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第二七話 「慢心軍師」

 新月の夜は、夜の闇をより一層深くする。まるで、全ての物を覆い隠すかのように。


 デビュ砦の周囲は、切り開かれた平原と街道と川を除けば、ほとんどが森に囲まれている。深い闇に包まれた森の中を松明の一団が行軍している。夜に松明をつけていると奇襲を受ける危険があるが、どうせこちらの位置がバレた所で奴らの少ない戦力ではどうすることもできないだろう。


「まもなく森を抜ける。全隊止まれ」


 前方に木々の途切れを見つけると、クラーケ将軍は全軍に停止命令を出す。


「全隊停止!」

「停止!」


 それを受けて、兵士たちは統率された動きで手綱を操って行進を止める。


「妙だな。この先にデビュ砦があるはずなのだが」


 森を抜けた向こうにはデビュ砦の城壁があるはずなのだが、そこにはただ真っ暗な闇があるだけだった。新月なので月明かりもない。松明を向けてみてもそこまで光は届かず、クラーケ将軍は偵察を出して確かめることにした。


 しばらくして偵察が戻ってくると、彼らは奇妙な報告をする。


「確かにあそこにはデビュ砦があります。ですが、砦の周囲を照らす篝火かがりびが一つも灯っておらず、城門も開け放たれています。城壁の上も真っ暗で、見張りらしき姿も見えません。しかし森を抜けると馬止めの柵が設置してあり、騎馬では近づけそうもありません」

「なんだと?」


 こちらの動きを阻害するために柵を設置するのは理解できる。だから街道にも柵や罠が設置されていたのだ。しかし、灯りの一つもつけないとはどういうことか。まさかここまで準備しておいて怖じ気付いて逃げ出したわけではないだろうな。一瞬だけ思案するが、この程度で逃げるような奴が世界最大の軍事力を有するカタストロフ帝国相手に三年も戦えるとは考えられない。いないと思わせておいて、絶対にあの砦の中にいるはずだ。


 相手はあの奇手奇策の軍師と噂される死神レージュだ。何か罠が仕掛けられているに違いない。とすると、いかにも入ってくださいと開いている正門に近づくのは危険だろう。ここは当初の予定通りに、包囲してから攻めることにする。戦力ではこちらに分があるのだから。


「後続は左右に展開し、砦を包囲しろ。指示があるまで砦には近づくな」

「はっ!」


 後続の兵士たちが次々と左右に広がり、彼らは大鷲が両翼を広げたような形になる。かくして、天使を飲み込む蛇は、大鷲へと変貌をとげ、翼を広げて砦を包み込もうとしている。左と右の翼が合わさったとき、彼らの勝利は確定するのだ。


「配置についたら一斉攻撃を仕掛ける。死神の断末魔で清々しい朝を飾ろうではないか」


 クラーケ将軍の朗々とした声に、彼らの足音はすでに勝利の予感を感じていた。三百対二千、敵は砦に依っているとはいえ、十倍近い戦力差がある。間違いなく勝てる戦いだ。後は仲間に先を越されないように死神の首を討ち取るだけだ。


 その時、クラーケの後ろから一人の伝令が急を告げに来た。


「申し上げます! 後続の輜重隊しちょうたいが奇襲を受けております!」


 敵は籠城しているものと決めつけていたクラーケにとって、これは少々意外な事だった。


「いないと思ったら後ろにいたのか。小賢しいまねを。なんにせよ敵は少数だ。五百を救援に回せ」


 輜重隊に近い五百の兵が命を受けて小隊長の指示で後方へ戻っていく。しかし、その直後に、重い宵の幕を吹き飛ばすほどの轟音と地響きが彼らを揺らす。この複雑なリズムは地震などではない。味方を鼓舞し、敵を萎縮させる戦いの響きだ。


「あの音はマルブル軍の太鼓の音です!」

「馬鹿な! この短期間でこれだけ大勢の兵が集まったというのか!」


 叩かれている太鼓の中に入ってしまったのかと錯覚するような爆音に、耳が慣れようとしてきた時、またも伝令が走ってきた。


「我が本隊も奇襲を受けております! さらには両翼に展開中の部隊も被害がでている模様です!」

「ええい。森を出て砦へ突撃するか」

「駄目です! 何時の間にか城壁の上には篝火が灯り、敵が弓矢を構えております! 柵があるので進行もままならず、これでは騎馬が進めません!」


 先ほどまで影も形も無かったマルブル軍が全方位から攻撃を仕掛けてくる。包囲するつもりが逆に自分たちが囲まれているではないか。なるほど、蒼天の軍師の名は伊達ではないようだ。

 マルブル軍の怒濤どとうの奇襲攻撃に、さしものクラーケ将軍も少々戸惑うが、彼とて二千の兵を預かる将だ。迅速に頭を切り替え指示を飛ばす。


「砦の敵は無視しろ。どうせ森の中までは矢は届かん。両翼の部隊は迎撃陣形をとって怯まず進め。既に戦闘は始まっている。敵に先手を取られたがこちらは二千の大軍だ。敵の数は情報より多いようだが、それでもこちらよりは圧倒的に少ない。蹴散らして包囲すれば我らの勝ちだ! 絶対に我らが有利なのだ! カタストロフの誇りを汚すな!」

