第三九話 「回心軍師」
ビブリオが奇妙な体験をしているなどとは知らないヴァンは、レージュをベッドに寝かせ、そのあどけない寝顔を眺めながらふと考える。
リオン・オネット・ビブリオ、主立った人間とは打ち解けてきたような気がするが、やはり兵との溝は深いままだ。レージュを部屋に連れて行くまでにすれ違った巡回の兵たちも、敬礼こそするものの、敬意は感じられない。
彼らからすれば、自分たちの女神と崇拝する玉座が突然現れたゴロツキに持って行かれたようなものだろう。この溝はなんとかして埋めたい。しかし、どうやったら彼らに自分を認めてもらえるのか。いくつか考えは浮かぶが、どれも時間がかかるし効果がすぐに現れるものでもない。
……お姫様が起きたら聞いてみるか。
そんなヴァンを影から睨みつける黒装束の男がいた。ヴァンの右腕的存在であるオンブルは、くわえていた草を吐き捨て、面白くなさそうに空を仰ぐ。
☆・☆・☆
足音が聞こえる。この執務室に向かってきているようだ。おそらくオンブルだな。あいつが足音を出して歩くのは珍しい気がするな。
部屋の中で書類の山に囲まれながらヴァンはそんなことを考える。
執務室の扉がノックもせずに開け放たれた。
オンブルとともに入り込んできた風には怒りの臭いがあった。
「ヴァン」
「どうした? オンブル」
ヴァンはため息を付いてビブリオから頼まれた書類の束を机に放ってオンブルを見る。彼の細い眉がつり上がっていた。
「どうしたはこっちの台詞だ。最近のお前はなんだ。見ちゃいられねえぞ」
「なんだとはなんだ。言いたいことがあるならはっきりと言え」
「そうやって眉間にしわを寄せながらうじうじと考え込んでるなんてお前らしくねえって言ってんだ」
「慣れない仕事が山済みなんだ。眉間にしわぐらい寄る。話はそれだけか?」
そう言ってまた書類に視線を移すヴァンにオンブルは舌打ちをする。
「お前は昔から変な事で一人で抱え込むことがあるよな。普段はがさつで奔放なくせによ」
「さっきからなんだ。喧嘩でも売ってんのか」
「俺たちの団長はそんな考え込むような男じゃねえだろ。王様だって言われて縮こまっちまったか?」
「んなことはねえ。ただ俺は、俺の夢を今度こそ実現させたいだけだ。せっかく掴んだチャンスだ、慎重に考えて何が悪い」
「慎重だと?」
机に向かうヴァンの胸元を掴んで立たせ、その頬に拳を叩き込む。ヴァンが睨みつけてきたので拳をもう一発見舞う。
乱暴に手を離し、椅子に叩きつけるようにヴァンを解放する。
「いつからそんなこと腑抜けた事を言うようになった」
「ああ?」
「あの時、俺を殴ってまで引き入れたお前が、慎重に考えたいだと? 寝言は寝て言え」
ヴァンは椅子にもたれ掛かったまま下を向いている。
「ヴァン、もしも今のお前があの時みたいに裸一貫で義賊団を立ち上げたとしたら、俺を含めて誰も付いて来ねえぞ。あの時の野心に満ちた目はどうした。あの嬢ちゃんたちに入れ込むのはわかるが、自分を見失ってんじゃねえよ。せこせこと兵や官のご機嫌を取ることばかり考えるお前なんて、義賊団は見たくねえんだ。もっと堂々としてろ。そうすりゃ人は付いてくる。義賊団がそうだったろ。何でマルブルを飛び出したか、忘れちまったのか」
ヴァンはまだ下を向いたまま動かない。
「人が人らしく生きられる世界を作ると言ってたな。だけどな、その前にお前がお前らしく生きてなくてどうする。お前が自分を見失ってどうする。何とか言ってみろ、赫赫のヴァンさんよ」
少しの沈黙の後、ヴァンから小さな笑い声が漏れる。その笑いは次第に大きくなり、顔を上げて力の籠もった目で歯をむき出してオンブルに笑いかけると、やにわに立ち上がり、オンブルの顔に向かって拳を打ち込む。オンブルはそれを避け、膝蹴りを返す。しかしその蹴りはヴァンの足に弾かれ、よろけたところにまた拳が飛んでくる。今度は避けずに手で受け止める。もう片方の手で繰り出してきたパンチも手で止めた。ヴァンは拳を開いてオンブルの手を握り込み、二人は両手を握りあって押し合いの格好になる。
