前へ次へ
23/136

第二三話 「女中軍師」

 レージュから開放されたカタストロフの兵士たちは皆下を向いて歩いていた。

 死神の言いつけを守り、本国へ帰るためにただ静かに歩いていた。


 蒼天の空の下を――。



 彼らがほとんど休みも取らずにずっと歩き続けているのは、早く本国に着きたいというよりも、一刻も早くあの死神のそばから離れたいからだ。しかし、人には体力の限界というものがある。甲冑も没収されて身軽になったとはいえ、恐慌状態での無理な撤退で、彼らは心身共に疲れ果てていた。


 彼らが解放されてから五日。疲弊の極みにある彼らは、ちょうどよい広さの平原を見つけ、そこで休息を取ることを決めた。

 糧食が各々に配られ、平原では心地よい風たちが遊んでいたが、彼らにはそんな長閑のどかさを感じている余裕は無い。


 そして、頭上に広がる青空を見るものは誰もいなかった。


 しばらくして隊長の出発の声が届くと、兵士たちも力なく答えて立ち上がる。普段なら、こんな返事をしようものならば即座に隊長の怒声と拳が飛んでくるのだが、今の彼らを責めることのできる者は誰一人としていない。



 再び彼らが退却を開始した直後であった。ふいに、嗅いだことのない臭いの妙な風が、先頭を歩く兵士三人を追い越した。彼ら三人は横に並んでおり、互いに生気のない顔を見合わせた後、ゆっくりと後ろを振り返った。


「……」


 彼らの後ろには、先ほど休んだ平原がそのまま広がっている。視界内にはそれだけしか映っていない。


 そう、隊の先頭を歩いている(・・・・・・・・・・)彼らが(・・・)後ろを振り返って(・・・・・・・・)誰も見えない(・・・・・・)のだ。


 共に帰還すべき仲間はおらず、出発の号令をかけた隊長の姿もない。半分ほど残っていた糧食も消えている。なんの遮蔽物の無い、蒼天の空の下で、隊長以下五百人余は忽然こつぜんと姿を消した。


「隊、長……?」


 冷たい汗が吹き出る。呼べど叫べど返事は無い。どれだけ探しても、この平原に存在しているのは彼ら三人だけであった。現実に起こりえるはずのない事態に、彼らの精神は崩壊寸前であった。そして彼らは死神の言葉を思い出す。


『あたしの右目は空にある。お前たちの頭上に空がある限り、いつでも見張っているからね』


 まさか。そんなはずはない。いくらレージュが天才軍師だとしても、遠く離れた地にいる五百人の人間を一瞬で消すことなどできるわけがない!


 だが、あの死神が自分たちを許すとは到底思えない。これは、死神の恨みの力なのか。古代遺産を使ってマルブルを死の国にした報いなのか。自分たちは皇帝の命令に従っただけで、古代遺産とは関係がない! デビュ砦だって素直に明け渡したし、今もあの死神の命令を守って何もせずに本国に帰ろうとしているだけだ! なのになぜこんな目に遭わなければならないのだ!


 半狂乱となっている彼らの目の前に、空から白い羽が一枚舞い降りてきた。


 それを視界にとらえてしまった彼らの精神はついに崩壊し、わけの分からぬ事を叫びながら走り出していった。そして、一人は崖から転落し、一人は狼の群に襲われ、残った一人はカタストロフ帝国が占領した、元マルブル領であるオルテンシアの城郭まちの前まで奇跡的にたどり着いて倒れた。


 門前で暇そうに立っていたカタストロフの衛兵が、友軍の異常な様子に驚き、慌てて駆け寄って抱き起こす。


「おい、しっかりしろ! 何があった!」


 彼は最後の力を振り絞り、レージュが舞い戻った事を仲間に報告しようと、乾いてひび割れた泥だらけの口を開き、衛兵に顔を向ける。


「し、死神が……」


 その時、彼は衛兵の顔の向こうに広がる青空を見てしまった。デビュ砦を出てから、誰もが見ないようにしていた空を見てしまった。その蒼い空に浮かぶ太陽を、死神の金色の目と認識した彼の脳は、その恐怖に耐えきれずに焼き切れてしまった。


「うあああぁあぁあ!!」


 その叫びは、レージュの復活を告げる喇叭らっぱの音となって世界中に響いた。


                ☆・☆・☆


 不幸な三人組が見た純白の羽はレージュの物だったのだろうか。否。レージュは片翼だ。飛ぶことはできない。ではただの鳥の羽だったのだろうか。それも否。何故なら鳥は服を着て懐中時計などを持っていないからだ。


「おやおやー? どうしたのでしょうかー」


 やけに間延びした声の女性は、丸眼鏡をかけており、ロングスカートのメイド服の裾をはためかせ、腰から伸びるチェーンの先にある古びた懐中時計を手に取った。彼女は、叫び声をあげながら走っていく三人を上空・・から見下ろしている。


 彼女は知るよしもないが、彼らは彼女の落とした羽を死神レージュの物だと認識してしまい、どこまでも追ってくると錯覚した死の影から逃げ出したのだ。


「まー、気にしないことにしますー。セルヴァは心が広いのでー」


 気が抜けそうな声の彼女は、顔中に満面の笑みを張り付かせており、頭のネジまで抜けてそうだ。懐中時計の蓋を開き、時刻を確認すると、その笑顔のまま青ざめていく。


「これはー、大遅刻みたいですー……」


 なんとも抜けた感じの彼女だが、しかし、彼女の背には見逃せない物が生えていた。


 この世に羽が生えている人間がいるか、という質問に、レージュを知らない者は「大昔にはいたらしいな」と言う。レージュを知る者は「今でも一人いる」と言う。しかし、「二人いる」と言う者は、レージュ本人を含め、誰もいないはずだった。


「おしおきはー、嫌ですー」


 彼女は大きな白い翼をはばたかせ、蒼天を北へ泳いでいく。


第一章「半分の天使と赫赫の盗賊王」完

16/09/29 サブタイトル変更「もう一人の天使」→「女中天使」

16/12/27 文章微修正(大筋に変更なし)

17/03/28 文章微修正(大筋に変更なし)

17/07/09 文章微修正(大筋に変更なし)

前へ次へ目次