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第一八話 「死神軍師」

 空は白み、あとは一日の始まりを告げる太陽が、地平の彼方から顔を出すのを待つのみだ。昨夜の雨もすっかり上がり、今は水たまりを残すだけである。


 さて、訳も分からず叩き起こされて中庭に集められたカタストロフ兵たちは、眠そうな目をこすりながら仲間に何事かと問い掛け合う。頭上の城壁には、先ほどから罵詈雑言ばりぞうごんの唾を飛ばす城主の姿があった。城主が言うには、自分たちの中の誰かが城主を暗殺しようとする計画を立てているらしいのだが、彼らには心当たりは全くない。それも当然だ。暗殺計画書もレージュが仕組んだことであり、それをわざと落としたのもヴァンとオンブルだからだ。もっとも、一部の人間は、本当にその計画が実行されれば良かったのに、とも考えていた。だからこそ、偽の計画書にも信憑性が増すのだ。


 延々と続くかと思われた城主の叫びは、不意に途切れる。下から見上げる兵士たちからは、城主が転けた様に見えたが、その謎を理解する前に、空から何かが降り注ぐ。

 突如、中庭に集った彼らを大量の液体が襲った。液体は次々と上空から降り注ぎ、あげくには空になった樽まで降ってきた。彼らは驚きの声をあげ、充満する臭いからかかった液体の正体を知る。


「油だ!」

「誰がこんなことを!」


 油まみれになった兵たちが騒ぎ始めると、中庭と城内を行き来できる扉が、重厚な音を立てて全て閉まる。押せど引けど叩けど扉は開かず、彼らは中庭に閉じこめられてしまった。


「はーい、注目ー!」


 騒然となる中庭に、城壁の上からよく通る声がかかる。その声は、先ほどまでの城主の汚い声ではなく、鈴が転がるような声だ。

 彼らが城壁を見上げたその時、地平線から黄金の陽光が現れ、赤いリボンが結ばれたレージュの二束の金髪と朝日の瞳を照らしだす。


「やあ、半年ぶりだね。カタストロフ軍さんたち」


 城壁に足をかけ、火のついた松明を振りかざし、天使はいつもの調子で挨拶をする。


「おい、あれは……ああ、神よ!」

「奴は死んだはずじゃ……」

「死神レージュだ!」


 誰もが予期しなかったレージュの登場に、城内は大混乱に陥る。


 彼女がマルブルに勝利を運ぶ女神なら、敵国から見れば自国を敗北へと追い込む死神である。彼女が戦場の空を翔れば、そこにいる何万のカタストロフ軍は死神の手に導かれ、なすすべもなく倒れていった。カタストロフ国が古代遺産でマルブルを焼く直前には、彼女が空を飛んだだけで兵たちは逃げ出したという。


 そんな恐怖の死神も、カタストロフの有する古代遺産の強大な力に屈し、マルブルの王宮と運命を共にした。それが、彼ら一般兵の共通認識だった。そのため、再びあの純白の翼を見る羽目になるとは思わず、理解が追いつかずに浮き足だってしまう。慌てて武器を手に取ろうとする彼らだが、剣も槍も弓も無い。中庭に集まる際、城主に武装を解除させられたからだ。


 死神は死んだ。もう死神の影に怯えなくて良いのだと祖国は言っていた。しかし、彼らの前に立っている現実は非情であった。


「絵画の死神のように鎌でも持って登場すれば良かったかな。でも、あたしが持っているものは、カンバスに描かれた鎌なんかより、もっと確実にあんたたちの命を奪うものだってことはわかるよね」


 松明をこれ見よがしに振ると、城壁に松明を持った男たちが次々と現れる。兵士たちの動揺は一層大きくなる。油にまみれたこの状況で、封鎖された中庭にあの松明たちが落ちてきたら、どうなるかは想像に難くない。


「やめてくれ!」

「残酷すぎる!」


 口々に叫ぶ兵士たちを、レージュは靴の踵を一度踏みならしただけで黙らせる。


「……半年前、あんたらは古代遺産の力を使ってマルブルをどうしたんだっけ? あの美しいマルブルを焼いた自分たちは残酷じゃないとでもいうのか!」


 天使の本気の怒りを初めて見たヴァンは、傷だらけの小鳥のような体から出る獅子の怒りに目を見張った。


「当然、報いを受ける覚悟はあるんだろうね。国を焼くってことは、自分が焼かれる覚悟があるんだよね」


 当たり前だが彼ら一兵卒にそんな覚悟があるわけがない。叱られる子供のように、ただうつむいて震えることしかできない。


「……もうすぐ城門が開く。抵抗せずに外にいる騎士たちに投降したら助けてあげる」


 助けるという言葉に、兵士たちは僅かに安堵する。生きながら焼かれるのだけは絶対に避けたい。


「でも、もしも変なまねしたら……」


 レージュの隻眼の金の瞳が、手に持つ松明の火と一瞬だけ同じ色になる。



「あの日にマルブルで起こったことを、あんたたちで再現するよ」



 マルブルに襲いかかった古代遺産の爪痕を見た兵たちのほとんどは、人知を越えた古代遺産の力の惨たらしさに内蔵がひっくり返り、喉が潰れても神に許しを乞い続けたという。中には精神が壊れた者もいるほどだ。

 恐怖で足がすくみ、失禁しそうになった彼らが取れた唯一の行動は、膝を折り、地に頭をつける事だった。


 その様は、神に許しを乞う哀れな狂信者のようだ。


「おい、馬鹿者共! 何をしている、早く助けんか!」


 オンブルに背後から締め倒され、城壁に叩きつけられて朦朧としていた城主が、先ほどまで疑っていた兵たちに自分を救出するように叫ぶが、彼らはその声を聞こうともしない。彼らは、今ここで最も力を持っている者の声のみを聞いている。みな城壁の上の天使に叩頭しており、完全に戦意を喪失している。

 もはや城内の勝負は完全に決している。


「チェックだよ。フクス」


 振り向きもせずにレージュに名を呼ばれて、城主は肥えた体を強ばらせる。


「な、なぜ私の名前を……」


 マルブルとの戦争時、彼は王都で税をつまみ食いしていた。レージュとはこれが初対面のはずなのに、なぜ彼女は自分の名を知っているのだろうか。


 レージュはゆっくりと左側から振り向き、フクスに向かって歩いてくる。


「流石に一般兵まではわからないけどね、カタストロフの主立った奴の顔と名前は記憶してるよ。この傷のお礼をするためにね」


 失った左の翼と火傷の傷と空虚からの右目を指さしながら、フクスの目の前までたどり着くと、しゃがみ込んで朝日の隻眼でフクスと見つめ合う。


「あんたも同じ姿にしてあげようか。火で焼いて、右目くり抜いて、羽は無いから左足と……ついでに左腕ももいでさ」

「――嫌だ、嫌だ嫌だ! 頼む、止めてくれ! 何でもする! 助けてくれ!」


 先ほどまで強気に兵士をまくし立てていた城主の姿はすでに無く、ここにいるのは処刑台に上がっても無様に命乞いをする男だった。


「だーめ。片目の世界、見せてあげるよ」


 レージュの細い指がフクスの右目に伸び、懇願して泣き叫ぶ涙に触れたその瞬間。上空からキメラが襲来する!

16/12/27 文章微修正(大筋に変更なし)

17/03/28 文章微修正(大筋に変更なし)

17/07/08 文章微修正(大筋に変更なし)

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