第六四話 「下水軍師」
明け方前のまだ暗い時間に、一人の男と二人の少年が暗闇の下水道を壁伝いに進んでいる。
「こっちだ」
先頭を歩く、レジスタンスの一員であるアヴニールがくぐもった声で道を示す。複雑に入り組んだ下水道は、長年この城郭に住む者しか把握していない。しかし、最近はカタストロフもある程度は把握してきたため、使えない通路も増えている。
下水道の中は暗く、狭く、何より臭い。カタストロフに占拠されてからはまともに整備されていないようだ。あまりにも臭いので、彼らは鼻と口を布で覆い、極力呼吸を控えるようにしないといけない。そのため、走ることはできず、急きながらも歩かなければならない。その焦りがスーリを苛つかせる。
「臭せぇ……なんだってこんな所を通らなきゃならないんだ」
「ここしかないんだからしょうがないでしょ。ガマンガマン」
窘めるシーカを睨みつけるが彼は全く意に介さない。
「なあ、お前たちに任せて本当に大丈夫なのか。俺の倅より年下だよな」
アヴニールは不安そうな声を上げるが、スーリが黙って案内しろと言うように手を振る。
左には深い下水の水路があり、右には壁が続き、点々と枝道がある。臭い下水道をしばらく進むと、突き当たった正面の壁をアヴニールが指さす。
「ここだ」
「これが? 子供どころか赤ん坊ですら通れないぞこんな穴」
アヴニールが指し示した石積みの壁には、よく見ると子供の頭ほどの穴が開いており、そこから城壁の外に広がる夜の平野が覗ける。ここから外に出られるようだ。だが穴はスーリの予想以上に小さく、予想以上に崩れかけている。自分の体格ですら無理だし、自分より小さいこの子供ですら通れるのか疑わしい。無理に通れば崩れるだろう。
「だが隊長が言っているのはこの穴だ。お前たちならなんとかなるんだろう?」
「ならねえよ」
「それじゃ困る。俺はお前たちをここに連れてくるだけだ。後はお前たちでなんとかしてくれねえと……」
「常識で考えろ。こんな小さな穴を通れるわけがない。広げようにもちょっと動かすだけで崩れそうな所を通れるか」
「これぐらいならなんとかなるよ」
吐き捨てるスーリと違って軽い声でシーカは言った。
「馬鹿を言うな。お前の頭ですらぎりぎりなんだぞ。こんなの通れるわけないだろう。広げようにも無理にやったら崩れておしまいだ」
「大丈夫だよ」
軽い口調でそう言うとシーカは石積みの壁の石を取り除く。あまりにも自然に石を取り除くので、スーリは血の気が引くのが一瞬遅れた。
「馬鹿! 崩れたらどうする!」
「へーきへーき。こういうのは何度もやってるから。それに、いくら僕でも広げないと通れないよ」
喋りながらシーカは石を次々と取り除いていく。しかし壁が崩れる気配は一切無い。アヴニールとスーリが目を見張っている間に穴はどんどん広がり、もうすぐシーカが通れる大きさになる。
臭くて暗くて狭い下水道で順調に作業が進む中、シーカの手がぴたりと止まる。何故かはスーリにはすぐにわかった。アヴニールがどうしたと声をかけようとしたところを素早く手で制する。
遠くの通路がかすかに明るくなった。たいまつの光だ。そして、汚水の流れる音に混じって聞こえてくるのは、金属の具足が発する足音だ。
こちらへ近づいてきている。
シーカがスーリに手で合図を送る。『剣を佩いた軽装の二人組』。スーリはうなずき返して耳を澄ませる。彼らは、響く足音だけで、人数はおろか武装までわかるようだ。足音はどんどん迫ってきた。このあたりでアヴニールもようやく敵が迫ってきている事に気づいたようだ。
脱出が気づかれてはおしまいだ。見つかる前にシーカを外に出さなければいけない。しかし、シーカはやっと石を取り除き終わり、なんとか通れるサイズの穴を確保したところで止まっている。二人は手で合図を出し合う。
『俺がなんとかする。一人で行け』
『わかった。勝利の女神の加護を』
勝利の女神の加護を。スーリは舌打ちしたい衝動に駆られたが、さすがに堪えた。そこまで馬鹿ではない。
