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第二九話 「尋問軍師」

 暗く陰湿な地下牢の空気の中に、スープの良い香りが広がっている。すでに朝食が配給されてから大分時間が過ぎているが、未だスープの野菜にフォークを突き立てる者がいる。それは、先日までこのデビュ砦の城主であったフクスだ。彼は、奥の壁から伸びる鎖で足を繋がれているが、牢の中なら自由に移動できる。もっとも、出入り口には届かないギリギリの長さだ。


 ここでは捕虜にもちゃんとした食事が提供される。しかも、流石は文化の国と言ったところか、ご丁寧にナプキンまで付いていた。今朝の飯は、羊肉と根菜を柔らかく煮込んだスープと固いパンである。量は少ないが、牢獄であまり動くことのない彼には十分であった。


 だがフクスは食べるためにスープをつつき回しているのではない。スープの汁や野菜の汁をフォークの先端に付け、ナプキンへ染み込ませているのだ。そうして作業が終了すると、ナプキンにはなにやら奇妙な模様が描かれた。この模様はカタストロフ帝国で使われている暗号である。


 そのナプキンを持って、鉄格子のはまった、外へと通じる明かり取り用の窓へ近づき、規則的なリズムで音のでない吹きそこないの口笛を吹く。数秒後、外に一羽の鳩が舞い降りる。この鳩は、緊急時にのみ使われる伝書鳩で、フクスがあるリズムで口笛を吹いた時のみやってくるのだ。背伸びをして鉄格子の隙間から太い指を出し、苦戦しながらも鳩の足にナプキンを結びつけることに成功した。そうして一度強く口笛を吹くと、ここからは見えぬ空に向かって鳩は飛び立っていく。



 そのフクスの一連の行動に、感心する男がいた。フクスの向かいの牢に入っている男である。

 彼は、仲間の兵士二人と共に同じ牢に閉じこめられ、捕虜として無益な時を過ごしていた。フクスと彼らは牢が分かれており、彼ら三人が入っている牢の正面にフクスが入っている。一緒にしておくと危ないから、というレージュの意見があったからだ。彼らとしても、今フクスと一緒にされると何をされるかわからないので、この振り分けにはホッとしている。しかし死神の手に捕らわれたままなのは事実で、心が安まる暇はないが。


 今フクスが飛ばしたあのナプキンは、おそらくオルテンシアに送られたのだろう。この砦から一番近い城郭まちがそこだからだ。あそこなら数千の味方がいる。彼らが来てくれれば、ここから出られるだろう。


 光明の見えかけた彼の未来は、鈴の音のような声によって、無情にも閉ざされてしまう。


「残念だけど、あの鳩をオルテンシアに送るのはまだ早い。捕まえさせてもらったよ」


 声がした方を見ると、そこには首に赤いリボンを結びつけた火傷顔の天使が煙をまとって立っていた。暗い牢獄では白いワンピースがよく目立つ。後ろには不機嫌そうな顔をした灰色の髪の少年兵もいる。


「ご苦労さん、フクス。こっちで偽の手紙を作って送るよりも、ナプキンに書かれたあんたの肉筆の方が、用心深いヴェヒターも信用すると思ってね。なんで捕虜相手にナプキンが付いてるとか考えなかったの?」


 全てレージュにはめられていた事を知ったフクスは愕然としてすぐに言葉を返せなかった。


「あの鳩が届いたら、ヴェヒターの事だ、すぐに大軍を寄越してくるだろうね。伝書鳩がオルテンシアに届くのに一日もあれば十分だし、準備やら行軍の時間を考えても一週間でここに攻めてくるだろうね。それじゃ困る。まだ色々と歓迎の準備ができていないんだ。さすがに取り返したばかりの砦を攻められたらマズイからね。然るべき時に飛ばさせてもらうよ」

「……そ、そうだ。その通りだ! オルテンシアには大軍がいる。奴らがくればお前たちはもう終わりだ! 例え時間を稼いでどんな策を練ろうとも、圧倒的な数の力にはあらがえまい!」