「随分と好き勝手言ってくれるじゃねえか。ええ?」
「ようやく目が覚めたかよ、団長。とっくに太陽は昇ってんだぜ。むしろ沈みかけてらぁ」
「そのようだな。だがその前に手を離せ」
「なんでだい?」
「殴られっぱなしは嫌なんでな。これじゃあ仕返しができねえ。二発も殴りやがって」
「俺も殴られるのはゴメンだね」
二人は握る手に力を込める。しばらくそうしていると、オンブルの方が先に音を上げる。
「いてててっ。わかったよ。もう降参だ」
「よし。これでさっき俺を殴ったのは許してやろう」
「そりゃどうも」
お互いに手を離し、オンブルが言い終わらない内にヴァンは不意打ちの拳を繰り出す。しかし、その奇襲もオンブルは難なく受け流す。
「許してくれるんじゃなかったのかい」
「お前は本当に不意打ちに強いな」
「団長が間抜けの寝坊助だとそうもなるさ」
「口の減らない奴だ」
だが、本当に助かっている。オンブルは自分が見えないところまで気を配っている時がある。こいつが側にいてくれるのは本当に心強い。
ヴァンは椅子に座り直し、足を机の上に組んで乗せて書類を眺める。
この、ビブリオが見たら目眩を起こしそうな行儀の悪い格好こそが、オンブルの知るいつものヴァンの姿だった。
ほんの一月ほど前は古城の一室でこうして財宝を眺めていた義賊団の団長が、立派な王になるために頑張っているとはな。世の中なにがあるかわからんものだ。
「マルブルさん方の目が無いときはそうやって気を抜け。俺たちの前でまで王様はしなくていい。赫赫の義賊ヴァンでいろ」
「ああ、そうだな。まったくその通りだ。どうにも、視野が狭くなってたみたいだ」
「紙の仕事でうんうん唸ってるのは仕方ねえ。そういうのも王様の仕事の一つだからな。だけどな、考えねえでも良いもんをわざわざ無い頭使って考える必要はねえんだよ。義賊団は、お前がお前でいる限り、ちゃんと付いていってやる。焦んなくても、兵隊さん方もそのうちわかってくれるだろうさ」
「そいつはありがてえ。涙が出てくるな。じゃあ手始めに兵站関係の書類はお前に回す。確か数字が得意だったよな」
「冗談じゃねえ。それとこれとは話が別だぜ」
脱兎の如く部屋から逃げ出していったオンブルの背中に、ヴァンは赫赫の髪を掻いて一つ笑みを漏らす。
「ありがとうよ、オンブル」
お前がいてくれて、良かった。見失いかけていた自分を取り戻すことができたような気がする。
「お前としたあの時の約束、必ず果たしてやるさ」
ヴァンは机に入っている煙草を一本取り出し、机の上の蝋燭を使って火をつける。二、三度吹かしてゆっくりと吐き出す。
おもむろに椅子から立ち上がって外を眺める。
遠くに見える山の峰に太陽が刺さっていた。
人が人らしく生きる世界。おそらく、自分はあの沈む太陽の動きを止めさせ、なおかつ再び昇らせるくらい難しいことをやろうとしているのだろう。今までの身分社会の体制を根底から変えようとしているのだ。先人たちが積み上げてきたものを破壊しようとしているのだ。
だが、悪しき伝統は正さなければならない。友を友と呼ぶのに身分の差などあってはならない。今こそ古き鎖から脱する時だ。たとえ、どれほど困難な道であろうとも、決して足を止めてはならない。
俺が、この世界に新たな風を吹かす。
赫赫の髪に風を通し、金色の鷹の目で大地をにらみつけ、煙草をくわえた口は歯をむき出して挑戦的に笑う。
「首を洗って待っていろ、世界」
立ち直ったヴァンの独白を影で聞いている者がいた。オンブルではない。気配に敏感な義賊ヴァンに全く気づかれぬその者は、悪戯っぽい笑みを浮かべると、太陽が山に隠れるのにあわせてその姿を消してしまう。
16/04/10 文章微修正(大筋に変更なし)
16/09/29 サブタイトル変更「旧:赫赫の風」
16/12/27 文章微修正(大筋に変更なし)
17/03/28 文章微修正(大筋に変更なし)
17/03/29 文章微修正(大筋に変更なし)
17/07/11 煙草削除(大筋に変更なし)