第八話 「ハーフエルフの少女」
エルフか、と問われた少女は慌ててローブのフードを被った。
特に考えてのことではなく咄嗟にそうしてしまったのか、どこかバツの悪い表情になったのがフードの隙間から見て取れる。
数秒して、諦めたように少女はフードを外した。
「助けて頂いて、ありがとうございます」
少女はペコリと頭を下げる。
セミロングの金髪がローブから零れて落ちた。
少女は白い刺繍が施された緑基調の胴衣に、ナイフを差すためのベルトを二本巻きつけた恰好をしていた。キュロットと丈夫そうな革のブーツを身に着けており、その間に垣間見える素肌は白く透き通った色をしている。
白い肌に金色の髪、そして笹のような独特の形状の形の耳。
ランクは分からないが、白エルフ系統の種族だ。
エルフには白と黒の二種類の系統があり、何れも魔術と弓術に優れているという特徴を持つ。育てればどの系統であろうと一通りの攻撃、支援、回復の魔術を覚えることが出来るが、その中でも白エルフは援護と回復に秀でた系統である。
頭を深く下げるエルフと思しき少女に対し、ヘリアンはこっそりと安堵した。
(良かった、言葉が通じる! しかも
ゲーム[タクティクス・クロニクル]では、搭載されている
だがそれとは別に、種族ごとの独自言語もまた存在した。
エルフの場合はエルキス語と、古代エルキス語という二種類の独自言語がある。
ゲームの為にわざわざ作られたオリジナル言語であるそれは、対応する言語スキルが無ければ解読ができず、何を言っているのかプレイヤーに伝わらないという設定があった。
もっとも、白エルフ系統最高ランクの一つ、エンシェントエルフであるエルティナがいるので、仮に助けた彼女が【共通語】を話せなくても、【エルキス語】や【古代エルキス語】のスキルを持つエルティナに翻訳してもらえば意思疎通は可能だったろう。
だがヘリアンにとって、
(……まあ夢だしな、これ。言葉が通じて当然か)
心中で呟く。
まるで誰かに言い訳をしているようだと考えかけてしまい、頭を振ってその思いを追い払う。
「無事で良かった。悲鳴が聞こえたのでな。怪我はないか?」
改めて少女の顔を見ると、エルフらしく整った顔立ちをしていた。
緑色の瞳にどこか優しげな光を宿している一方で、細い上がり眉が芯の強さを感じさせる。またその口元はキュッと引き締められており、優しさの中に鋭さをも併せ持っているように感じられた。
しかし、ヘリアンの目からは、どことなく幼さが抜けきっていないようにも見受けられた。エルフの推定年齢ほどアテにならないものは無いが、仮に外見通りならば中学生か高校生になったばかりの年齢層だろう。
ヘリアンは少女へと、一歩おもむろに歩み寄る。
すると少女は肩を震わせて、歩み寄られた分だけ下がった。
……怯えられている?
何故だろうかと一瞬考えて、ヘリアンは両隣を見て得心した。
リーヴェとエルティナが、明らかに警戒した表情で少女を注視していたからだ。
敵対的――とまでは言わないが、一挙一動も見逃さないというような鋭い視線を向けられれば、助けてくれた相手とはいえ少女が尻込みするのは当然だろう。
「不躾ですまない。彼女たちは、その……旅の仲間でね」
なるべく優しい口調をイメージして話しかける。
中学生の従姉妹がいて慣れていることもあり、王様スタイルよりはまだこちらの方が演じやすかった。
「……旅人?」
「ああ。三人して森を
いや参った、と頭を掻きながら微笑みかける。
スマイルゼロ円の精神ではないが、笑顔は円滑なコミュニケーションを築く上での第一歩であり、基本中の基本だ。
王様スタイルの厳しい表情には自信が無いが、これでも現実世界では優しい親戚のお兄さんである自分だ。年下の子の警戒心を解す笑顔ならば少しばかり自信がある……の、だが。
「…………」
結論。
駄目だった。
駄目駄目だった。
むしろ先程よりも警戒心を強くしたのか、少女は身を庇うようにして、胸元に手を寄せる。
(……だよな。俺の笑顔の価値なんて所詮こんなもんだ……)
思わず地面に『のの字』を書きたくなったが、根性で笑顔を維持する。
僅かに頬が引き
「エルフと人狼、ですか?」
「ん? あ、ああ。右の彼女がエルティナで、左のがリーヴェだ」
「……ご紹介に
「…………」
何故か、自己紹介前に一瞬間があった。
しかもリーヴェは僅かに会釈しただけで名乗りすらしていない。
警戒心が露わに過ぎる二人の態度に、ヘリアンの笑顔が再び引き攣った。
