第四一話 「小動物軍師」
日はとっくに沈み、北国の涼しい風が吹く夏の夜、一人の男が唸りながら書類仕事を片づけていた。
「あ゛あ゛……終わった、か」
最後の書類を積み上げてヴァンは椅子に体重を預けて大きなため息をつく。デビュ砦を奪還してからというもの、書類書類書類とため息の出る仕事ばかりが続く日々だ。それに加えてビブリオから王になるための勉強もある。慣れぬことの連続で疲れがたまってしまう。なのでたまに仕事から抜け出して城内の者たちと話したりする。
義賊団の連中は、王となるヴァンを茶化したりしてそのまま気軽に接してくれるが、兵士たちはそうではない。王相手に恐れ多いという思いもあるだろうが、なによりヴァンを信用していないと言った方が正しいだろう。
オンブルから活を入れてもらって心機一転したが、心が洗われたのはヴァン自身のみで、彼らの気持ちはそのままだ。
ご機嫌取りではなく、彼らとの信頼を深めなければいけない。それも早急に。
そんなことを考えていると軽い足音が近づいてくる。
「お疲れさん」
無花果をかじりながら半分の天使が部屋に入ってきた。レージュはもう片方の手に持っている無花果をヴァンに投げてよこす。
「おう。起きたか」
「うん。部屋まで運んでくれてありがとね」
「気にするな」
ちょうど喉も乾いていたところだ。ヴァンも無花果にかぶりついた。
「昼の戦いは見ていて圧倒された。レージュの変幻自在の動きも見事だったが、それについていけるリオンの練度も凄まじい」
「なんてったって大陸最強だからね。まあ、今回はリオンも本調子じゃなかったし手加減して負けてあげたけどね。にひひ」
悪戯っぽく笑ったレージュは書類の束を押しのけて机の上に座る。
「勝てる?」
「何がだ?」
「さっきのあたしやリオンに」
「……正直に言ってしまうと無理だな」
「にひひ。そんな弱気じゃ困る。頼りにしてるんだから」
そうは言われても、あの戦いを見て「自分でも勝てる」などと言える者は、相当な実力者か底なしの愚か者だけだろう。ヴァンはそのどちらでもない。
「出来る限りは善処しよう」
「うん。それで良い。無理は長く続かないからね」
さっきのオンブルとのやりとりは見られていないはずだが、やはり蒼天の軍師には、人の心などお見通しというところか。
足をブラブラさせながら無花果を食べ終えた半分の天使は浅黒い手に付いた果汁を行儀悪く舐め取っている。
「そうだ、レージュ。お前が起きたら聞きたいことがあったんだ」
「んん、なに?」
「どうにも俺は兵たちから未だに不信の目で見られているようだ。義賊上がりの俺だからな、それは仕方ない事かもしれないが、このままではいけないと思う」
「うん。確かになんとかした方が良いね」
「そこで、蒼天の軍師に尋ねたいんだが、彼らの不信を取り除く良い案は何かないか?」
レージュはヴァンの変化にちょっと驚く。
少し前までヴァンは兵の扱いに苦心していた。そのことはレージュも感づいていたが、抱え込もうとするヴァンに直接なにかすることはなかった。しかし、そのヴァンが今、変わろうとしている。義賊の頭領から一国の王となるために。
「そうだね……」
何があったのかはわからないが、彼の中で使命感のようなものが生まれたのかもしれない。いや、やるべきことを再確認して前を向き直したのだ。おそらくオンブルあたりが活を入れてくれたのだろう。彼の金色の瞳には白詰草の原で見た野心の光が取り戻されている。
結束力に優れるマルブル軍の中で、トップに立つ人間の存在が薄いというのは問題がある。兵士たちは、ヴァンを紹介した平原で剣の誓いを立てた。だが彼らの大半は、レージュが言うから立てたようなものであって、ヴァン自身に誓っているかは微妙な所だ。蒼天の軍師としても、王と兵が信じ合えない関係は避けたい。
「じゃあ、ここらで一発決めちゃおうか」
「決めるって、何をだ?」
「ヴァンはまだマルブルの兵たちに浸透していない。それは事実だ。彼らの頭の中には先王のローワ爺さんしかいないんだ。でも、今ここではあんたが彼らの王なんだ。そのことをはっきりと示しておいた方が良いことは間違いない」
「ああ」
「信頼してもらうには色々な方法があって、たいていは時間もかなりかかる。だけど、簡単かつ迅速にできる方法がある」
「それはなんだ?」
「にひひ。あたしにしてくれたことだよ」
レージュは八重歯を見せて笑う。
「相手を恐れず自分を見せること。自分の想いをみんなの前で語るんだ。そうすれば、人は付いてくる」
お前がお前でいる限り、ちゃんと付いていってやる。
そう言ったオンブルの言葉がよみがえる。
