大地のゆりかごの中で」
レージュが光の粒をまとって軽快なステップで踊ると、小さな狼を形どったクレースは、発光しながら地面を飛び跳ねてその大きさを増していく。そして最終的に全長7m程の巨大な狼となる。体のあちこちに十字架で作られた巨大な歯車が突き立っており、その歯車たちが鈍い音を立てながら回転を始める。その回転はどんどん速くなり、十字架で構成された狼の体から蒸気が吹き出してくる。
「喰らえ喰らえ。古の光湛えし餓狼の牙で」
歌い終えたレージュが指を弾くと、蒸気を吐く巨大な機械の狼となったクレースは電子的な甲高い声で遠吠えをする。体に刺さっている巨大な歯車が回転し、体の芯が痺れるような遠吠えは、オルテンシア中に轟いた。
「この姿は久しぶりだねえ、クレース」
レージュが信頼する友の肩を叩くようにクレースに触れると、狼のクレースは頭をもたげて彼女に懐く。
「セルヴァ」
「かしこまりましたー」
名を呼んだだけで、セルヴァはレージュを持ち上げて飛び、クレースの背に乗せる。その時にセルヴァも一緒に乗るが、嫌な気は全くなかった。
普段のレージュならば、誰かがクレースに触れるだけで怒るのだが、彼女に対してはそのような気持ちは一切抱かなかった。というより、そのことにレージュ自身が気づいたのはだいぶ後の話である。
レージュがクレースに跨がって横腹を蹴ると、クレースは蒸気を吹き出して力強く走り出し、城の壁を一気に駆け上がっていく。
再び天守閣の上に登り切り、変わり果てたヴェヒターと対峙した。ゴム鞠の中に半分ほど抉られたヴェヒターの顔の残骸がある。虚ろにこちらを見ている瞳の色は深淵のようだ。
「あんたは、本当にそれで満足なのか、ヴェヒター……。あいつの口車に乗せられて、古代遺産で化け物になって、あんたは満足なのか……?」
ここまで人を狂わし、変貌させてしまう古代遺産なんて、やはり一つ残らず消し去るしかない。決意を固めたレージュはクレースの背を握りしめ、指示をとばす。
「喰らえ!」
クレースが蒸気を吐き出しながらギシギシと音を立てて大口を開け、ゴム鞠のヴェヒターに飛びかかる。ゴムの体を食いちぎるが、すぐに再生してしまう。何度か繰り返してみるが、結果は同じだった。これではきりがない。
足下の床石がめくれあがる。
ヴェヒターを中心に引っ張る力がさらに強くなっているのだ。そのままヴェヒターが宙に浮き上がると、クレースが立っている床ごと引っ張られて空へと持ち上げられる。クレースにしがみついているレージュも、その引力に引っ張られそうになってしまう。
「なんて力だ。このままじゃあ城が崩れるだけじゃすまないぞ」
狼の背中の十字架を伸ばして腕と足に縛り付けて離れないように固定した。ついでにセルヴァも同じように固定する。
ヴェヒターが剥がれた床石を次々と撃ち出してきた。撃ち出した物は引力の影響を受けることなくレージュたちに向かってくる。
「クレース!」
レージュの呼びかけに応えてクレースは体に刺さっている巨大な歯車を撃ち出して応戦する。歯車が飛んできた床石を砕き、ヴェヒターの体を抉るが、それも瞬時に再生されてしまう。歯車はブーメランの様に空中で反転して元の位置に収まる。
「噛みついても抉ってもあの体には無意味か。それなら……」
クレースが蒸気を吐いて歯車を回転させる。今度はわずかに残っているヴェヒターの顔を目がけて一つ撃ち出す。撃ち出された歯車は回転しながらゲル状の体を切り裂いて突き進んでいくが、顔に到達する前に勢いを失い止まってしまう。
「もう一発!」
クレースの体に残っているもう一つの歯車を撃ち出し、最初の歯車が開けた道に突っ込ませようとしたが、いきなりヴェヒターのゲル状の体が弾け飛んだ。
弾け飛んだゲル状の粒が、撃ち出した歯車をたたき落とし、そのままレージュたちに襲いかかる。
「セルヴァ!」
「はいー」
レージュが呼ぶと、固定されていた十字架を外したセルヴァが竹箒を持って前に飛び出し、彼女らに向かってくるゲルを超人的な動きではたき落とす。
レージュには彼女なら飛んでくるゲルをなんとかしてくれるという確信があった。彼女とは初対面だが、彼女という存在は深く知っているような気がする。
