空蝉の声が谺する

作者: (=`ω´=)

 読経蝉の鳴き声ばかりがわんわんと鳴り響く、森でのこと。


 亡者の魂がそのまま蝉へと転生して生前の無念を口にし続けているという、そんないい伝えがある。

 あるいは、そこいらを漂っている死者の魂を成仏させるために蝉たちが懸命に読経をしつづけているのだという。

 土地により、伝承されている内容は様々であったが、そのやかましいばかりの蝉の声は不思議と死者に関連づけて語られていることが多い。

 事実、その季節になると耳をろうさんばかりに響きわたるその鳴き声は、折り重なってどこかしら不気味で不吉な思いを聞く者に抱かせるのだった。


 そんな森の中を、血糊が着いたままの鉈をぶら下げてふらふらとさまよい歩いている男がいた。

 頼りのない足取りでふらふらと歩いているその男の粗末な衣服には、ところどころに乾いた返り血らしい汚れが染みついている。

 なにを考えているのか、男の目はうつろだった。

「うるせえな」

 ぼつり、と、男が口を開く。

「蝉、か」

 木洩れ陽さえささない鬱蒼とした森の中を見あげて、目を眇めながら男はそんなことを呟いた。

 顔色が、ひどく悪い。

 病を得ているのか、それとも心を病んでいるのか。

 この暑さの中、顔中を脂汗まみれにしながらも、男は身体中を細かく震わせていた。

 男は力つきたかのように、その場にどっと座り込む。


「もし」

 誰もいないと思い込んでいた森の中、ふいに声をかけられて、男は全身を大きく震わせた。

「だ、誰だ!」

 慌てた様子で立ちあがり、手にしていた血塗れの鉈を声がした方に突き出す。

「そのようなものを突きつけなくても、ほれ、このような今にも折れそうな老いぼれがひとり」

 柔らかい声が、男の耳に届いた。

「大の男であれば、どうとでもできましょう。

 それよりもあなた様は、どうもご加減がすぐれないご様子。

 この先にわたくしの庵がありますから、そこで休んでいくといいでしょう」

「お前、これが見えねえのか!」

 男は、乾いた血がこびりついた鉈を前にも突き出す。

「もちろん、見えますとも。

 せっかくの刃物も、そこまで血に塗れたまま手入れもしないままにしていたのでは、切れ味が鈍るというものですね」

 声の主、小柄な老いた尼僧はそういって小さく笑い声をたてた。

「あなた様は、無精をして道具を粗末にする方なのですね」

「う、うるせえ!」

 男は怒鳴ったが、その声にはどこか力がなかった。

「余計なお世話だ!

