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安い女だと、思うな

私は、自身の銀の髪をひとつに束ねた。

昔、彼に褒められた自慢の髪だった。



『きみの髪は、月の光を集めて編んだようだね』



あなたがそう言ってくれたから。


何の変哲もないこの髪は、その瞬間から私にとって自慢の髪になった。きっと、あなたはそんな些細なこと覚えていないのだろうけど。


片手で雑にひとつに括り、もう片方の手で短剣を持つ。彼の顔を見ている余裕はなかった。


刃先を髪の束に押し当てる。

ザク、と重たい音がした。


その感触が、何より重たく感じたけれど。

構わず私は、そのまま刃先を進めた。


何回かに分けて短剣に力を込める。


ジャキ、ザキ、ザク、と重たい音が響き、あなたが褒めてくれた銀の髪がハラハラと宙を舞う。



セドリック様の狼狽えた声が、聞こえた。



「アマレッタ……?おい、何してるんだ!!」



彼の怒声が聞こえた直後、手首に痛みを感じた。


彼に手首を弾かれたようで、剣先が手から落ちる。カラン、カラン、と軽やかな音が、場違いにもサロンに響いた。



(──ずいぶん、軽くなった)



それは、長い髪を失ったことによる、物理的な感覚もあるのだろう。


だけど、気持ちが。


こころが、少しだけ、楽になった。



彼に弾かれた手首を撫で摩りながら、私はセドリック様を見た。

彼は、目を見開き、信じられないものを見る目で、私を見ていた。



信じられない、とその顔に、その目に、書いてある。



(……貴族の女が、長髪を失うのは、死を意味する)



昔、城を攻められた女主人が自身の長い髪を切り、従僕に持たせたのが由来だと言われている。


貴族の女が髪を切る。

それは、そのまま自身の死を意味するのだ。


自分が死を悟った時、それも自死を覚悟した時にのみ、貴族の女は髪を切る。


だいたいのひとは、そんなふうに捉えているだろう。


かくいう私も同じで、だからこそ、この手を取った。



『貴族として責務を果たせ』


『貴族なら、政略結婚を受け入れろ』


『貴族なら、これくらいの理不尽は呑み込め』


貴族であることを理由に不条理を強いられるくらいなら。


それなら、いっそのこと私は貴族であることをやめたいと思う。

貴族であるから、そんな不平等も、理不尽も、横暴も、受け入れ、許容しなければならない。




そんなの。


(──そんなの、クソ喰らえですわ!!)



ただのアマレッタ(わたし)であった時ならいざ知らず。

今の私は、前の世を知っているから。前の世の常識を、価値観を知っているから。


今の私が置かれている環境がいかに理不尽で、そして、蜘蛛の糸のように私を縛るものかを、理解している。



貴族なら、自分の人生を捧げなければならない?


自身の幸せを追ってはならない?



(その通りなのよね、きっと。セミュエル国では、それが当然。誰も、疑問視しない程度には、当たり前のこと)



自身の感情を殺し、国として在るべき姿を求め、体裁を取り繕う。

それが、貴族としての姿。

貴族なら、誰もが行う当たり前。


私は、こことは異なる世界観で、こことは違う常識で生まれ、生きた経験があるから。記憶があるからこそ。

それを、吐くほど気持ちが悪いと思う。思って、しまう(・・・)



私は、手に自身の長い髪を持ちながらもセドリック様にハッキリと言った。サロンに、私の声が静かに響いた。



「今、ここで。貴族としてのアマレッタ・ル・バートリーは死にました。以後、死んだものとして扱ってくださって結構です」



「なに、を……馬鹿なことを……」



彼の声は、掠れていた。


よほど衝撃的だったのだろう。


貴族の娘が自ら髪を切り、自分の死を宣言するなど、彼も想像もしていなかったに違いない。


だけど、あなたがそうさせたのだ。


あなたはいずれ、私を殺す。


だから、私は先に自らの死を選んだまでのこと。


髪が顎元あたりまでになって、首が涼しい。


アマレッタとしての人生で、こんなに髪が短いのはそれこそきっと、赤子以来だろう。

清々しくなり、ホッとする。


きっと、私にとって長い髪というのは、人生を縛る呪縛そのものだった。



「私亡き後、どうぞエミリアとお幸せに。あなたはただ、エミリアだけを愛し、慈しめばよろしいのです」



「待って。待ってくれ、アマレッタ。話をしよう。そこまで追い詰めさせて申し訳なかった。だけど、違うんだよ。僕は、きみを追い詰めたいわけじゃない」



セドリック様は、必死に言い募りながら歩み寄ってくる。



(……そうじゃ、ないのに)



ここまで来て、私の言いたいことがなにひとつ、伝わっていない。


私は、自身の境遇を訴えてこんな暴挙に出たのではない。ただ、あなたと決別したかったから。それだけなのだ。



(……長い、付き合いだったはずなのに。あなたはなにひとつ、私のことを分かっていないのね)



それは諦めにも、寂寥にも近しい感情だった。

思ったより、思っていた以上に。


私たちには、過去の思い出に、互いが重ねてきた時間に、認識の差があった。


私は、過去の思い出を──大切なものだ、とそれを支えにして生きてきたけれど。



(あなたにとっては、何の価値もなかった)



それこそ、旧い思い出は色褪せ、意味が失われていくように。



私は、今抱えている気持ちを、ここで捨てることにした。あなたに囚われるのは、想いを縛られるのは、もうやめた。

あなたへの想いも、今までの思い出も、今までの私の気持ちも。



全部捨て去って、それで。


私は、誰のためでもない。


私のために、私が私らしく在るために、生きていきたいと思った。


嫉妬に狂い、ひとを妬むのではなく。

前を見て、生きていくために。



顔を上げる。セドリック様は、いつになく焦った様子だった。

今更、何を言ったところで、何を話したところでもう遅い。



今更。今更、なのだ。



「もう、私に関わらないでください。アマレッタ(わたし)を、私を、利用しないで……!そう簡単に、手のひらで転がせる、安い女だと、思わないで……!!」


きっと、こころからの声だった。


ひび割れ、掠れてしまった私のこころの声は、私の本心は、彼にどれだけ届くだろうか?


届かなくてもいい。



もう、ここでセドリック様とは──。




そう、思った時だった。



──ドタドタドタ!!



扉の向こうから荒々しい足音が聞こえてくる。


(な、なに……!?)


驚いて扉に視線を向けた直後。



バン、と勢いよく音を立て、扉が開いた。

許可も得ずに扉を開けるなど、とんでもない非礼だ。



通常は有り得ないことだけど、そんなことも言っていられないほどの緊急事態が発生したのだろうとすぐに理解する。


現れたのは、公爵家に仕える従僕だった。

彼は、血の気の失せた顔で、私たちに報告した。



「お話中、申し訳ありません!現在、三大公爵邸および、王城が──何者かにより襲撃を受けております!火の手が回っており、ここは危険です!ただちに、ご避難を!」


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