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アマレッタの神秘


オリビアが去って、ようやく私は一息ついた。

ライティングデスクに記した羊皮紙は破り取られてしまったのでふたたび、記憶にある地図を描いた。

時計を見れば、既に日付が変わっている。

早めに就寝した方がいいのは間違いないが、気が早って眠れる気がしない。

仕方なく、私は椅子から立ち上がると窓際へと向かった。


クリム・クライムはセミュエルより一足先に冬入りしていて、夜はぐっと気温が下がる。

窓は内側と外側の気温の変化により結露で濡れていた。蝶番を外し、窓を開ける。


途端、冷えた空気が中に入り込んできた。

室内はストーブがついているので空気も乾燥している。

冷えた空気は、中の乾ききった空気と火照った頬を冷やした。


客室は、中庭が一望できる場所にあった。

窓辺に寄りかかりながら、眼下の庭に視線を向ける。夜なのでなんとなく形がわかる程度だ。


セミュエルと違い、クリム・クライムは自然に季節が巡る。

クリム・クライムでは雪は降るだろうか。

セミュエルはもう、季節を巡らせる儀式を行っただろうか?

そんなことを考えていると、ふと、眼下に人影が見えた。


(……こんな時間に?)


城勤めの人間はみな、とっくに帰宅しているし、城に住む人間だってそのほとんどが就寝中だろう。訝しく思い、人影を覗くとだいぶ小柄──まだ、子供のようだった。


子供が、こんな時間に?


ますます不思議に思う。

その子は、木の幹のすぐ近くに立っていた。なにかを取ろうとしているのか、手を何度も伸ばしている。しかし、背が小さいためか、それとも求めているものが遠くにあるのか、なかなか届かないようだ。


(侍女を呼ぶ?でも……こんな時間だわ。起こすのは申し訳ないし、あの子だって叱られるかもしれない)


中庭で何かを取ろうとしているその人物が誰かまではわからない。それでも、こんな時間に子供が歩いていたら咎められるのは想像にかたくない。

少し悩んだ末、私は椅子の背にかけてあった大判のショールを手に取って、部屋を出た。


見知らぬ国の、深夜の城内だ。

本来ならあまり出歩くべきでは無いのだろうけど、なにかあっても私なら自身の身を守ることは可能だろう。

過信しているわけではないが、必要以上に臆病になることもないと思う。


そろそろと足音を忍ばせて、記憶を辿りながら階段を降りる。外に繋がる回廊に辿り着いた私は、そのまま中庭をめざした。


部屋の中から見るより、中庭はずっと暗かった。しかも、寒い。大判のショールでは足りなかったかもしれない。あまり長居すると、風邪をひいてしまいそうだ。


(ああ、そっか)


髪を切ったから、寒さを感じるのだ。

髪は防寒の役割も果たしてくれていたのだろう。

つい、首筋に触れてしまう。ずっと長髪だったから、気が付かなかった。髪を切るとこんなにも寒いのね……。


(いや、前世でそうだった気がするわ。遠い記憶だから今、思い出したけど)


ロングからショートに変えてすぐの頃は、首元がスースーして落ち着かないものだ。この世界では、十七年髪を伸ばしていたので思い当たらなかった。

そんなことを考えながら慎重に中庭を歩く。

そして、部屋から見えた木の幹の近くに到着すると。


そこには、私の半分ほどの背丈しかない、女の子がいた。


彼女は私に気づかず、変わらず手を伸ばしている。木の幹にピッタリと沿うように体を押し付け、懸命に足を伸ばしていた。


「何をしているの?」


尋ねると、びく、と派手に彼女の肩が跳ねる。

それから、恐る恐る、といったように振り向いた。

ぱっちりとした目の少女だった。着ているものは上質の絹で、シンプルながら上品なデザインのナイトドレス。

その質感と光沢から高級品であることはすぐにわかった。


(この子、まさか)


彼女の正体に思い当たったのと、彼女が叫ぶように言ったのは半ば同時だった。


「お兄様には言わないでっ!」


「え……お兄様、というのは」


どうやら私の勘は当たったらしい。

暗闇なので分かりにくいが、彼女の髪は金色だった。微かな月明かりを浴びて、鈍く光っている。


「リアムお兄様と、サミュエルお兄様……」


やはり、彼女はクリム・クライム王家の娘。王女殿下のようだった。私は、彼女に気付かれないように息を吐く。

こんな時間に、王女が寝室を抜け出して中庭にいることが知れたら、お付きの侍女は間違いなく卒倒することだろう。

私は彼女と目線を合わせるために、地面に膝をついた。

彼女は眉を下げ、必死に言った。


「お願い。誰にも言わないで」


「王女殿下、ここで何を?」


聞くと、彼女は答えを示すように顔を上げた。

私も、同じように彼女の視線を追う。

そして、先程から彼女がどうにかして取ろうとしていたものが目に入る。

それは、薄手のショールだった。

水色のショールが、枝に引っかかっている。


「風に吹かれて、飛んでいってしまったの……」


彼女は困ったように言った。

ショールは高さのある枝に引っかかってしまったらしい。背の高い大人でも届かない位置だ。

私は、ショールを見てから王女殿下に視線を戻す。


「侍女には言いましたか?」


「いいえ。夜に窓を開けていたなんて知られたら、怒られてしまうもの」


不用心だから、夜の寝室では窓を開けてはならないと言い含められているのかもしれない。

彼女は縋るように私を見た。

彼女の瞳には、縋るような期待が篭っている。


「では、少し見てまいります。ですがよろしいですか?今後は、必ず侍女に言わなければなりません。王女殿下は、尊い身の上なのですから」


「……分かったわ」


彼女がかすかに頷いたのを見て、私は木の幹の裏側へと回った。


ずいぶん高い場所に引っかかっているわ……。


木登りなんてしたことがない。

手を伸ばしても届かない位置だし。


考えた私は、ちいさく息を吐いた。

それから、周りを見て──人目がないことを確認するとソッと、木の幹に手をあてた。


この力を使うのは、ずいぶん久しぶりだ。


私の力──私の神秘。

それは、植物に関与する能力。


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