第77話「三周目〜生前の記憶〜」
神社の本堂の屋根の上から、心乃香はその様子をじっと見ていた。
神社の敷地内であれば、重力を感じないこの体なら、どんな高いところでも行き放題だ。
おまけに誰からも見えず、誰にも声は届かない、お腹も空かない、年をとることもない……まさに『空気人間』。
現実を生きていた頃、夢にまで見た状態だった。
(そして、願わくば――)
「こーのか! 何見てるの?」
黒猫が、心乃香の頭に飛び乗って来た。この黒猫に関しては、さっきのことは例外らしい。恐らく、この世のものではないからだろう。
「あいつー、また来てる! 懲りないなー! 来たって、もう心乃香のことは見えないのに!」
「……そうだね。ねえ、私ってこの先どうなるの?」
「さあ? でもボクと一緒で霊のような、神のようなもんだから……」
黒猫は斗哉を一瞥して、ふんっと鼻を鳴らす。
「『神』は人から忘れられたら、消えるんだ。心乃香のことを覚えてるのは、もうこの世界であいつ一人。あいつが心乃香を忘れれば、きっと成仏できるよ」
はあっと、心乃香は溜め息を吐いた。
「それって、いつなの?」
「……大丈夫。人はすぐ『忘れる』生きものだから。そんなに時間は、掛からないと思うよ。ただ……」
黒猫はスルスルっと、心乃香の膝の上に飛び降りた。
「ボクは心乃香が居なくなっちゃうのは、少し寂しいな……」
心乃香は膝に乗った黒猫の背中を、撫でながら呟いた。
「……ずっと気になってたんだけど、あんたがこんな風になっちゃった『生前の無念の想い』って、何なの?」
黒猫は心乃香の膝の上で、そのまま気持ち良さそうに微睡み始めた。
「……さあ? 生きていた時のことは、あんまり覚えてないんだ。心乃香もいずれ、そうなれるよ……」
そう呟くと、黒猫はスースーと寝息を立て出した。心乃香はやれやれと、黒猫の背中を摩ってやった。
誰からも干渉されることのない、穏やかな日々。何もなさずとも、周りから文句を言われることもない。ただ、存在しているだけで許される。
そういう『モノ』になりたいと思っていた。もう、本の中に逃げなくてもいいんだ。
そして彼さえ忘れてくれれば、この不条理な世界から解放される――
ああ、良かった。これで良かったんだ。
ただ少し、今まで生きて来た街が眼下に広がり、何かが心乃香の目に沁みた。
***
「マサムネ……」
「マサムネ……大好きよ……ずっと」
「ずっと、一緒に……いてね?」
うん。僕も大好きだよ。
ずっと、一緒にいるよ。
そう言ってたのに……言ってたのに……
何で、僕を置いていっちゃったの?
嫌だよ、離れたくないよ……
キヨコ……僕を置いて、行かないで……
置いていかれたくなくて、走った。必死に走ったんだ
でも、キヨコに追いつくことは、できなかった。
――僕を裏切るの? 酷い、酷いよ! ……ずっと一緒だって言ったのに――
もう、二度と彼女に会うことはできない――
目が覚めた時、黒猫は大きな瞳から涙を一粒溢した。
つづく
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