『何かあったらセルヴァを呼んでくれ』
あの激痛の中で垣間見た彼女の言葉があったからだろうか。
セルヴァはレージュに降りかかるゲルを完璧に叩き落とした。
「こういう汚れが付いてしまうとー、お洗濯するのが大変なんですよー」
「……確かに、こりゃ大変だ」
だが、クレースの足下までは及ばなかったようだ。
クレースの足にゲルがまとわりつき、身動きがとれなくなってしまう。どれほど力を込めてもゲルはクレースの足と足場をがっちりと固定して動かない。もがいているうちに引きつける力がさらに強くなる。天守閣の上層部はとうとう全て剥がされ、レージュたちが固定されている足場も宙に浮かび上がっていく。
ヴェヒターもさらに高く浮き上がり、周囲には小島のように城の屋根や通路部分が浮いている。
ゲルが浮いている物見塔の一角を取り込み、動けないレージュたちに叩きつけてきた。
このままでは巨大な塔に叩きつぶされてしまう。
「クレース!」
レージュが叫ぶとクレースも甲高い声で吠え、体中から蒸気を噴出する。高周波の声を受けてゲル体が少し震えた。そしてクレースたちはすっぽりと蒸気に包まれて姿が消える。直後、立ちこめる蒸気に向かって打ち下ろされた塔が豪快な音を立てて足場をバラバラに打ち壊した。
しかし、そこにレージュたちの姿はなく、ヴェヒターの背後から巨大な歯車が飛んでくる。
ゲルが素早く戻り、ゲルの中に残っている塔で歯車を打ち返す。打ち返した歯車は重い金属の音を発してヴェヒターの後ろにいるクレースの体に収まった。その背にはレージュとセルヴァもいる。
「あちち。セルヴァ、大丈夫?」
「はいー、なんとかー」
曇った眼鏡で答える彼女も無事なようだ。
レージュは、クレースから発する高熱高圧の蒸気で目眩ましと同時に足に付いたゲルを吹き飛ばし、別の足場に飛び移っていたのだ。
「厄介な相手だけど、もう勝ち方は分かった。復活した蒼天の軍師の力を見せてあげるよ」
戦いに集中していたレージュは気づかなかったが、先ほどまで晴れていた空には暗雲が立ちこめ始めていた。
まるで、重く黒い雲が蒼天を飲み込むように……。
クレースの背中の十字架を一つ取って、レージュは喋りかける。
「オルテンシアにいる全ての者に蒼天の軍師レージュが命じる。天頂に天使が羽ばたくその時まで、両の手で耳をふさげ!」
すると、レージュの声はクレースを通して拡散され、オルテンシアの外にまで声が届く。
これで、理解はできなくとも、マルブルの人間は言うことを聞くだろう。それだけで十分だ。
伝え終わるとすぐに自分も耳をふさぐ。
「哮えろ!」
レージュの叫びと同時にクレースの口が機械的な音を発しながら幾重にも開き、そこから打ち出されたのは強烈な音波だ。目に見えず、人の耳では知覚できない高周波の音波は、城郭中に拡散された。
蒼天の軍師の言いつけを守らなかったカタストロフ兵たちは、頭の中をシェイクされたような感覚に陥ってしまい、戦うことはおろか、そのまま気を失ってしまう。
そして、高周波はゴム鞠のヴェヒターを確実に捉える。
切っても噛みついても潰しても効果の無かったゲルの体だが、この攻撃は違った。最初は波打つ程度の振動が、徐々に振れが大きくなっていく。レージュは、共振を起こして崩壊させようとしているのだ。
知覚はできなくても、耳をふさいでいても、一番近くで高周波を聞いているレージュは気分が悪くなってくる。それどころか意識が飛びそうだ。だが、ここで自分が気を失うわけにはいかない。今クレースの制御を失えば、再び奴の鎧は復活してしまうだろう。そうなってしまうと勝ち目は無い。
「クレース、もっとだ! もっともっともっと!」
なんとか意識を保とうとレージュは叫び続ける。音としては何も聞こえないが、気持ち悪さはどうしようもなく募っていく。頭の中がぐるぐるする。内蔵もまとめてかき混ぜられているみたいだ。
それでも歯を食いしばって耐え、ゲルの振動が大きくなっていくのを睨み続ける。
もう少しだ。
もう少し、で奴のゲル状の、鎧が、剥がれる。
それま、では、意識、を……。
…………。
17/07/14 文章微修正(大筋に変更なし)