第六一話 「慈愛軍師」
だが、すれ違っても、ついに、レージュは剣を振ることはなかった。ジャンティーは殺されず、死地へと走り出す。ジャンティーが「感謝する」と言った最後の声は、俯いて唇を強く噛みしめているレージュの耳に届いたのだろうか。
ジャンティーがレージュを振り切って単騎で吶喊するのを見て、兵たちは当惑する。自分たちはどうするべきなのかと。
「……命令だ。砦に戻れ」
降る雪より冷たい声が彼らに届く。
「し、しかし……」
レージュは首に巻いた真っ白なマフラーで口元を隠し、顔を上げて暗雲の立ちこめた両の瞳で彼らを見渡す。
「ジャンティーは、誰のために出て行ったのか考えてみろ。お前たち兵のため、マルブルのために彼は決して帰れない戦いに臨んだ。お前たちを生かすために死にに行く。殺された戦友を弔うために死にに行く。どうしようもない、馬鹿だ」
もしもここでジャンティーを砦に戻すことに成功し、一時的に場は収まったとしても、再びカタストロフは非道な手でジャンティーを外に引きずり出そうとするだろう。また、配置換えをしている余裕もマルブルにはない。次にそうなったとき、自分が駆けつけて止められる保証はゼロだ。駆けつけられた今だからこそ、ここで対処するべきである。そして、ジャンティー一人を犠牲に、多くの味方を助け、少しでも敵の数を減らせる方法を取った。
これが、蒼天の軍師が下した最善の行動だった。
向こうで戦いが始まる。多数の矢が射られ、切り払いきれずにジャンティーの体に突き刺さった。しかし、彼は全く怯むことなく冬の雪山で馬を走らせ、敵陣に突っ込んでいく。降る雪が音を吸い込むため、彼の最後の戦場はとても静かなものだった。ここから見ていると、まるで夢か幻の中にいるようで、真っ白な世界に鮮血が乱れ飛ぶ様は神秘的ですらあった。
「門を閉める。彼の最後の意志を無駄にしたくなければ、あたしより早く砦に戻れ」
レージュが純白の翼を羽ばたかせて砦へ戻ろうとすると同時に、ジャンティーの体は傾き、雪の中へ消える。彼らは、自分たちの隊長の最期を、涙を浮かべた目にしかと焼き付けて砦へと戻っていった。彼らの後ろからは、カタストロフ軍が迫ってくる。
砦に戻り、スーリに殴られて、彼が連れて行かれた後、レージュは深淵の様な漆黒の両眼で元副隊長に告げる。
「何があってもここを開けるな。命令だ」
「……かしこまりました」
下では兵を収容した門が完全に閉められ、閂が下ろされる。
ジャンティーを討ち取って突進してきたカタストロフ軍だが、迅速に引き返したマルブル軍の閉門に間に合わず、侵入することはできなかった。
「矢を射れ。一矢も外すな。それがジャンティー隊長への手向けとなる」
元副隊長が震える声で指示を出し、城壁から矢が吹雪のように放たれ、カタストロフ軍を射抜いていく。その光景をレージュはただ眺めていた。打つ手のない彼軍は死体を多数残して去っていく。
一方的な攻撃が終わると、兵たちは容易に開かないように門に板を打ち付けている。灰色の空の雪山に釘を打つ音が響く。
レージュは口元を覆っていた真っ白なマフラーを下げ、パルファンを取り出し、クレースで火を付けた。スーリに殴られた頬が痛々しく腫れている。本人はそのことを全く気にしておらず、パルファンをくわえるが、くわえた瞬間に小さく痛みの声を上げた。
「どうされました?」
唇が切れている。スーリに殴られたからではない。さっきジャンティーとすれ違ったとき、唇を強く噛みしめていたからだろう。
「すぐに治療します。おい、誰か」
元副隊長が人を呼ぼうとするがレージュはそれを制した。
「いや、大丈夫。これ吸ったらすぐ帰るし、唇はさっき殴られたせいじゃないから」
元副隊長はレージュの目が少し赤くなっていることに気づく。怒りに燃えているわけではない。よく見ると、うっすらとだが褐色の肌に涙の凍った跡もある。
それで、彼は理解した。あそこでジャンティー隊長を説得していた彼女の気持ちを。そして恥じた。自分の無力さを。十歳の少女にこんな思いをさせてしまっている不甲斐ない自分を恥じた。
吐く息と煙がまざった灰色の息が雪山から下りてくる風に流されていく。
「隊長」
「はっ」
「今日は、冷えるね」
「……はい」
不器用な彼は、空に昇る細い煙を見つめるレージュに何か言葉をかけようとしたが、結局気の利いたことは言えずに、ただ頭を下げて、「ありがとうございました」とだけ言った。
「――以上。報告終わり」