「それは俺も考えていたが、俺は兵隊さん相手の堅苦しい挨拶とか高説など言えんぞ。レージュ個人には俺の想いをぶつけたが、兵たちはそうもいかんだろう」
「それだよ、ヴァン」
「……何がだ?」
「そうやって線を引くから兵たちがついてこれないんじゃない?」
ヴァンはハッとした。
差別の無い国を作ると言っていた自分が、無意識のうちに彼らを差別していた。
義賊団の連中といるときは、当然ながら線引きなどしていない。年長だろうと子供だろうと態度を変えることは無かった。それが、彼ら兵士に対してはどうだ。今まで義賊という立場に身を置いてきたからか、心の奥底には兵や官への不信感があった。しかし、今後はもうそんな考えは捨てなくてはならない。自分で壁を作っていては、互いに信頼などできるはずがないのだ。
「何であんたはここにいるのか。なんであたしたちに協力する気になったのか。王族の息子だと言われたから仕方なくってわけじゃないでしょ。難しく考えることなんて無い。ヴァンのそのままの姿を見せれば良いんだ。大丈夫、あんたは勝利の女神であるあたしが見定めたんだから、胸を張って自分を見せれば良いんだよ」
白い歯を見せて笑う天使は赫赫の頭を小さな手で撫でる。
難しい事を考えなくて良いというのは助かる。ヴァンはあまり小難しい事を考えるのが苦手だった。オンブルにもそう注意された。
「わかった。任せておけ」
ヴァンも歯を見せて陽気に笑い、レージュの小さな拳に自分の拳を軽く打ち合わせる。もはやこの二人の間には、とてもついこの前会ったばかりという距離感は無く、常にこうして共に過ごしてきたかのような確かな信頼感がある。
そして、そのことはお互いに強く感じていた。
「そうそう。羽はちゃんと服に忍ばせておいたぞ。本当に崩れたりしないんだな」
上着の胸元をまくって純白の羽を見せるとレージュは嬉しそうな顔になる。
「何で崩れたり汚れたりしないのかはわからないんだけど、世界にただ一つの天使の羽だからね。御利益でもあるんじゃない?」
「それにしても、レージュからは色々と貰ってばかりだな。何か返さねえと」
「にひひ。だったら明日はみんなの前で喋って結束を強めてよ。そうしてくれたら嬉しいしね」
「それはやるが……そうじゃなくてだな、もっと個人的に何かしてやりたいんだ。俺個人からの贈り物としてな」
蒼天の軍師は千載一遇のチャンスは絶対に逃さない。そしてそれは、戦場に限った話ではない。
火傷痕の頬を指で掻きながら少し恥ずかしそうに口を開く。
「あー、じゃあ、さ。頭、撫でてもらえるかな」
あまりにも素朴で、あまりにも子供っぽいご褒美の要求にヴァンはきょとんとする。
「……そんなものでいいのか?」
「いいんだよ。さあ、ほら」
レージュが机から飛び降り、金髪の小さな頭を差し出す。改めて見ると本当に綺麗な髪をしている。艶々として光り輝き、陽光で編まれた織物のようだ。そんな頭に自分の無骨な手を乗せ、ゆっくりと撫でてやる。
金髪の予想以上の手触りの良さに驚くと共に、レージュの頭の小ささにはため息すら出る。こんなに小さく頼りない頭には星の数ほどの戦略や戦術が詰まっており、その知識がこの戦乱の世で頼られているのだ。
「……にひひ」
レージュが気持ちよさそうな声を上げる。彼女は絨毯の敷かれた床に膝を付け、椅子に座っているヴァンの膝に懐くように頭を乗せる。
こうして撫でているとまるで小動物か何かを撫でているような気持ちになる。
「ヴァンは、優しいね」
「そうか?」
「うん。だんちょーはもっと乱暴に撫でてた。髪がめちゃくちゃになるんだけどね。にひひ」
……もしかしたらレージュは白き翼のことを思い出していたのかもしれない。彼女にとって、拾って育ててくれた白き翼は家族のようなものだろう。忘れがちだが、彼女はまだ十二、三歳ぐらいの少女なのだ。いくら天使だろうと、蒼天の軍師と呼ばれ戦場を駆け巡っていようと、実際は親を知らぬただの女の子なのだ。家族が恋しくなってもおかしくはない。
「お望みならもっと強くしてやろうか?」
「ううん」
薄く目を閉じたレージュは寝言の様につぶやく。
「……ヴァンは、ヴァンのままでいて。あんたは誰かの代わりじゃないんだから」
その言葉が、一滴の雫となって胸の奥深くに沁みた。そして同時に、心が熱く燃え上がるのを感じる。
「ああ。そうだな」
静かに、とてつもなく深く響く声で答えたが、レージュからは既に小さな寝息が聞こえてきた。調子が抜けるが、ヴァンは赫赫の髪を掻いて小さく暖かい息を漏らす。
「おやすみ、レージュ」
そして、夏の北国の夜は更けていった。
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