秘書と殺しとポケットティッシュ

作者: 筆折作家No.8

 あの日貰ったポケットティッシュを、私はまだ捨てられずにいる。

 優しい貴方がくれた、くしゃくしゃのポケットティッシュを。



 十年前の夏の日。

 とある政治家先生の秘書をしていた私は、仕事で某県の山間部を訪れていた。

 先生の働きかけで計画を止められている、巨大なダムの建設予定地だった。

 そこかしこに見られる『建設反対』を掲げた看板が物々しい雰囲気を醸し出しているけれど、自然豊かで美しい場所だった。


「それで、調査の方は進んでいるのかね」


 先生が白髪混じりの髭を撫でつけながら尋ねた先にいたのが、そう、貴方。

 くたくたのスーツを着た地質調査の担当者、地元村役場の職員だった。


 彼は痩せた頬を掻きながら、先生に調査の進捗を報告する。


「やはり、地盤の方が問題ありそうですね。岩盤は固いのですが、向こうに破砕帯があって、地滑りの危険を否定できないそうです」

「ほう。ではやはり中止にすべきだな!」


 先生はがはは、と高笑いをしていた。


 でも、私は知っている。

 そのデータは工事の中止を既定路線とすべく、わざと重箱の隅をつつくようなことをして作成させたものだった。

 破砕帯なんて、本当は峰を一つ越えた先にある。ダム工事には影響しないはずの場所だった。


「じゃあ、引き続き頼むよ。もしも私の意向に沿わないような調査結果が出たら……わかってるね?」

「ええ、承知しております先生。私にお任せください」


 先生が車の方へと踵を返すのに従い、私も彼に背を向けた。

 三歩歩いたくらいで、背後から小さくため息が漏れ聞こえた気がした。


 ***


 夜になって、私は山の中を走っていた。

 右のパンプスは既に無く、裸足のままで森を駈けていた。


「ハァッ、はぁッ」


 息を切らせながら、私は無我夢中で逃げていた。

 月明かりだけを頼りに、獣道を横切り、沢を飛び越えて、誰にも見つからないように走る。


 ところが。


「きゃあッ!?」


 瞬間、木の根に躓いた私は大きくバランスを崩し、山の斜面を転げ落ちてしまう。

 全身の痛みをこらえながら、なんとか立ち上がろうと試みたその場所は、ダムの予定地へ続く県道だった。


 どうしよう、一般道に出ないように気を付けていたのに。

 焦る私の目の前に、一台の車が現れたのはその時だった。


「あっ」


 ヘッドランプに照らされた私の身体。

 痣だらけ、擦り傷だらけのこの身体の、至る所に真っ赤な血液の飛沫がまとわりついていた。

 一糸纏わぬ上半身を、デコレーションするように。


「あの、大丈夫ですか!」


 車から降りてきたのは、彼だった。

 ダム調査の担当職員である、痩身の男性。


 私は恐怖に震え、歯をカチカチ鳴らし、涙を流した。

 絶対に見つかっては駄目だったのに、こんなにあっさり捕まってしまうなんて、と。


「どうしたんですか、服は! それに、血が……!」

「あ、あ、あ、あの」


 彼は何も知らないみたいだった。

 私を追ってきたというわけではなく、本当にたまたま、そこを通りかかっただけ。


「とりあえず、乗ってください」


 私は彼に促されて、村役場のワゴンに乗り込んだ。



 とりあえず役場の方へ向かうことにした彼は、何があったのかと、運転しながら私に質問を投げかける。

 私ははじめ、それにこたえるのを拒んでいた。

 あまりに恐ろしく、あまりに罪深いことだったから。

 しかし真剣な眼差しで心配をしてくれる彼に、私は遂に嘘が付けなくなった。


「先生に、山道で、襲われたんです。車の中で、行為を迫られて……」

「それで?」


 私は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、なんとか次の言葉を言おうとした。

 だけど、次から次へ溢れてくる感情の雫が、私の証言を引き留めてしまう。


「良かったら、これ、使ってください」


 そう言って、彼がくれたのは使いかけのポケットティッシュ。