グラソン砦から飛んで戻ったレージュは、報告のためにローワ王の元へやってきた。椅子に座ったローワと横に立つ王都近衛隊長オネットに、レージュは真っ白なマフラーで顔の下半分を覆ったまま眉間にしわを寄せて報告を終えると、足早に部屋を去ろうとする。
「それじゃ」
「レージュ。ちょっとこっちへ来なさい」
「……あたし、忙しいんだよね」
「私も忙しい。だから駄々をこねずにこちらへ来なさい」
レージュはゆっくりとローワに歩み寄っていく。真っ白なマフラーが大理石の床を引きずる。ローワは、側で立っているオネットに目配せすると、彼は黙って一礼して部屋から出ていった。
レージュがローワの前まで来ると彼は椅子から立ち上がった。
「マフラーを取ってみなさい」
「まさか無礼だって言うの? 冗談じゃない、あたしは――」
頑なに取ろうとしないレージュの隙をついてローワはマフラーをはぎ取る。さらけ出された彼女の褐色の頬は青く腫れていた。
「誰かに殴られたな。それも味方に」
「……なんてことはないよ。何もわからない新兵にまで理解して貰おうと思ってないし」
「唇も切れているし、目も赤い」
「いや、これは……」
レージュが何かを言い掛ける前にローワは膝立ちになってレージュを優しく抱きしめる。
「辛かったろう。お前にはいつも辛い思いをさせているな。すまない」
「……」
「私と二人の時は心の奥を隠す必要はないぞ」
しばらく抱きしめていると、小さくすすり泣く声が聞こえる。ローワはレージュの小さな頭を撫でてやる。クレースにも触れているが、レージュは嫌がる素振りを一切見せない。
「ジャンティーは優しすぎた。仲間思いの良い指揮官だった。止めることができなかった。……あたしが、殺してしまった」
「お前は、マルブルを守るために、彼を守るために一切の手を抜いていない。だが、全力で事に向かったからといって、その全てが完全なる成功を収めるとは限らん。レージュの力不足だけが原因ではない。この世には、寿命のように、絶対にどうすることもできないことがあるのだ」
仲間を想い、部下に慕われた彼だからこそ、あれほど多くの兵が一緒に無謀な出撃を共にしたのだ。だが、そのことは戦術的観点から見れば愚行でしかない。絶対に阻止しなければならない事だった。そして、レージュの活躍によりその愚行は阻止され、彼軍に多大な被害を与えることができたのだ。
作戦は、成功した。
「よくやったぞ、レージュ」
その言葉を聞き、すすり泣くレージュは震える腕でローワの体を強く抱きしめ返した。
☆・☆・☆
「……あの頃はまだ十一の小さな子供なのに、戦場の兵たちの前で涙を見せてはいけないことを知っていた。強く、気丈な娘だ。だが、それ故に悩みも大きい」
今は彼の元にある真っ白なマフラーを撫でながら在りし日の事を思い出す。ローワの視線の先の窓からは涼しい夏の風が入ってきた。
「兵たちの目には時には残酷に映ることもあるだろう。彼女もそれはわかっていた。だが、彼女はそれでも構わないと言った。自分一人が悪者になるだけで済むなら安いものだと。戦いが終わって不要になったらマルブルを去るとも言っていた」
ローワは自嘲気味にラインに笑いかける。
「国王である私が言うのもなんだが、彼女ほど必死にマルブルを守ろうとしている者は他に何人もいなかった」
ローワの語る死神の姿はラインの聞いてきた死神像とは全く違うものだった。一瞬だけ、レージュは良い奴なのではないかと考えるが、祖国に仇なし、幾万のカタストロフ軍を葬ってきた死神を受け入れることはできない。
死神は、敵なのだ。
「私は彼女に優しくしていたが、本当の意味で頼れる存在ではなかったかも知れない」
ローワはゆっくりと息を吐く。
「どこかで、本当に頼れる存在を見つけられたのなら良いのだがな」
「そう、ですね」
肯定したかったわけではないが、返す言葉がこれしか見つからなかったのだ。
「……昼食の用意をしてきます」
逃げるように退室し、調理場に向かいながらラインは思う。
死神が生きているのならば、ローワを取り戻しにここへやってくるかもしれない。それも軍勢を率いてだ。そうなったとき、自分は一体どうすればいいのだろうか。剣を握ったこともない、料理しか取り柄のない自分に何ができるというのか。宰相コシュマーブルに聞きたかったが、こちらから手紙を送ることはできず、ただ指示を待つしかなかった。
死神が、ここへ来る。そのことを考えるだけで、ラインは身震いする。
だが、会えるのならば一度だけ会ってみたい。その思いは、ライン本人も気づかないほど小さく、心の奥にこっそりと芽生えた。
17/03/29 文章微修正(大筋に変更なし)
17/07/14 煙草削除(大筋に変更なし)