前へ次へ
6/136

第六話 「蒼天軍師」

 旗色の悪いヴァンが気分を落ち着けようと、サイドテーブルの上にある木箱に入ったパルファン(・・・・・)の小枝を一本取り出して、卓の上にある蝋燭で火をつけて口にくわえる。


 パルファンとは、この大陸に自生している香木のことである。香木ではあるが、そのままではほとんど香りはしない。乾燥させた木の皮を削ったものや細い枝などに火を付けると、細い煙とともに独特の良い香りが立つのだ。

 この香木は大陸中で珍重されているが、パルファンの木は数が少なく、また見た目に特徴がなくて、乾燥させて燃やさないと香りが立たないので非常に見つけづらい。そのため、パルファンはかなりの高値で取引されるのでパルファン専門の商人も数多い。


より近くで香りが楽しめるように、上級階級の間では枝を口にくわえることが流行っている。それに倣ってヴァンも口にくわえて煙を吐き出すと、目の前の少女が自分にもよこせと要求してくる。


「これはお菓子じゃない。パルファンだぞ。お子様にはまだ早い」

「知ってるよ。だからちょうだいって言ってるの」

「パルファンを吸えるのか。ませた子供だな」


 ヴァンが木箱からパルファンを一本放って渡すと、少女はそれを指で挟んで口にくわえ、身を乗り出してヴァンのパルファンの火を使って火をつけようとする。


 接吻できそうなほどの至近距離で、少女の夜天の隻眼と見つめ合うと、ヴァンはドキリとして、慌てて後ろに仰け反る。それなりに女遊びも嗜む彼は、今まで女性に近づかれて逃げることなどなかった。しかし、あの深い色の瞳にのぞき込まれると、どうにも落ち着かなくなる。


 火が逃げてしまったが、少女のくわえたパルファンにはちゃんと燃え移ったようだ。煙を一吐きすると、「にひひ」と少女は笑う。


「子供、と言ったね。それがあんたの敗因だ」


 少女が駒を持ち、力強くチェス盤にたたきつけて宣言する。


「最初から本気のあたしと、表面では警戒していても心の奥ではあたしを侮っているあんた。どっちが勝つかなんてやる前から決まってるんだよ。これはゲームだけど遊びじゃない。あんたの負けだ」


 少女が鋭く指摘して打ったこの一手、まだチェックメイトではないが、ヴァンはこれ以上駒を進めることができなかった。


「……そうだな、俺の負けだ」


 ヴァンは自分の眼鏡が曇っていた事を知る。

 人を見た目で判断してはいけない。義賊業を営んでいる彼にとっては常識であったが、ここにきてその鋭い鷹の目も鈍ってきたのかもしれない。


「敗者は勝者の言うことを聞かないといけねえよな。この箱を開ければいいんだろ」


 ヴァンは、相手が子供だろうと、どんなくだらない事だろうと、必ず約束は守る。それが彼の主義だった。

 横に置かれたままの箱は、ヴァンの頭より一回り大きい重厚な箱だ。しかし、立方体の大理石の箱はどこが蓋なのかわからず、またどこから開ければいいのかもわからない。


「慎重に開けてね。中身を見てひっくり返らないように」

「たかが箱一つで大袈裟だな。中に爆弾でも入ってるのか?」

「そんなものよりもっと力のあるものだよ」


 天使の片目には虚偽の色は全くない。彼の優れた直感がまたも警告を発する。先ほどは軽く見たために、目の前の少女に敗北した。しかし、ここで約束を破るのは彼の流儀に反する。


「……オンブルだけ残ってくれ。あとの奴らは悪いが出て行ってくれ。こいつはかなり危ない話らしい。聞かない方が幸せなこともある」


 ヴァンがいつになく真剣に言葉を吐き出すと、団員たちはオドオドとヴァンを見る。その時、その重い空気を払拭するように、手を叩く乾いた音が響く。


「大丈夫だ。俺も付いているし、ヴァンなら後でちゃんとお前たちに話す。いつもそうだろう」


 手を叩いたのはオンブルという男であり、先ほど戦利品を改めた男だ。ヴァンの親友でもあり右腕的存在である。藁束を短く刈ったような濃い金の髪を持ち、豹を思わせる細く締まった体格と、ニヒルに笑っている口元、切れ長の黒い目には近寄り難い印象を与えるようにみえる。しかし口調はお調子者のそれで、表情にはひょうきんなところもある彼は、団員たちからの信頼も厚い。


