第二二話 「顔面強打軍師」
アーンゲル大陸暦947年6月22日。この日、蒼天の軍師レージュはデビュ砦を奪還した。
よく晴れた青空の昼下がり、大きく開いたデビュ砦の城門から、ぞろぞろと大量の人間が吐き出されていく。カタストロフ帝国の兵士たちだ。
その様を、瞳が金から青へと変わったレージュは砦の執務室の窓枠に座って眺めていた。
彼女の姿はもう、髪を束ねて無骨な革の胴着を着た蒼天の軍師ではなく、髪留めの赤いリボンを左手に巻いた白いワンピース一枚という天使レージュの姿だ。言うまでもないが、パルファンを吸っている。先ほどからレージュが高価なパルファンを吸いまくっているのはいつものことで、戦闘でクレースを使った後は彼女曰く「だってクレースが欲しいって言うんだもん」とのこと。
レージュの温情により、捕虜となった兵士たちは、油まみれのままほとんど解放された。むろん、武器や鎧・馬などは全て没収されたが、命を失うことだけは回避することができたようだ。レージュは、彼らが近隣の住民を襲わないように最低限の糧食を持たせ、解放する際に鋭く釘を差しておいた。
『あたしの右目は空にある。お前たちの頭上に空がある限り、いつでも見張っているからね』
もはや彼女に逆らおうなどと考える者は一人もおらず、怯えきった子犬のように震えてうなずくだけであった。
レージュのそばに立ち、共に眼下の光景を眺めていた赫赫の髪のヴァンも、自分のパルファンをくわえる。だが自分で火を付けようとはしない。
「にひひ。火をお探しかな」
「ああ、できれば恋人にするように頼む」
「じゃあそっちから来なよ」
レージュはくわえているパルファンを、口元を隠すように右手の人差し指と中指で横から挟んで「にひひ」と笑う。それにつられてヴァンも笑い、お互いの顔をゆっくりと近づけた。
これはマルブルでは有名な建国劇のワンシーンで、初代のマルブル王と天使の少女が仕事を終えて安らいでいるときに行われる仕草である。マルブルの深い仲の男女同士ではこうして火をつけるのが流行っているという。
窓枠に座っているが、レージュの方が圧倒的に背が低いため、ヴァンは覆い被さるように、レージュはヴァンを見上げるようにしてパルファンの先を合わせる。
火が移るまでの数瞬、ヴァンはレージュの青空の瞳を見つめていた。何度見ても美しすぎる瞳だ。火傷の痕が走るレージュの顔に、ヴァンの顔の一文字の傷が重なるように近づく。ヴァンはレージュの青空の瞳を、レージュはヴァンの太陽の瞳を互いに眺める。まさに演劇のような甘美な時間が一瞬流れたが、ヴァンがレージュの美しさに見とれて呼吸をするのを忘れていたのでパルファンの煙で咳き込んでしまう。
「ちょ、バカ、人の顔の前で咳き込むな!」
「す、すまん……ゴホッ!」
「だからあっち向けって!」
レージュに顔を押され、ヴァンは慌ててレージュから離れる。レージュは袖で乱暴に顔を拭く。
「全く……。格好付けるなら最後までしなって」
「いやいや、ついお前の美しさに釘付けになっちまってな。勘弁してくれ」
「そんなお世辞には騙されないよ」
つっけんどんに言うがどこか嬉しそうな顔だ。
そしてにひひとレージュは笑う。
窓から差し込んでくる太陽は少し暑い。北国の夏が近づいてきているのだ。
「ところでいいのか? 捕虜を逃がしちまって」
「いつまでも置いておく訳にはいかないからね。もし彼らを戦場で使うとしても、こっちより人数が多いから、いつ寝返るか分かったもんじゃない。こっちの人数が増えてきたら捕虜も戦場で使うよ。交渉や情報収集に使うとしてもあんなに人数はいらないし、こっちには余分な人数を養うほどの糧食も無い。城主一人と兵士数人がいれば情報は事足りる。ま、あれだけ脅しといたから大人しく国に戻るだろうね。それであたしのメッセージを届けてくれれば良い。もしもまた立ちふさがるっていうのなら容赦はしないけど」
「復讐は果たさないのか」
「なに言ってんのさ。団長が自分の団の掟を忘れちゃ駄目でしょ」
全くその通りだった。彼らはいま武器を持っていない、戦う気も無い。そんな相手の命を奪うのはヴァンの掟に背くことだ。
