逃げるなら、今しかない。
次の瞬間、天井が目前に崩れ落ちてきた。
──ガァン、ゴオオン!
重たい音を立てて、上階の天井が崩壊した。
ゴオゴオと、炎が揺らめいている。
燃える音が聞こえる。
炎で、行く先は阻まれていた。
炎が、目に染みる。
後ろの道は、既に天井が燃え落ちていて戻ることは出来ない。
目前の道も、今しがた塞がれてしまった。
万事休す、という前世のことわざを思い出した。
パチパチ、ゴウゴウ。
私の瞳に、赤い炎がゆらゆらと揺らめいた。
だんだん呼吸も苦しくなってくる。
ここにいたら、いずれ天井の倒壊に巻き込まれて、私たちは死ぬことになるだろう。
(せっかく……)
せっかく、前世の記憶を取り戻して。
物語の私じゃない人生を生きようと思ったのに。
アマレッタのために、生きようと、そう、決めたのに。
(それでも、だめなの?)
私が、死ぬことは決まっているの?
悪役として盤上に置かれた以上、それ以外の行動を、してはいけないの──?
その時、ピシ、ピシ、とどこからか音が聞こえた。
「──!」
ハッと息を呑んだ直後。
熱気に耐えかねた窓ガラスが高い音を立てて割れた。パリンパリン!とガラス片が飛び散る。
「きゃっ……!」
「お嬢様!!」
縦長の、ステンドグラスを嵌め込んだ窓ガラスだ。
大きさに比例して、飛んでくるガラス片の量も多い。
咄嗟に顔を庇ったが、頬をガラス片が掠めたようで痛みを覚えた。
「痛っ……!」
「ご無事ですか!?」
私兵の彼が、私を呼んだ。
私は、怪我をした頬を咄嗟に抑えた。すると、ぬるりとした感触があった。
血だ。見なくても、わかった。
(……生きてる)
そうだ、私は、まだ、生きてるんだ。
それに今、ここにいるのは私だけではない。
私兵の彼らも一緒なのだ。
ここで、私が諦めてどうするの。
私は、私を呼んだ私兵の彼を振り返り声高に答えた。
「問題ないわ!……みな、聞いて!」
声を張り上げる。
煙が充満して、息を吸う度に喉が痛い。
だけどそれは、私だけではない。
私兵の彼らも同じこと。
「ここに道を開けます!」
「おお……!そッ、ゲホッ……それはつまり、アマレッタ様の稀人としての神秘を使われるということですか!?」
興奮と空気の薄さが原因で噎せたのだろう。
私兵の彼の言葉に頷いて答える。
私の神秘と炎は相性最悪だ。
だけど仕方ない。やるしかない。
「ええ。だけど、私の神秘と炎は相性が悪い……!一時なら道を作れるけれど、長くは持たな──」
「アマレッタ!!」
その時、私の名を呼ぶひとがいた。
背後から名を呼ばれて、咄嗟に振り返る。声は、裏口に通じる道の方向から聞こえた。
天井の崩落で、廊下の道は閉ざされている。瓦礫の向こうから、私を呼ぶ声が聞こえた。
「アマレッタ!そこにいるのか!?」
声は、聞き覚えのないものだった。
だけど、誰でもいい。
ここを出る助けになるのなら。
私は声を張り上げた。背後で、また天井が崩れ落ちたのだろう。崩壊の音が聞こえてきた。
「います!!ここにいます!!」
「──!今、この道を開ける!待っていてくれ!」
(誰……!?王城から救援が寄越されたの……?)
だけど王城も襲撃事件で混乱しているはずだ。であれば、ほかの三大公爵家が……?
(今はどっちでもいい。早くここから出ないと……!)
時間にして、一分にも満たなかっただろう。
徐々に、喉を焼くような、肌を灼くような熱が収まっていく。
「え……?」
「あれ、熱く、ない……?」
私が困惑の声を出すと、背後の彼らも戸惑いを覚えたようだった。それに、この現象は私だけに現れているのではないと知る。
あれだけ燃え盛っていた炎は、みるみるうちに消えていった。……といっても、鎮火したのは進行方向のみだけだけど。
背後は、未だに猛火に包まれている。
前方方向の火が消えて、私たちの行く手を遮っていた瓦礫が、突然退かされた。
視界が開ける。
「……良かった、間に合った」
こころから安堵したような声が聞こえてきた。
顔を上げれば、そこには見慣れない青年がいた。
黄金の髪に、同色の瞳。
背は高い。黒のフードを深く被り、顔が隠れているため分かりにくいが、記憶にはない……と思い。
アマレッタの記憶だけではない。
前世の、物語内にも出てこなかった人物だ。
ますます、疑問を覚える。
私たちは、開けた通路から邸を出ることに成功した。裏口を出た瞬間、また、轟音が響く。
どこかが燃え落ちたようだ。
振り返れば、先程私たちが立ち往生していた場所だった。
(あのまま、あそこにいたら私たちも……)
ほんとうに、危機一髪だった。
死んでもおかしくなかったのだ。
そのことに気がついて、ゾッとする。
外に出ると、既に日は暮れかけていた。
外の空気は清涼で、熱気の中にいたからだろう。その冷たい空気がとても美味しく感じた。
外に出て、ようやく落ち着くと、私は、私たちを助けた男性が気になった。
このひとは、誰なのだろう。
彼は、味方なのだろうか。
私たちを助けてくれたことは確かだ。
だけど、素性が知れない。
彼に気付かれないようにしながらも警戒していると、男性の後ろから、ひょっこりと見覚えのある顔が現れた。
彼を見て、私は声を上げた。
「サイモン様……!」
私と同じ銀の髪に、青の瞳。
くるくるとした癖毛が印象的な彼の名前は、サイモン・ド・ディルッチ。
ディルッチ公爵家の嫡男で、【夏】を司る稀人だ。
(どうして彼がこんなところに……)
私と目が合うと、彼は、ホッとした様子を見せた。
「良かった。無事だったんだね、アマレッタ。後ろの人たちも、大きな怪我はないようだ」
サイモンは私の背後に立つ私兵にちらと視線を向けてから言うと、また私を見た。
その眼差しが、あまりにも真剣だったから、思わず息を呑む。
「突然だけど、アマレッタ。逃げるなら、今しかない」