「おおー!」


 勇んで陣を展開しようとする先頭部隊だが、狭い森の中では強固な陣は敷けず、ぶつかったり転けたりしている。さらに、彼らの馬は次々に転倒してしまう。何事かと思い、木々や地面の近くをよく見てみると、そこここに砂埃まみれの細い縄が張り巡らされている事に気づく。これは盗賊たちがよく使用する罠の一つだ。真夜中の森の中では視界が悪く、よほど注意深く観察しないと縄が見えないのだ。


 縄に気をつけて進もうとする彼らの頭上に、突如矢の雨が降り注ぐ。足下にばかり気を取られていた彼らは、上からの攻撃をもろに受けてしまう。次々と矢を受けて倒れていく仲間たち。生き残った者たちは慌てて盾で防ごうとするが、これではまともに動くことができない。こちらも矢を射って応戦するが、木の上にいる相手では分が悪すぎる。そして、矢が頬をかすめた兵士の一人が叫んだ。


「矢を防げ! やじりに糞が塗ってあるぞ!」


 これには歴戦の強者であるカタストロフの騎士でも言葉を失う。傷口に糞を塗られれば破傷風の元となるからだ。


 破傷風にかかれば、手足や背中の筋肉が硬直し、歩行障害や全身の痙攣けいれんを引き起こす。症状が進行すると、激烈な全身性の痙攣発作や、脊椎骨折などを伴いながら死に至る。さらに恐ろしい事に、これほど症状が苛烈であるにも関わらず、痛むのは筋肉に留まるため、意識の混濁などはなく鮮明であることが多い。そのため、絶命するまではっきりとした意識の中で苦しめられ続けるのだ。

 この世界の医療技術はまだまだ未発達であるため、発症した場合の致死率は極めて高い。さらにここは戦場だ。満足な治療など受けられるはずがない。


 傷口に糞が塗られたからといって必ず破傷風が発症するわけではないが、その危険性はある。そのリスクだけで、二千の兵の士気は著しく低下した。

 血も凍る事態に兵たちは萎縮し、反撃することもできずに盾の陰に隠れて後退を始める。これではとても包囲網を敷くことなどできない。


 フクスから送られてきたナプキンには敵兵は三百と書かれていたはずだ。しかし背後からの奇襲と森に潜む伏兵と砦から聞こえてくる太鼓の数は、とても三百の兵では実行不可能だ。


「卑劣な手を使いおって。クソッ、情報がまるで違うではないか」


 今にして思えば、天才と呼ばれる軍師が、あのフクスが出した手紙に気づかないわけがない。捕虜が手紙を出せるようにしておくわけがない。もしも、あの手紙が送られるのを分かっていて、敢えて見逃したとしたら。夜襲に最適な新月の今日に合わせてナプキンが届くように考えていたとしたら……。

 終わったことを考えても仕方がない。敵の数は不明だが、先ほどからの小規模で小癪こしゃくな奇襲から考えると、やはり少数であろう。はったりだ。数の力で踏みつぶしてやる。


狼狽うろたえるな! 敵は少数だ! 反撃をしろ!」


 吠えて状況の回復を図るクラーケだが、そこへさらに悪い知らせが届く。


「後方より獅子将軍リオンが現れました! 輜重隊及び救援に向かった部隊は壊滅状態です!」


 おかしい。なんなのだ。これは一体どういうことだ。楽に勝てる戦いであったはずだ。数の暴力で叩き潰せるはずであった。だが、現実はどうだ。見えない敵に四方八方を攻撃され、思うように陣を展開できず、後方からは怒濤の勢いで獅子将軍が迫ってきている。二千の兵たちは狼狽し、浮き足立っている。これでは、目の前に見えているあの砦に近づくことすらできないではないか。


 さらに、その正面の砦からときの声が上がり、一頭の騎馬と歩兵隊が駆けてくる。砦周辺に設置されていた馬止めの柵は、実は容易に突破できるように細工されており、足止めの効果など無い。よく見れば気づいただろうが、新月の暗さと砦の方に意識が向いていた斥候せっこうでは見落としてしまっていたのだ。


 最初っから奴らは籠城するつもりなど微塵もなかった。二千人いるこちらを攻撃する策だったのだ。そのことに気づいたのが遅すぎた。

 それに呼応するかのように太鼓の音が一層大きくなる。


 これが、これが死神の力だとでもいうのか。


 剣と剣がぶつかり合う音が言っている。矢が放たれる音が言っている。大音量の太鼓の音が、戸惑い叫ぶ声が、人と馬が大地を踏み荒らす音が、戦場の音が、言っている。この戦いの奥にいるであろう少女の声で言っている。