「だがあれは俺の団での話だ。お前には関係ないだろう」
「臣下は国王陛下の考えには従うものでしょ」
国王陛下。マルブル先王を爺さんと呼び、新王を顎で使う不敬極まる少女の口から、よもやそのような言葉がでてくるとは。
「国王陛下の御為ならば」
「よく言う」
言葉は殊勝だが、足を組んでふんぞり返っているのでは、忠誠心など欠片もない事が分かる。だが、信頼の心は確かに持っている。ヴァンには、そのほうが嬉しかった。
「あたしは命令には従わない。でもその考えには同調する。徒に命を奪うのは自分の品格を汚すことだしね」
生まれたときから傭兵であったレージュだが、人間を殺したことは一度もないと言う。クレースの力をもってすれば、将軍クラスの力は発揮できるだろうが、何故かキメラか古代遺産を相手にした時しか使えないらしい。よって、ただの人間を相手にしたときは何もできずにやられてしまうそうだ。
「例えばここでヴァンがあたしに襲いかかったとしたら、あたしは為す術もなくやられちゃう。精々、大声上げて助けを呼ぶか、逃げ回ることしかできないよ。あとは物投げたりとかね」
「クレースは対古代遺産専用、というわけか」
「そういうこと。城壁の上でも言ったけど、忘れないでよ」
「それなら普通の武器でも持ってみたらどうだ?」
剣は重いだろうが、短剣程度ならレージュにも扱えるはずだ。
「ああ、ダメダメ。オネットに言われたこともあるし、白き翼にいた頃にも色々試してみたけど、全く何にも使えなかった。慣れてないからとか筋肉が無いからとかそんなんじゃなく、あたしは、クレース以外の全ての武器が、一切扱うことができないんだ」
よくわからないといった顔のヴァンを見て、レージュは白いワンピースの裾をはためかせながら、窓から部屋に飛び降りてヴァンに手を差し出す。
「小さな短剣、持ってるでしょ。貸してみ」
ヴァンは胸に隠し持っていた薄い短剣を抜き出してレージュに渡す。一応、見てもわからないように細工して非常用にこっそりと持っていたのだが、何故バレたのだろうか。
レージュは短剣を受け取ると、机の上にある紙を一枚持ち上げる。右手に短剣を持って振りかぶり、左腕は伸ばして指で紙を摘んでいる。
「先に言っておくけど、ふざけているわけじゃないからね。真剣にあたしはこの紙を切ろうとしているからね」
レージュの言ったとおり、彼女は四回短剣を振ったが、紙を切ることはついにできなかった。最初は刃ではなく手が当たり、次は短剣が手からすっぽ抜け、三度目は短剣を落としてしまい、最後は疲れたのか全く力が乗っていなかった。
たった四度短剣を振っただけなのに、レージュの息は切れ、床に座り込んでしまう。
「これで分かった? 普通の武器を使うとこうなっちゃうんだ。原因は分からないけどね」
「よく分かった。しかし不思議なものだな。キメラすら相手にできるレージュが短剣一本扱えんとはな」
「クレースがいるからいいの。それに、あたしの本当の武器はこっちさ」
そう言ってクレースの特等席である輝く金髪の頭をコンコンと叩く。
そう。彼女に腕力など必要ない。その小さな頭に詰まっている知識、そこから紡ぎ出される戦術と戦略は、ただ鍛えた体を奮うよりも、多くの敵の命を奪い、多くの味方の命を救ってきた。
しかし、彼女は殺したいと思って殺したことは無いし、戦争だからしょうがない、やらなきゃやられるなど正当化しようとも思っていない。敵を効率的に排し、味方をより多く救う。そのために殺害が必要ならば、躊躇なく行う。彼女にあるのはそれだけだ。
「その通りだな。レージュはそれでいい。体を使うのは俺たちに任せてくれれば、それでいい」
レージュはにひひと笑って立ち上がり、ヴァンに短剣を返す。そして窓に近づいて城門から吐き出されたカタストロフの兵たちを再び眺める。もうほとんど出て行ったようだ。
「マルブルの事もあいつらが悪いわけじゃない。いや、全く悪くないわけじゃないけどね。あいつらはただ皇帝の命令に従っただけなんだ。あたしが本当に倒すべき相手は他にいるからね」