ヘリアンの守護を最優先にしているせいか、少女に対する二人の態度は友好的とは言い難い。リーヴェに至っては、少女に対し『少しでも妙な動きをすれば容赦はしない』みたいなギラついた視線を向けていたりする。
せっかく少女の方から話しかけてくれたと言うのに、これでは台無しだ。
「――申し訳ありません。少々不躾でしたね」
謝罪します、とエルティナは少女に頭を下げた。
人物特徴に【気品】を有するエルティナの所作は洗練されており、腰を折って頭を下げる様にもどことなく優雅さがあった。
その様子を見て、少女は心底驚いたように目を見開く。
そしてエルティナが少女に微笑みかけると、少女の顔に浮かぶ驚きの度合いが更に増した。何やら動揺しているようにも見受けられる。
……もしかして見惚れているのだろうか。
人物特徴に【美人】を所有していることもあり、エルティナは男女ともに人気がある。同族である少女からしても、エルティナは目を奪われる存在なのかもしれない。
……良し。エルティナにぶん投げよう。
ヘリアンはあっさりと、少女の会話相手を従者に押し付けることにした。
正直、ネットでならまだしも現実での社交性はさほど高くない自分だ。ぶっちゃけコミュ力には自信が無い。
それに考えてみれば、自分よりも同族であるエルティナの方が、少女としても話しやすいかもしれない。
さすがに会話の主導権全てをエルティナに与える訳にはいかないが、会話の流れが望ましくない方向に向かった場合は、軌道変更の為に口を挟めばいいだけの話だ。サポート役に徹すれば良い、と考えれば自分でもなんとか出来る気がした。
良し、と気合を入れ直すヘリアン。
その傍らでたおやかな微笑みを浮かべるエルティナは、その場から静々と一歩退いた。
……え? 今なんで後ろに下がったんだ?
「けれど、わたくしと彼女はとある理由により、人と話すのが苦手なのです。
申し訳ありませんが、わたくし達は少々控えさせていただきますね?」
……エルティナさん!?
ヘリアンは思わず左の従者に振り返った。
せっかく会話相手を押し付けられると思ったのに、アッサリと裏切られた。
いや、自分が勝手に期待していただけでエルティナ自身にそんな気は無かったのかもしれないが、期待していた分だけショックが大きい。梯子を外された気分だ。
そしてエルティナの発言を受け、当の少女は再びヘリアンに視線を合わせた。
どうやら完全にロックオンされたらしい。
頬の引き攣りが三割ほど増す。
「彼女たちは……貴方の奴隷ですか?」
「へっ?」
再び少女からの問い掛け。
予想だにしない言葉に素で反応してしまった。
慌てて取り繕う。
「い、いや、彼女たちは旅仲間だ。そんな関係じゃない」
清い関係だ。
いや、主従という関係が清いかどうかは分からないが、少なくとも無理矢理従えているわけではない、筈だ。
「……何故、ハーフエルフの私を助けてくれたのですか?」
警戒心を隠そうともせず、更に一歩下がりながら少女が問い掛けてくる。
「……? 君はハーフエルフなのか?」
「――ッ!」
聞き返すと、少女はあからさまに顔をしかめた。
しまった、と言いたげな反応だ。
言わなくてよいことを言ってしまったという、後悔の表情だった。
ちなみに、ハーフエルフというのはわざわざ説明するまでも無く、エルフと他種族との間に生まれたハーフ種のことだ。
一般的な創作物では人間とエルフの間に生まれた子供のことを指す場合が多い。
しかし[タクティクス・クロニクル]においては少々異なる。
このゲームでは【交配】という
また【交配】は軽々しく行えない。
両親が【転生】出来なくなるというデメリットがあるからだ。
加えて【交配】の掛け合わせによっては成功判定が著しく低くなる。
しかし、成功さえすれば両親の素質を受け継いだ子供が生まれるという大きなメリットがあった。ヘリアンも当然、この機能を活用している。
従って、このゲームではミックスやハーフと言った種族は別段珍しくも無いのである。現に、第七軍団長もこの機能により創られた配下だ。
だが――
「……ええ、そうです。
私はエルフではありません。ハーフエルフです。
助けたことを後悔されますか?」
何故か少女は諦観に似た笑みを見せた。
まるで『エルフと勘違いしたから助けてくれたのでしょう?』とでも言いたげな諦めの表情だった。
そんな少女に、ヘリアンは首を傾げて訊く。
「……何故だ?」
「え?」