『さあ、どうする?』


 クラーケ将軍は、死神の声を聞いてしまった。


               ☆・☆・☆


「死神がなんだと言うのだ! こちらは二千だぞ! 死にかけの小娘一匹を討ち取れないのか!」


 松明の灯りに照らされ、口から泡を飛ばして叫ぶクラーケ将軍の視界には、既にリオン将軍の姿がある。


 確かに彼らの戦力は二千だが、二千人全員が同時にリオンと戦っているわけではない。木々が立ちふさがる暗い森の中で、たった一人の相手に、一度に攻撃ができるのは精々二人だ。そして、大陸最強ともうたわれる獅子将軍リオンが、雑兵を数人同時に相手にした所で負ける訳がない。

 リオンの手にする二刀の煌めきが走る度、彼の周りの兵は血袋となり果てて、地に崩れ落ちる。もしも剣が切れ味を失えば叩きつけ、なまくらとなって折れれば馬に巻き付けてある新たな剣を取る。仮にそれすらも無くなったとしても、敵から武器を奪い自らの力としてしまう彼の強さは、獅子将軍の名に恥じぬ、鬼神の如き強さであった。


「どうした、この程度か。やはり貴様らカタストロフの勝利はまぐれだったようだな!」


 返り血にまみれた獅子の咆哮に、木っ端兵たちは怖れをなし、一人、また一人と遁走とんそうを始める。

 なんと奇妙な光景であろうか。二千人の兵隊が、たった一人の相手に逃げ始めたのだ。しかし、彼らの足はすぐに止まる。逃げ出した兵の一人が、鬼の形相を浮かべるクラーケに斬り殺されたからだ。


「敵に背をみせるな! 貴様らそれでも誇りあるカタストロフの兵か!」


 前にも後ろにも追いつめられたカタストロフの兵たちは、破れかぶれになってリオンへ向かっていく。リオンは両足のみで馬を巧みに操り、放たれた矢のように敵陣の奥へと切り込み、兵士たちを斬り飛ばしながらクラーケの前に躍り出て斬りつける。クラーケはこれを六本の腕で握る六本の剣で受け止めるが、そのまま馬から押し出され、地面に降り立つ。すぐさまリオンも馬から飛び降り、クラーケに斬りかかる。火花を散らして両者は鍔迫り合いの格好で対峙する。


「お前が猿山の大将か。なるほど、美意識の欠片もなさそうな奴だ。腕が六本に足が二本、まるでタコだな」

「ほざけ。貴様の腕も切り落として我が力としてくれる!」

「タコからイカに変化するってのか。勘弁してもらいたいものだな。俺はイカが嫌いなんだ」


 剣と剣の弾き合う音で対話は終わりを告げた。先手を仕掛けたクラーケ将軍の六本の腕から繰り出される剣は、上下左右すべての方向から同時に襲いかかり、一本や二本を止めたところで微塵切りにされてしまう。さしものリオンも、微塵切りにはなっていないものの、両手の剣を防御にしか使えない。


「先ほどの威勢はどうした。大陸最強といえども所詮は人間の限界がある。古代遺産の力で強化された儂はその限界を超えているのだ!」


 六刃の猛攻を受けつつもリオンは不敵に笑う。この圧倒的に押されている状況であるにも関わらずに。


「なにが可笑しい」

「あまりにも弱くて拍子抜けでな。お前は、腕をただ剣を振り回すための道具としか認識していないようだ。この程度が人の限界とは笑わせる。レージュ(小娘)とやった練習(・・)の方がもう少し手強かったぞ」

「なんだと!」

「オラァ!」


 気合いの一声とともに剣を振り下ろし、クラーケ将軍の剣を全て叩き折る。あり得ない事態が起こり、目を見開くクラーケ将軍の口が動く前に、彼の首は胴体に別れを告げた。


「貴様が越えることができたのは自分の限界だけだったようだな」


 周りで呆然としていたカタストロフの兵士たちは、自分たちの将軍の首が落ちる音で我に返り、一斉に壊走かいそうを始めた。


 総大将が倒れてしまえば、士気の低下は止まらない。小隊長たちが、必死に兵を奮い立たせようとするも、その声は震え、彼らには敗北の未来しか見えなかった。

 もはやこの戦場には勝利など欠片も残されていない。それを確信した兵士たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、二千の軍団はたちまち総崩れとなる。


 その隙を逃すまいと、リオンは乗ってきた馬に跨がり、手綱を返す。


「追撃しろ。一人も生かして返すな。マルブルの怒りを思い知らせてやれ!」


 怒号と共に逃げるカタストロフ兵の背後から蹄鉄ていてつの音が近づいてくる。


 やはり逆らうべきじゃなかったんだ。あの死神を相手にしてはいけなかったんだ。敗走する兵士たちは、一心に神に祈りながら全力で走るしかなかった。



 こうして、二千の兵は一夜にして敗北した。

16/09/29 サブタイトル変更「旧:死神の声」

16/12/27 文章微修正(大筋に変更なし)

17/03/27 文章微修正(大筋に変更なし)

17/03/28 サブタイトル変更「旧:蟋蟀軍師」

17/07/09 文章微修正(大筋に変更なし)

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