シーカが腕と頭を穴に突っ込んで抜け出そうとする。楽に通れるほどの大きさになるまではまだ時間がかかるだろう。ならば、崩れる危険はあるが最低限だけ広げて突破するしかない。もしも崩れたらシーカの体は二つに寸断されるが、彼はそんなことは意に介していないように無理矢理穴を通ろうとする。
スーリはシーカが取り除いた小石を一つ手に取り、向こうの通路へ投げ込む。カツッという音が響き、足音が止まる。もう一度石を投げる。今度はもっと遠くにだ。下水の流れる音でスーリの位置から石の音は聞こえないが、これで奴らは向こうへ逃げたと錯覚して離れていくはずだ。
再び歩き出した足音は、スーリの思惑から外れてそのままこちらへ向かってきた。
引っかからないか。
まだシーカは穴から抜けていない。
……倒すしかない。
アヴニールを静かに横道に遠ざけさせて、自分はシーカが抜けようとしている穴の一つ前の通路に足音を立てずに戻り、通路の角に隠れて二人組を待ちかまえる。
二人組の持つ松明の明かりがスーリの横を通り過ぎると、彼は兵士が使う長剣ではなく盗賊が使う短剣を手に持つ。騎士団に所属していた頃からレージュに『なにがあるかわからないから』と様々な武器で調練させられていたので扱いに戸惑うことはなかった。
そして現在、その調練が役に立とうとしている。なんだかレージュの掌から抜け出せていない感じがするが、今はそれでも構わない。状況を打破できる力があるなら、何であろうとそれを使うだけだ。
前を歩いていた兵士が松明をかざし、抜け出そうとするシーカを見つけると、声もかけずに鞘走る。それと同時にスーリが音もなく飛び出し、後ろの兵士の背後から首もとをかっ切る。前の兵士が同僚の呻き声を聞いて振り向いた時には既にスーリの刃は前の兵士の喉を切り裂いていた。一瞬で二人の兵士を倒した腕前は騎士というより暗殺者のそれに近い。二人の持っていた松明は下水に落ちて周囲には再び闇が満ちる。
どうにも、こういうのが得意な自分が嫌になる。戦場を駆け、祖国に仇なすものを正々堂々と討ち滅ぼし、陛下をお守りする騎士になりたいのだが、何の因果かこんな下水道で暗殺者まがいのことをしている。
レージュは俺のそういうところを見抜いていたから自分をこんなところに追い込んだのだろうか。『適材適所だよ』などと言っていたが、俺はこんな仕事はしたくない。一刻も早く終わらせて元の騎士団に戻るんだ。
そんな事を考えながら戻ってきたスーリの肩をアヴニールが叩く。
「お前、子供のくせにやるじゃねえか」
「俺は子供じゃねえ。気安く触るな。あいつは抜けたか?」
そんなことを言っているうちにシーカが穴から抜けたようだ。シーカはこちらを振り返りもせず、城郭の外の堀に静かに入っていく。
「声もかけずにいっちまったな。ま、何はともあれ作戦は成功だ、お疲れさん。後はあの子供に任せるっきゃねえな」
「途中で気を抜くな。城郭を取り戻すまでは油断する暇はない」
「おお、手厳しいこって。了解ですよ、小さな隊長殿」
ふざけた敬礼をするアヴニールをにらみ、スーリは手早くシーカの取り除いた石を元に戻すと、二人は地下の隠れ家に向かう。
明朝にはマルブル騎士団がオルテンシアに到着する手筈になっている。これならなんとか間に合うだろう。
隠れ家に戻る途中の狭い通路を二人は屈みながら進んでいく。
「なあ、今度俺の倅に会ってくれないか。騎士になりたいと言っているんだが、そこまで腕っ節が強いわけでもないからどうにも心配だ。お前さんに鍛えてもらえればあいつも強くなってくれると思うんだ」
前を行くアヴニールが小声で話しかけてくるが、スーリは無言を貫いて拒否の意を示している。
隠れ家までもうすぐといったところでアヴニールが突然その足を止めた。カタストロフの連中の足音でも聞こえたのかと耳を澄ませるが、そんな音は聞こえないし気配もない。では何故この男は止まっているのか。
「どうした、早く行け」
スーリがアヴニールの尻を小突くと、彼はそのまま前のめりに倒れ込む。彼が倒れるときには、ベチャ、と水っぽい音がした。
17/03/16 文章結合(大筋に変更なし)
17/03/29 文章微修正(大筋に変更なし)
17/03/31 文章微修正(大筋に変更なし)
17/07/14 文章微修正(大筋に変更なし)