「何故、君がハーフエルフなら、助けたことを後悔することに繋がるんだ?」
「……えっ? あ、あれ?」
陰りのある笑みはどこへやら、少女は年相応の表情で戸惑った様子を見せた。
言われてみれば、確かに彼女の耳はエルティナよりも多少短い。他種族の血が混ざっているハーフエルフというなら納得だ。ただそれだけの話である。
しかし、どうやら目の前の少女にとってはそれだけの話ではなかったらしい。
一体ハーフエルフならばどんな問題があるというのか。
「――知れたこと。その者らが
第三者の声がした。
咄嗟に振り向く。
バラバラになった魔獣の
白い肌に長い笹耳。またしてもエルフ種だった。ただし今度は男だ。耳の長さも通常のエルフと同じであり、ハーフエルフではないことが見て取れる。外見年齢は20代後半といったところだろうか。
どうやらリーヴェとエルティナの二人は、随分前から感知していたらしい。
特に驚いた素振りも見せなかった。
しかし一方のヘリアンは、彼が声をかけてくるまでその存在に気付けなかった。
唯一の手がかりである<
ウィンドウは他者から見えない設定になってはいるが、ヘリアンにとっては幾分か視界が遮られることになり、時と場合によっては邪魔になる。
そして少女と話す際に邪魔に感じた為、ヘリアンはウィンドウを非表示にしてしまっていた。
「それにしても貴様ら、只者ではないな。私の猟犬をこうも容易く屠るとは。見たところ、そこのエルフは我らが
「猟犬……。ああ、あの魔獣はアンタの従魔だったのか」
道理で、リーヴェが近づいても逃げなかったわけだ。
あの巨大な山犬モドキでさえリーヴェの前には尻尾を巻いて逃げたが、あの犬型魔獣は逃げる素振りがなかった。それは山犬モドキとは異なり、野良ではなく
「思わぬ獲物がかかったものだ。この辺りは
「
「然り。何だ貴様、とぼけているのではなく本当に知らんのか?」
エルフの男は『無学にも程があるだろう』とでも言いたげな、侮蔑の視線を向けてきた。
「ハーフエルフとは、我ら神と精霊に愛されし貴きエルフと、不純で野蛮な数だけが取り柄の人間との間に生まれ堕ちた種族だ。つまりは、貴きエルフの血に、人間の血が入り混じった“穢れ”の種族というわけだ」
「違います、私たちは穢れの種族ではありません! 人間にもエルフにも良いところはあります。私たちはその両者の間に生まれただけです。穢れた存在などと言われる由縁はありません!」
「戯けたことを。よくもそのような穢らしい口を利く。聞くだけでこちらの耳が腐るわ!」
エルフの男が歯を剥いて答えた。
見目麗しいエルフだろうが、嫌悪感が浮き出た表情は人間と大して変わらず、等しく醜い。
だが、ヘリアンがそれを気に留めることはなかった。いや、それどころではないと表現したほうが正しい。
エルフの男が言った「人間との間に生まれた」という台詞が、ヘリアンに衝撃を与えていたのだ。
その台詞はおかしい。どう考えてもそんな台詞が出てくる筈がない。
何故ならこのゲームには――“人間”という種族のユニットなど
より正確には、
獣人などの亜人種や人型の魔物は比較的多いが、国民は全て魔物に該当する。
人間という種族は[タクティクス・クロニクル]においては特別なものであり、
しかし、男は当然のように、ハーフエルフの親を人間だと断定した。
しかも数が取り柄とまで口にしたということは、多くの人間が存在するということだ。明らかにゲームの設定と乖離している。
……いや、それは今考えるべきことじゃない。
今回の目的は情報収集だ。考察なら後でいくらでも出来る。それに目の前で修羅場が繰り広げられているのに、悠長に悩んでいる場合ではないだろう。
そのように自分を説得したヘリアンは、視線をぶつけ合う少女と男の間に割り込むようにして、問いを放つ。
「アンタは、何故彼女を追ってたんだ?」
「フン。戯れよ。街を落としてやったはいいものの、ドブネズミのように逃げ散った者共がいるのでな。猟犬共の狩りの練習台に使ってやっているというわけだ」
「街を落とした……?」
話がきな臭くなってきた。
「ハーフエルフ共が
「……浄化、というのは」
「知れたこと。穢れた血を祓うということだ」
「血を祓う……まさか、元から住んでたハーフエルフを追い払うということか?」
「……やれやれ。貴様ら人間は、こんなことまで説明せねば伝わらぬのか。ほとほと呆れ返る」
再びの侮蔑の表情。
先程の会話からある程度読み取れたが、やはり人間もエルフの
