第七五話 「引斥軍師」
蒼天の空に舞い戻ってきたレージュにヴェヒターは驚くが、初手の奇襲が失敗しただけでまだ負けた訳ではない。王太子と近衛隊長の姿が見えないのは、おそらく逃がしたのだろうと彼は判断した。
「まったくしぶとい奴だな。片翼になってまで飛べるとは」
「最初っから情報を全部開示する馬鹿はいないよ。手は隠しておくものさ」
「その通りだ。しかし、仲間を帰してしまったのは愚策であったな。お前の本領は一人では発揮できないはずだ」
レージュの持つ古代遺産の恐ろしさよりも、彼女に指揮される味方の方が何倍も驚異である。それは今までの戦闘を見てくれば誰もが知っていることだ。
「あんたはあたし一人でも十分ってことだよ」
「なめられたものだな」
「なめてないさ。こっちはそっちと違って戦力がギリギリなんだ。効率よく運用しないとね」
ヴェヒターは再びレージュを落とそうとするが、天使は十字架の羽を伸ばして城壁の床に突き刺して耐える。赤いリボンで二つに分けた金髪だけが横に落ちていく。
「なるほど。あんたの古代遺産は、空間のどこかに周囲の物を引っ張る力を生み出すんだ。だから、さっきも横に落ちる様に感じた」
「流石は蒼天の軍師だな。大した洞察力だ。だが、この古代遺産は人を引っ張るだけではないぞ」
ヴェヒターが古代遺産を振るうと、屋上に敷き詰められている床石が四つ持ち上がり、そのうちの一つが宙に浮き上がった。そして、百キロを優に越える重量の床石がレージュを目がけて飛んでくる。彼女は十字架の翼を巨大な握り拳に変化させて床石を打ち砕く。そしてそのままの勢いでヴェヒターに向かって跳躍し、十字架の拳で叩き潰そうとする。
「無駄だ」
しかし、ヴェヒターが古代遺産を振るうと、レージュの体が後方に引っ張られて、拳は空を切る。不意に引っ張られてもレージュはすぐに体勢を立て直して着地する。
「こんなこともできるぞ」
またも古代遺産を振るうと、今度は床に向かって引っ張られる。自分の体重が何倍にもなったようにレージュは感じ、堪えきれずに倒れて床に押しつけられてしまう。
「潰れろ」
引っ張る力がさらに強くなる。体がミシミシと音を立てる。このままでは本当に潰されてしまう。
どうにかしなくては!
レージュは十字架の拳を翼に戻して床を切り裂き、砂埃と共に階下へ逃れる。直後、ヴェヒターの足下の床が盛り上がり、下からレージュの十字架の拳が飛んでくる。しかしそれも、ヴェヒター自身を空へと引っ張ることで回避されてしまう。
「あたしだって殴るだけじゃないさ」
空中で反転したレージュが指を弾いて鳴らすと、十字架の拳は分解し、小さな十字架となって浮いているヴェヒターの全周囲を取り囲む。
十字架の一つ一つが短剣を象り、剣先が全てヴェヒターの方へと向く。
「それっ!」
十字架の短剣は一斉にヴェヒターに向かって突き進む。これならどこかに引力を発生させても全てを防ぐのは不可能だ。
観念したのか、短剣は確実に無抵抗のヴェヒターを捉え、一本も余すことなく突き刺さった。
しかし……。
「最初から情報を全て開示する馬鹿はいない。お前の言葉だったな」
十字架の短剣でサボテンの様になったヴェヒターからは余裕そうな声が聞こえる。よく見ると、短剣はヴェヒターに刺さる直前で静止していた。
「引っ張る力があるなら、反対に引き離す力もあるということだ」
全ての短剣が外側に刃を向けて弾き飛ばされる。その内のいくつかはレージュに向かって飛来してきた。
襲いかかるクレースを制御してすんでのところで自分に刺さることは防いだが、その直後に横方向に引っ張られ、先ほど剥がされていた床石との衝突は避けることができなかった。十字架の翼では再構成が間に合わず、咄嗟に純白の翼でガードするが、あまり効果的とは言えないようだ。右腕の骨が折れる音を聞くと、体が上空に浮かび上がってまたも床石に叩きつけようとしてくる。
骨折の痛みに顔を歪めながらも、なんとか十字架の翼を手の形に再構成し、ぶつかる前に床石を掴んでヴェヒターに投げ飛ばす。だがそれすらも跳ね返され、十字架の拳で打ち砕くしかなかった。
「まったく、厄介な能力だねホント」
荒い息を吐きながら熱く腫れる右腕を押さえて軽口を叩くレージュだが、ヴェヒターの方は変わらず真剣な表情で次の動きを警戒しているようだ。
「ねえ、その古代遺産、どこで手に入れた?」
「……」
