第五話 「生意気軍師」
ヴァンは天使の少女をもう一度よく見る。最初にずた袋から出された時の品定めの目とは違う。相手の持つ力を見る鷹の目だ。
よく見ると、体中の傷痕は半年ほど前にできたものが多い。後ろの大きく開いたワンピースから見えた背中にも剣が突き刺さったような傷痕がたくさんあった。これだけ致命的な傷を受けて、今こうして立って動けているのは、天使の回復力が凄まじいからなのだろうか。もっとも、天使なんて初めて見たのだからわかるはずもないが。
しかし体つきは貧相で、足や腕も細く、簡単に折れそうだ。背筋が少々後ろに反っているが、羽の重量があるからだろうか。どうやっても押さえ込めそうな非力な少女なのに、自分が、自分たちが勝てるイメージが全くできない。経験した激戦を古傷が物語っているからだろうか。
いや、違う。
目だ。
少女の秘められた力が、隻眼の夜空の目に宿っていることをヴァンは悟る。注意深く見てみれば、歴戦の猛者の如く猛々しい色で満ち満ちているではないか。あの色はただの少女では決して持ち得るものではない。戦場と絶望を知っている目だ。右目と左羽を失ってもなお気高い精神を少女の左目から感じ取れる。
ヴァン自身は過去に、天上に住んでいた天使たちが作った古の技術が眠っていると噂の古代遺跡を一度だけ見たことがあり、好奇心から中に入ったこともあるが、遺産を見つける前に危険を感じて脱出した。中で天使の生き残りに会ったこともないし、これまでにも一度も見たことがない。もしもこの少女が本当に天使ならば、彼女は、おとぎ話の中にのみ存在していた古代人の生き残りということになる。
これは上玉どころではない。こちらも腰を据えて本気でかからないと食われる。飲み込まれてしまう。
「そんな箱があるのか?」
「へい。あの力自慢のガビーですら何をやっても開けられなかった石の箱がありやす」
「ガビーの馬鹿力でも無理なのか、そりゃすげえ。もってこい、見てみたい」
珍品となると途端に目を輝かすヴァンを見て少女は微笑む。
「あ、ついでにチェス盤も持ってきて」
我が物顔でついでの用を頼む少女に、ヴァンは小さく吹き出す。
「そんなものどうするんだ」
「決まってるじゃん、打つんだよ。あたしとあんたが」
「なんで俺がそんなことをしなくちゃならない」
「言われてみればそうだね。あたしには理由があるけど、あんたには無い」
サークレットを指に引っかけて外し、二回まわしてから少女は言葉をつなげる。
「じゃあね、あたしに勝ったらあんたの父親の事を教えて上げる。どう? これなら打つ気になったでしょ」
父の事を聞いたとき、ヴァンはドキリとした。
なぜ少女がその事を知っているのかわからぬが、確かに彼は自分の父親の事を知らない。
生まれた時から彼には母親しかいなかった。周りとは違う自分の家庭に、幼き頃の彼は疑問を抱き、母に問いかけたことがある。その時彼女はこう言った。
「あなたのお父様はとても立派な人で、いつも私たちを守ってくださっているのよ。だから、他の人がなんと言おうと、あなたは胸を張って強く生きていきなさい」
後に彼の母親は流行病に罹り亡くなる。父親がいない理由と、父親の名はついには明かされなかった。
母の死後、独り身となった彼は、幼なじみの親友オンブルと共に階級による差別のない国を目指し、現在は気ままな義賊生活を送っている。何度か父の正体を求めて奔走したこともあるが、結局、影すら掴むことはできなかった。
「……いいだろう、打ってやる。その話が嘘か本当かはわからないが、そこまで調べ上げたお前は大した奴だ。チェス盤も持ってきてくれ」
ヴァンが指示すると、団員の一人が戦利品の中から古ぼけた石の箱と、チェス盤を机ごと持ってくる。石の箱は、一見するとただの切り出した大理石のようだ。しかし、ヴァンの優れた審美眼と勘は中に何かとてつもない物が入っていると見抜く。それが何なのかは分からないが、とりあえず今は横に置いておき、二人はチェス盤を挟んで向かい合って椅子に座る。
「ボロボロだね」
十字架のサークレットを被り直し、所々が欠けたり汚れたりしている駒を嬉しそうに並べる少女は、久しぶりに父親と遊ぶ娘のようだった。こうしてみると少女はとても小さく、とてもか細く見える。だが、自分の中の何かが、「あの目を見ただろう。決して油断はするな」と警告を発している。
「黒と白どっちが良い? あたしは白が好きだけど」
「どちらでも構わん。さっさと始めよう」
ヴァンが黒の駒を一手進める。
「ところで、俺が負けたら何を払えばいいんだ? 奪ったものを返せとでも言うのか」
「いや、金品は持って行って良いよ。元々あんたの物だし。……じゃあ、あんたが負けたらその箱を開けてもらおうか」
少女も白の駒を進める。その言葉には引っかかるものがあった。
お互いの手が進むたびに、周囲を取り囲む観客たちは、芸術的とも言える少女の打ち筋に目を見張っていた。駒がまるで本物の兵のように盤上を駆け回り、強固な隊列を組み、黒い駒を蹂躙していく。それは、彼らの眼前に本物の戦場の光景をまざまざと見せつけるようであった。
彼ら義賊団とて賭チェスはよくやるし、それなりに腕に自信はあったが、それはあくまで盤の上の話であって、ただの遊びの一つなのだ。しかし彼女は違う。戦場を指揮する軍師さながらの駒さばきに、遊びの要素はひとかけらもない。
対局が中盤に差し掛かってきた頃、ヴァンは自身の焦りを感じていた。油断はしていなかったはずなのだが、あれよあれよという間にヴァンの陣営が不利になってきている。ヴァン自身もチェスにはかなりの自信がある。
こんな子供に、負けるわけにはいかない。
16/03/13 文章微修正(大筋に変更なし)
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