「悪いが俺達は旅人でね。この辺には初めて来るんだ。このあたりの情勢もよく知らないんで、無知なのは勘弁願いたい」
「ほう? 無知であることを認めるとは、人間にしては殊勝ではないか。他の人間どもは、我らが口を開く度に怒り喚く猿のような奴らばかりだというのに……ああ、旅人といったか。ならば猿は猿にしても、別系統の優れた猿ということか」
……いちいち
しかし、数的不利なこの状況において侮蔑の感情を隠そうともしないということは、それほど自分の実力に自信があるということかもしれない。
だとすれば刺激して敵対するのはまずい。ここは王としても交渉力が試される場だ。何を言われても、怒らず、冷静に対処しなければ……。
「いい加減にしてください! 人間は人間です、猿じゃありません! それに人間にも良い人はいます。森を害すること無く、森と共存する道を選ぶ人間だっているんです。人間を知りもしないで馬鹿にしないでくださいッ!」
「“穢れ”は黙っていろ! 耳が腐ると言っておろうが!」
ヘリアンが自らの気持ちを落ち着けている傍ら、ハーフエルフの少女は痛切な声色で叫んだ。
「だったら……せめて私達を放っておいてください! 私達は森の外れに住んでいるだけじゃないですか! それもこんな……
「――もういい。目的は捕獲だったが限界だ。永遠にその口を黙らせてくれる。我の猟犬を台無しにしてくれたそこの愚物どもと一緒に死ね」
言って、エルフはその手に何かを握り込んだ。
瞳に剣呑な色が混ざる。
「
声とともに、エルフの男は小石のような物を
そう思ったときには突風が巻き起こっていた。
ヘリアンは咄嗟に少女の前に躍り出て、両腕で顔を庇う。
頭の片隅で『何をやっている。死ぬ気か』との自問が聞こえたが、気付いたときには身体が動いてしまっていた。内心後悔するが遅い。
そして目の前に迫る魔力を孕んだ暴風は、無力なヘリアンへと無慈悲に襲いかかり――
「<<
――エルティナの展開した防御魔術により、あっさりと霧散した。
柔らかな蒼色の風がヘリアン達を包み、外部から干渉せんとする一切の現象を砕き散らす。
必殺を確信していたのか、その光景を目にしたエルフが目を剥いた。
「な、に……ッ!?」
「<<
続けざまの詠唱。
エルフの男の足元から太い蔓が急成長し、その四肢を囚える。
そして身動きの取れなくなった男に対し、リーヴェが矢のように飛び出した。
――ちなみに。
この時、エルティナとリーヴェは、他勢力との
理解していたからこそ、決して下手を打つまいと、交渉には一切介入せず見守っていた。そしてヘリアンの命令が下らない限りは現状維持に努めようとし、エルフの口から垂れ流された主への不敬な言動にも我慢した。
他ならぬ主が、聞くに堪えない罵詈雑言に耐えながら情報収集をしようとしているのだ。自分たちが感情に任せて力を振るい、それを台無しにしていい筈も無い。
だから我慢した。我慢に我慢を重ねた。
リーヴェは喉元にまで迫り上がってきた攻撃衝動を抑え込み、エルティナは笑顔の下に敵意と嫌悪感を隠した。
だが、相手が
自らの主人に対し攻撃を加えてきた“敵”を許せる筈も無い。
攻撃された以上、主人が屈辱に耐えながら続けていた交渉も決裂したと見ていいだろう。
――つまりは、もう我慢をする理由がない。
故に、エルティナの魔術によって行動の自由が奪われた“
「――待て!」
主の制止の声。
飛びかかっていたリーヴェは咄嗟にブレーキをかける。致死の拳は男の顔面に到達する直前にどうにか停止した。しかし拳が巻き込んだ大気が風圧となって、男の長髪を滅茶苦茶に掻き乱す。
風が止んだ後には、何が起こったのかも判っていないような、男の間抜けた表情があった。
(……やばかった)
ヘリアンは内心で胸を撫で下ろす。
一瞬でも制止の声が遅れていたら男は死んでいただろう。
防御力がどの程度か分からないが、エルフは頑丈さに優れている種族ではない。
先程の魔術の威力から察した力量としては、対単体戦闘において屈指の攻撃力を誇るリーヴェの拳を食らって無事でいられるとは到底思えない。いきなり他勢力の者を殺すところだった。
「は? な、なんだこれは? 今、なにが……」
「――おい」
死にかけた、という事実を未だ呑み込めていない様子の男に対し、ヘリアンは告げる。
意図せず、自分で思ったよりも低くドスの利いた声になった。
「今のは見逃してやる。我々はそちらと敵対する意図はない。仕掛けてきたのはそちらで、我々はただ降りかかる火の粉を払っただけだ。いいな?」