 くしゃくしゃに皺の入った、いつ配られたのかもわからないくらいの、宣伝用の粗品だ。


 ──まるで、今の私みたい。

 そう思ったら、不思議と落ち着いた。


「……私、咄嗟に逃げ出そうとしたんです。急いで車の外に出て、助けを呼ぼうとしました。先生はそんな私を後ろから羽交い絞めにして……」


 一呼吸だけ、間を置いた。


「それで、気が付いた時には私、先生を殺してしまっていました。落ちていた石で顔面を殴打して、返り血をたくさん浴びていました。服は、その時には脱がされていたんだと思います。私はパニックになって、山の中へ逃げ込んだんです」

「そう、でしたか」


 彼はそれからしばらく何も言わなかった。

 無言で運転を続け、そして、やがて彼の家の前に車を止めた。


「今日は、泊っていってください。僕の服で良ければ服の替えもありますし、何よりまずは身体を綺麗にしないと」

「ありがとう、ございます」


 私は彼に言われるがままに家の敷居を跨いだ。

 田舎らしい、大きな庭付きの古ぼけた屋敷だ。

 所々で障子がくすんでいるものの、掃除の行き届いた小綺麗な家だった。


 彼は一人暮らしのようだった。

 年齢は三十六歳。恋人に先立たれてから、ずっと一人寂しく過ごしていたらしい。


「部屋だけはたくさんありますから。今日はこちらを使ってください。嫌なことは一旦忘れて、明日また、どうするか考えましょう」


 そう言って、彼は出ていった。


 ──そしてそれが、彼の姿を見た最後だった。



 ***



 翌朝になって、目が覚めた時には彼はどこにもいなかった。

 代わりに食卓の上にはおにぎりが二つ。

 私はそれを食べて彼の帰りを待った。


 だけど、昼過ぎになって家にやって来たのは制服を着た警察官だった。それも、複数人。


 彼に裏切られたんだ──私がそう思った次の瞬間、警察官は信じられないことを言った。


「あなたが彼の恋人ですね。残念ですが、彼には今殺人の容疑がかかっています。少し、署までご同行願えますか」



 ……そう、彼は私を庇って罪を背負ったのだ。

 恋人をレイプされかけたことに激高した彼が、政治家先生を撲殺し、そして私を家に連れて帰って保護をした。

 そういうストーリーになっていた。


 どうして、ほとんど対面したことの無い私なんかを。

 その疑問は、彼の部屋に残されていた一枚の写真を見て氷解する。


 私と、彼の亡くなった恋人は、まるで双子のようによく似ていたんだ。


***


 あれから十年。

 私は罪悪感と共に生きた。

 赤の他人に罪を擦り付けたという十字架を背負って、ただただ懸命に生きた。


 自首をしなかったのは、彼の意思だ。

 まだ量刑が確定する前の時、拘置所から届いた彼の手紙には一言だけが添えられていた。


『君は悪くない』


 もしも私が自首をしたならば、彼の優しさまでを無駄にしたようで、言い出せなかった。

 いっそ全てを打ち明けられたら楽なのに、と思えるくらいに、辛い十年だった。

 馬鹿だよね。無実の罪で刑を受けている彼の方が、何倍だって苦しいはずなのに。


 私は別の政治家先生の秘書として、仕事を続けた。

 趣味も友人関係も全てを切り捨てて、がむしゃらに働いて、金を貯めた。


 そして今、私は刑務所の前で彼の帰りを待っている。

 ポケットティッシュを握りしめ、彼と共にあの田舎の家へ帰ることを望んでいる。


 たぶん、しばらくは仕事をしなくても生きていけるだけの蓄えはあるはずだ。


 十年ぶりに出会う偽りの恋人の姿を目に焼き付けるようにしながら、私はそっと彼に手を差し伸べる。

 二人の間をすり抜けるように、一陣の風が吹く。

 ポケットティッシュは、どこか道路の向こうへと飛んで行ってしまった。

【カテゴリー】

 即興小説

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【お題】

 ポケットティッシュ、秘書


【プロット】

 なし


【執筆時間】

 一時間