 レージュの後ろにいるスーリが眉をひそめるが、隻眼の天使はにひひと笑う。


「ちょっとお邪魔するよ。鉄格子越しってのはどうにも話しにくいからね。鉄格子(ごーし)()し……、にひひ」


 鍵の束の中から一つの鍵を取り出してフクスの入っている牢の鍵を開ける。まるで自宅に帰ってきたかのように自然に牢に入っていくので、スーリは呆気にとられてしまった。


「お前は馬鹿か? 早く出てきて鍵をかけろ」

「いいから。スーリも入ってきてよ。護衛でしょ」

「ふざけるな。話なら外からでも十分できるだろ」

「うーん。なんかね、嫌なんだよね。相手だけ閉じこめて一方的に話すのって。同じ場所に立って話した方が気分良くない? 座ってもいいけど」

「そんなことを言っているんじゃない。無闇に危険に身を置くなと言っているんだ。自分の立場を考えろ」

「その軍師様に剣を向けた人が言ってもねえ。にひひ。じゃあ、あたしを守ってよ。そのための騎士でしょ?」


 暢気に手招きするレージュに心の中で悪態をつきながらも、レージュの護衛はオネットから頼まれたものなので、放棄するわけにもいかない。仕方なく牢へ入り、出入り口を塞ぐようにして立つ。それを確認するとレージュはパルファンの煙で意地悪く笑いながらフクスに向き直る。


「あの鳩を飛ばしたら大軍が来るんだってね。そりゃ大変だ。で、オルテンシアにいるカタストロフ軍はどのくらいいるの? 教えてくれたら食事の量をちょっとだけ増やしてあげても良いよ」


 人を小馬鹿にしたような言動に、フクスは激昂してつばを飛ばす。


「誰が言うものか。この鎖を解いて私を解放しろ!」

「さっさと言った方が身のためだよ」

「フン。どうあがいてもお前たちはもう終わりだ。たとえ本当に伝書鳩が捕らえられていたとしても、オルテンシアからは定期的に伝令の兵がやってくる。それに、ここから逃がした兵がその伝令兵に会えば、鳩を飛ばすまでもなく、オルテンシアから大軍がやってくるぞ。その兵力は半端な数ではない。貴様がいくら策を弄しても生き延びることはできん。どうだ、今すぐ私を解放して、土下座して許しを請えば彼らに寛大な処置を――」


 全てを言い終わる前に、レージュはくわえていたパルファンをフクスに向かって吐き捨てた。先端に付いた火が額に当たって熱さを感じると同時に、フクスは自身の右目が熱くなるのを感じる。脳が理解する前に、左目が右目に突き刺さる浅黒い指を視認した。


「あ、ああぁあ!」

「……あたしをなめるなよ。これでも傭兵の娘として、拾われてからこっち、常に血生臭い戦場に立ってるんだ。一瞬でもあたしより優位に立ったと思ったか。贅肉つけた豚が」


 怒りのあまり声が震えている。レージュの火傷顔に光る隻眼の青い瞳が、火を宿したように赤くなっていた。


「おい、やりすぎだ――」

「スーリは黙ってて」


 スーリが止めようと手を出しかけるが、振り返ったレージュの紅い瞳の気迫にたじろいでしまう。


「いいか。聞かれたことだけ答えろ。抵抗したり嘘を言ったり違うこと喋ったら即座にこの粗悪なガラス玉を引っこ抜いて品の無い口に突っ込むからね」

「ぅあぁあ……」


 もはやフクスには抵抗する力も術も気力もなかった。ただ涙を流し、涎を垂れ流し、真実の情報を口にするほかは無いのだ。


「しゃ、喋る……喋るから……」

「よし、まずはオルテンシアにいる兵力を言え。内訳も正確にだ。嘘を言っているかはすぐにわかるからね」


 スーリ自身は気づいていなかったが、レージュのこの尋問(・・)中に、彼の足は震えっぱなしだった。

16/01/09 タイトル修正。

16/12/27 文章微修正(大筋に変更なし)

17/03/27 文章微修正(大筋に変更なし)

17/07/09 煙草削除(大筋に変更なし)

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