 それよりも、その、おれは、今しがた人を殺めてきたばかりなんだぞ!」

「おやまあ、それはそれは」

 男が怒鳴りつけても、尼僧は動じているようには見えなかった。

「なんにせよ、そのままのなりではすぐに誰ぞに見咎められます。

 これからどこへいくにせよ、まずは落ち着いてその身を改めてはいかがでしょうか」

 確かに、男の服は返り血でべっとりと汚れていた。

「その庵とやらにいけば、なにか着るものがあるのか?」

「さて、着物については探してみないことにはなんともいえませんが」

 尼僧は静かな声で答えた。

「すっかり汚れきったその身を清め、心身を休めるることくらいはできるでしょう。

 今から案内をいたしますから、どうぞこちらに」

 そういうと尼僧は男に背をむけて、そのまま森の奥へと歩みだす。

 その場にへたり込んでいた男も、複雑な表情を浮かべたまま起きあがり、尼僧の背後に続いた。


「ここの蝉は、いつもこんなのか?」

「そうですね。

 今頃の季節は、昼もなく夜もなく」

「読経蝉ばかりがこんなに鳴いている場所は、はじめてだ」

「確かに珍しいかもしれません」

 相変わらずわんわんと谺する蝉の声が降る中、尼僧と男とは鬱蒼とした森の中を歩いていく。

「まだ、着かないのか」

 また、男が口を開いた。

「その、庵とやらには」

 男の態度は、沈黙を恐れているようにも見えた。

「まだかと思えばまだ、もうかと思えばもう。

 ほれ、あちらに」

 す、と、尼僧が片手をあげると、その指差す方にずいぶんと古びた小屋が見える。

「あれが庵とやらか」

 男は、呆れたような口調でいった。

「住めるのか、あんな場所に」

「しょせん老いぼれの詫び暮らし、雨露さえ凌げればあとはどうとでもなります」

 尼僧はいった。

「そちらに井戸がございますから、まずはその身を清めておくのがよろしいでしょう。

 その間にわたしは、あなた様で着られるようなものがないか、探してみます」

「お、おう」

 男は素直に頷き、井戸があるとかいう方向へ歩きだす。


 しばらくして、井戸で衣服と体を清めてきた男は下履きひとつの姿で庵の中に入っていった。

「このまま入っていまっていいのか?」

「その前に、こちらで水気を拭っておいてください」

 不意に尼僧が現れてそういったので、男は大きく身震いをした。

 そして乱雑な動作で尼僧の手から手ぬぐいを奪い、大雑把に体についた水気を拭っていく。

「このようなものしかありませんでしたが、こちらが、お召しものになります。

 体に合えばよろしいのですが」

「お、おう」

 戸惑いながらも、男はその着替えも受け取った。

「着替えがすんだら、どうぞこちらへいらしてください。

 なにもございませんが、お茶くらいは用意できます」

「だ、だけどよお」

「今さらどこへと急ぐ身でもありますまい。

 非常のときこそ平常心でいるのが肝心ですよ」

 尼僧は男の言葉を遮るように、そういう。

「できれば、この老いぼれにあなた様がなぜあのような格好で森の中へ入ってきたのか、はなしていってくれませんか?」


 男はそこそこ栄えた場所で、下働きとして長らくある商売に携わっていたという。

 少年時代から長く勤める、上司の信頼も厚く、それなりに未来が開けていた、はずだった。

 しかし、その直属の上司の娘といつの間にかなさぬ仲となり、娘と語らってその関係を認めてもらえるように談判をしたのが、今にして思えば間違いだった。

 それまで温厚な態度で男に接していた上司は、学がないだの田舎者だの、突然口汚く男を責めはじめ、断じて娘との関係は認めないと、そう断じたのだ。

「それだけなら、よかった」

 男はいった。

「これまでずっと辛抱してきたんだ。

 また信じてもらえるようになるまで、何年かけても認めてもらえるように努めてみせますと、そういったときに」

 上司だけではなく、将来を誓い合ったその娘にまで、なんとも冷え切った、侮蔑を含んだ視線で射すくめられた。

「何年もかけて、って」

 娘がいった。

「そのときにわたし、いったいいくつになっていると思うわけ?

 やはりあなたと関係したことは」

 間違いだった。


 その言葉を聞いた瞬間、男は頭の中がすぅっと白くなり、同時に、臓腑がいっぺんに底冷えしたかのように思えた。

 それから先のことは、鮮明にはおぼえてえていない。

 ふらふらと上司の家から出るとそのままあてもなく歩き出し、そこでふと視界の中に鉈が目に入った途端、なにを考えるともなくそれを持ちあげて、そのまま上司の家へと戻った。

 戻ってきた男を見た上司と娘はなにやら騒いでいたが、男は順番に二人が静かになるまで鉈を振るった。

 そして、ふと気づくと。


「この森にいたんだ」

 男は、いった。

「この森は、どこだ?」


「さて、どこなのでしょうかね」

 尼僧が、いった。

「この森は」


 読経蝉の声だけがわんわんと響いている。


「そのおはなし、ひとつだけ腑に落ちないことがあります」

 男の前に茶碗をおいて、尼僧は静かな声でいった。

「あなた様がその二人を害した。

 それはまず間違いのないことでしょう。

 しかし、それだけだったのでしょうか?」

「そ」

 それだけ、とは。

 男は、震える声で応じた。

「他に、なにがあると?」

「他にも、なにも」

 尼僧が、指摘をする。

「他になにもなかったら、なぜにあなた様の体はそこまで血で汚れているのでしょうか?

 先ほど身を清め、服を着替えたばかりですのに」

 なに。

 と、男はぎょっとして視線を落として自分の身なりを改める。

 尼僧がいったとおり、男の、たった今着替えたばかりの白装束はべっとりと鮮血で濡れていた。


「他になにもなかったというのなら、なぜにあなた様の首はそのように赤く裂けているのでしょう?」

 尼僧の声にはっとして、男は自分の首に手を当てる。

 確かに、首に大きな裂け目ができていて、そこからどくどくと生暖かい鮮血がとどめなく流れている感触が、あった。


 男は、自分でも気づかぬうちに悲鳴をあげている。


「あなた様は、その二人を害したときに、揉み合うかなにかして自身も傷を負ったのではありませんか?」

 尼僧の声は、さらに続く。

「自分でも気づかぬうちに、その命を失っていたのでは?」


 唐突に男の悲鳴が止み、

 読経蝉の声だけがわんわんと響いている。


 亡者の魂がそのまま蝉へと転生して生前の無念を口にし続けているという、そんないい伝えがある。

 あるいは、そこいらを漂っている死者の魂を成仏させるために蝉たちが懸命に読経をしつづけているのだという。


「あるいは」

 尼僧の声が続いた。

「このわたくしも、この森も、一切合切すべてが読経蝉の声から生じた夢うつつなのかも知れませぬ」


 読経蝉の声だけがわんわんと響いている。