「ま、そういうこった。わりいな、お前ら」


 ヴァンは団員たちを信用している。団員たちもまた、ヴァンとオンブルを信頼しているのだ。オンブルがそばにいてくれるのなら、と彼らは自分を納得させ、ぞろぞろと部屋から出ていく。


               ☆・☆・☆


 彼らが出て行った後、この場にはヴァンと少女とオンブルの三人が残るはずだった。しかしそこにもう一人、古傷だらけの少女に向かって平伏し、嗚咽を漏らす男がいた。


「おい、どうした」


 ヴァンが声をかけるが、男はそのまま震えているだけだった。もう一度声をかけようとしたところで、少女が口を開く。


「そこで泣いてる人。マルブルの出身でしょ」


 少女の声に男は身を震わせ、大きな体を揺らそて嗚咽混じりに話し出す。


「……袋から出てきたとき、まさかと思いました。ですが、そのお姿を見間違えるはずがございません。討ち死にされたと耳にしましたが、ご無事だったのですね。レージュ様」


 その言葉に、少女は少しだけ嬉しそうに、少しだけ申し訳なさそうに、顔を上げるように言う。


「こんな姿になっちゃったけどね。……あたしは平伏するのは大嫌いだけど、人にされるのも好きじゃないんだ。立場上仕方ないとしてもね。人間一人一人の価値に上下関係なんてないんだから。ほら、顔を上げて」


 男は滝の涙を流しながら少女を見上げる。


「うん、やっぱりパン屋のノワイエだ。だいぶ痩せたね。盗賊業で引き締まったのかな。ごめんね、あのあと忙しくて自分で買いに行けなくなっちゃったから、ほかの人に頼んでたんだ。あんたの作る胡桃パン美味しいからさ、また今度作ってよ」


 男の知っている、あの時と同じ口調で、あの時とは変わってしまった姿でレージュは答える。


「おお……! 私なんぞを覚えていてくださったのですか……」


 涙を滂沱ぼうだと流すノワイエをよそに、ヴァンは考える。


「レージュ……?」


 その名はどこかで聞いたことがある。さて、どこだったか。オンブルの方は思い出したらしく、いつものニヒルな笑いも少し強ばっている。


「そういえば自己紹介がまだだったね」


 ヴァンがオンブルに誰なのか尋ねようとした時、少女の方から自己紹介をする。


「あたしはマルブル王国の軍師、レージュだよ。元傭兵で、マルブルでは蒼天そうてんの軍師って呼ばれていたこともある。聞いたことない?」


 そこまで聞いてヴァンははたと思い出す。数年前にそのような人物が小国マルブル王国に舞い降り、戦争中であった強国カタストロフ相手に大立ち回りしていたことを……。


               ☆・☆・☆


 マルブル王国とは、アーンゲル大陸の北東に位置する、最も美しい北国の名である。小国ではあるが、国中で自然の息吹が感じられ、観光地や避暑地として有名であった。特産品の大理石は世界中に輸出されて、経済的にも文化的にも豊かな国だった。しかし軍事力に欠け、古代遺跡も古代遺産も持たぬ小国マルブルは、強大な隣国カタストロフの庇護の下にあった。大理石と軍事力を交換していたのだ。


 しかし今より三年程前、カタストロフの前皇帝が死に、代が変わると、カタストロフの軍事力は突如としてマルブルに牙をむく。少国は戦火に包まれ、脆弱な軍事力しか持たないマルブルは敗北の一途を辿っていた。


 だが、濁流のように南西から攻め行っていたカタストロフ軍は、ある日を境にその勢いを急速に失う。それどころか、マルブルの深くまで切り込んでいた軍勢も押し返され、あっという間にマルブルに国境を取り返されているという事態になっていた。


 その起死回生きしかいせいの流れを作ったのが、天をかける翼を持つ傭兵出身の、後に蒼天の軍師レージュと呼ばれる少女だった。

16/03/13 文章微修正(大筋に変更なし)

16/09/03 文章微修正(大筋に変更なし)

16/12/27 文章微修正(大筋に変更なし)

17/03/15 文章微修正(大筋に変更なし)

17/03/27 文章微修正(大筋に変更なし)

17/05/10 文章微修正(大筋に変更なし)

17/06/21 文章微修正(大筋に変更なし)

17/07/08 煙草削除(大筋に変更なし)

前へ次へ目次