「それとも、貰い物かな? 多分そうでしょ。カタストロフは基本的に皇帝が古代遺産の全てを管理している。個人が勝手に持つことは禁じられているはずだからね。ああ、そういえば今は泣き虫レシュティが皇帝だっけ」
「口を慎め、死神」
静かに声を荒げるヴェヒターに対してもレージュは余裕そうな表情を崩さない。
「ちょっとは泣き虫も治ったのかねえ。それにしても、あのレシュティがカタストロフの女帝か。そんであのクソ野郎が宰相ならカタストロフも長くはないんじゃない?」
「祖国は滅びぬ。レシュティ姫様は唯一残った跡継ぎとして先帝の志を継ぎ、この腑抜けた大陸を統一する。姫様の庇護の元でお守りくださろうというのだ。それを邪魔するお前を、私は排除せねばならない」
「そう。結局、おんぶにだっこな所は変わってなさそうだね。ま、それは置いておいて」
喋っていると少しは痛みが紛れる。
「話を戻すけど、あたしの情報網には、あんたが古代遺産を持っていることは載っていない。そして今までの戦いであんたは古代遺産を試すように使っている。つまり、ごく最近貰ったでしょ。誰から?」
ヴェヒターの答えは飛んでくる床石だった。その床石をクレースで掴み、握りつぶして砂にする。
「私はクラーケ将軍の様に油断はしない。お前の息の根を止めてバラバラに引き裂くまではな」
「あたしが死ぬまでで良いのかな? それじゃこの城郭はいただきだね」
「構わぬ。私はお前を殺すためだけに今ここに立っている。刺し違えてでもな」
「……ご立派なこって」
「それに、お前を失ったマルブル軍など取るに足らぬ。たとえこの町を取り返したところで、そこで終わりだ」
「どうかな。あんたは今、マルブルをなめた。それは油断したって事じゃないのかな」
その時、音もなくヴェヒターの背後から十字架の短剣が一本飛んでくる。先ほど短剣を跳ね返された後に、全てを回収して拳を構成したわけではなく、一本だけ残しておいたのだ。
完全なる死角からの奇襲であったが……。
「言ったはずだ。油断はしないと」
しかしその不意打ちも、引き離す力で弾かれてしまう。だが、それで良い。それを待っていた。
すかさずレージュの十字架の拳が巨大化して、ヴェヒターをすっかり握り込む。
「掴まえた!」
そのままヴェヒターを握りつぶそうとレージュは力を込める。これまでの戦闘で、レージュはヴェヒターの持つ古代遺産の分析を終えていた。
最初の攻撃で床石を剥がす際、床石は四つ持ち上がったが、飛ばしてきたのは一つだけだった。攻撃するのなら四つ同時に投げれば良いものを、なぜ一つだけしか投げなかったのか。いや、投げられなかったのだ。
ヴェヒターは古代遺産の出力を抑えている。使いすぎは自らの破滅を招くからだ。出力を抑えられれば、古代遺産といえどなんでもかんでも引っ張れるわけでは無い。ある程度の重量制限があるはずだ。そしてそれは引き離す力にも言えるだろう。その力がどれ程かは分からないが、レージュはクレースの力が通用しないとは考えもしない。
抑えているとはいえ、これだけ古代遺産を使用しているにも関わらずヴェヒターが正気を保っていることにレージュは若干驚いている。天使である自分は古代遺産に耐性があるのか、多少派手に暴れても精神が壊れたりはしないが、普通の人間ならとっくに廃人になっていてもおかしくない。
いったい何が彼の驚異的な精神力の源になっているのだろうか。いや、それを考えるのは後だ。
「さあ、古代遺産の力比べといこうか!」
引き離すことを弱めれば即座に潰される。ヴェヒターはクレースを引き離すことに全力を注がねばならない。離す力がさらに強まり、十字架の拳が開きそうになるが、レージュも左手を折れた右腕から放し、前につきだして握り込むイメージを強くする。
「ハアアアッ!」
「ヌウウウッ!」
互いに一歩も譲らず状況は拮抗する。だが、その拮抗こそがレージュの狙いだった。レージュの目的は古代遺産の破壊、その一点である。後先考えずに全力を出せばヴェヒターごと握りつぶすこともできるだろうが、レージュはそんな博打は打たない。この状態を維持すれば良いのだ。そうすれば、ヴェヒターの古代遺産が先に壊れると彼女は判断した。
大丈夫。このままなら十分押さえ込める。
勝利への算段が整ったレージュに、突如、氷のように冷たい手で心臓を掴まれたような感覚が襲いかかってきた。
17/07/14 文章微修正(大筋に変更なし)
17/09/19 文章微修正(大筋に変更なし)