レージュが無くなった右目のまぶたを指で掻く。
おそらくその相手とはレージュの目と羽を奪った者だろう。名を問おうかと思ったヴァンだが、他人の過去は詮索しない主義なので黙っておいた。その時がきたらレージュの方から教えてくれるだろう。
「さあ、今夜は祝勝の宴だ。それまでに雑務を片づけて、飲んで騒いで明日も頑張ろー」
「おお。そいつは良い。ちゃんとしたマルブル料理を食うのは久しぶりだ」
作戦が成功した時は盛大に祝う。それにより、兵たちの士気は上がるし、きちんと作戦を遂行しようと地獄の調練にも身が入る。飴と鞭を的確に使い分けることは大事だとレージュは言う。
「あ、その前に地下牢に繋がれたフクスの顔でも見に行こうかな」
「まさか目を抉りにいくんじゃないだろうな」
「その通り。晩餐のスープに入れて出汁を取るからね」
「……」
絶対にスープだけは飲まないようにしよう、と心に決めたヴァンだった。
「……冗談だよ。まさか本気にした?」
「いいや」
「あ、嘘ついた」
あまりにもきっぱりと言い切るので、ヴァンは少したじろぐ。
そういえばオンブルが言っていた。レージュは相手の嘘を正確に見抜くと。オンブルがレージュにどんな嘘をついたのか知らないが、ここまではっきりと分かるものなのだろうか。
「なんで本気にするかな」
「城壁の上でそんなことを言っていたからな。あれは本気な目をしていた」
真面目くさって言うヴァンに、レージュは片目でジトっとした眼差しを向ける。
「……あれは脅しに決まってるでしょ。あいつじゃないんだから、人の目を引き抜くなんて、そんな気持ちの悪いことしたくない」
あいつとはレージュの目を抉り取った人物だろう。そいつは、嬉しそうに彼女の目を抉ったというのか。だとしたら、異常な奴だ。
「そうじゃなくって、ちょっと考えがあってね」
「もう次の策を考えてあるのか?」
「あたしの行動には全て意味があると思っていた方が良いよ。それが仮に、祝宴の場であんたが一生懸命皿に盛った料理をあたしが根こそぎ奪っていってもね」
にひひ、と冗談めかして笑って、レージュはひとつ大きなあくびをする。
「どうした、眠いのか」
「いや、そんなことないけど」
左目をこするレージュの顔は、眠いのを我慢する子供のそれだった。
この時、ヴァンは彼女の頭の上にある十字架のサークレット、クレースを見つめていた。
あの戦いの中で、サークレットが弓矢に、そして剣と大盾に変化した。今まで色々な珍品を見てきたヴァンだが、その中に彼女のサークレットほど変わった物は無かった。それも当然だ。あのサークレットは珍品中の珍品、古代遺産なのだから。
「待てよ、クレースが古代遺産なら……」
ヴァンは思い出した。レージュがあの白詰草の夜に宣言したことを。この世界から全ての古代遺産を破棄するとレージュは言った。つまり――。
「クレースも、捨てちまうのか」
少女の一番の親友であるクレースを、彼女は捨てることができるのだろうか。
「……一番最後に、だけどね」
この世界に古代遺産は一つたりともあってはならない。それは、レージュの中にある最も強い思いだ。なぜかは分からないが、それが自分が生きている目的でもある気がする。
たとえ殺されても、古代遺産を消し去るまでは、死んでも死にきれない。
自分の親友であっても、古代遺産である以上、破棄は例外ではない。そうレージュは言う。
「クレースを最後にするのは、なにもあたしのわがままだけじゃない。クレースがいないと――ふあぁ……」
またも大口を開けてあくびをする彼女はひどく疲れているように見えた。
「キメラと戦って疲れたんだろう。古代遺産を使うと精神がすり減ると言われているしな。宴までまだ時間がある。少し眠ったらどうだ」
「いや……眠いんじゃなくて、これは――」
言葉を伝え終える前に、彼女は前屈みになって床に倒れ、顔面を強かにぶつける。鈍い音を発したあと、レージュはピクリとも動かなくなってしまう。
「レージュ!?」
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