エルティナは主の意思に応じて、エルフの四肢を縛っていた蔦を解いた。
しかし、エルフの男は未だ状況を理解できていないのか、困惑した表情を一行に向けたままだった。
「な、なに?」
「見逃してやると言っている。失せろ」
ヘリアンは鷹揚に顎をしゃくって、明後日の方向を指す。
リーヴェとエルティナに見られている以上、下手に出て『戦う意思はありません。お願いですから退いてください』などとは口が裂けても言えない。目の前のエルフよりも、連れてきた軍団長達に軽んじられる方が遥かに怖かった。
しかも、二人は今も剣呑な空気を発している。
それが向けられているのは目の前のエルフであって自分ではないのだと分かってはいても、怖いものは怖い。一刻も早くこの緊迫した状況をなんとかしたい。
[タクティクス・クロニクル]では、このような剣呑な空気などは表現されなかった。表現できるわけもない。だがそれが今や圧倒的な現実感を帯びて此処にある。
先程の従魔退治の時といい、暴力が実際に行使されているという状況は、生まれてこの方一度も人を殴ったことさえ無いヘリアンには刺激が強すぎた。
有り体に言えば、ヘリアンは現実感が有りすぎる“暴力”の前に、完全に腰が引けていたのだった。
「き、貴様……たかが人間のくせに誰に向かって口を利いている! 私は栄えあるノーブルウッドの狩人長――」
「お前が誰かなど興味が無い。もう一度言う、失せろ。それとも本気で事を構える気か?」
「……クッ」
男は怒りに顔を紅潮させたが、戦っても敵わないという
思わず、ホッと安堵の息を吐く。
「あの……」
そして、背から差し込まれた幼さの残る声にヘリアンは硬直した。
「……おかげ様で助かりました。ありがとうございます」
「あ、ああ。無事で良かった」
振り向いた先には、助けたハーフエルフの少女の姿がある。
……しまった。
彼女の存在が完全に意識から抜け落ちていた。
まるでヘリアンが、リーヴェ達の上位者であるかのような振る舞いを晒してしまった。
咄嗟に名乗った旅人設定がこれでは台無しに……いや、まだなんとかなる。二人が護衛担当で、自分が交渉担当なんだと説明すれば誤魔化せるかもしれない。
そうするとヘリアンのポジションが『二人の女性に守られている軟弱男』というなんとも情けないことになってしまうが、この場を乗り切れるならプライドとかもうどうでもいい。だから頼むから誤魔化されてくれ。
「じ、実は彼女らは腕利きの護衛でね。情けないことに、腕に自信の無い私はもっぱら交渉とか雑用係なんだ、ハハ……」
……え、笑顔だ。笑顔と勢いで誤魔化せ。
いやしかし、さっきは同じような事をして失敗したんだった。
だが立て続けのイベントでオーバーヒート気味の頭では代案も思いつかない。
な、なにかいい手は……。
「プッ……アハ、アハハハッ」
ヘリアンが額に汗をかき始めたところで、唐突にハーフエルフの少女が笑いだした。
それも先程までの能面のような表情とは裏腹に、年齢相応の子供のような笑顔でひたすら
「アハハッ、フフ、ゴ、ゴメンナサイ……。だって、エルフにはあんな強気だった人が、ハーフエルフの私なんかに困ってるだなんて、なんだか可笑しくって、フフ」
息も絶え絶えにそんなことを言ってくれる。
……いや、たしかにちょっとばかり言い訳がましかったかもしれないが、こんな中学生みたいな少女に内心が見透かされたというのはショックだった。
立て続けの精神ダメージに、しばし打ちひしがれる。
散々笑ってスッキリしたのか、晴れやかな顔で少女は口を開いた。
「失礼しました。それと、無理しなくていいですよ。さっきのエルフに対して言ってたみたいに、普通に喋ってくれて構いません」
……いや、そっちの方が演技なんだが。
むしろ王様スタイルよりは近所のお兄さんスタイルの方が、まだしも自分のデフォルトに近い。
(って、あれ? これってもしかして……俺はこの子の前でも王様スタイルに寄せて、かつ旅人設定で喋らなきゃいけなくなったってことか……?)
明らかに難易度が増した気がしてならない。いい加減に泣きたくなった。
少女が普通に喋ってくれるようになったことだけが、せめてもの救いだ。
散々笑ってくれたお陰か、随分と警戒心を解いてくれたように思えるので怪我の功名ということにする。そうでも思わないとやってられない。
「私はレイファと申します。二度も助けて頂いて本当にありがとうございました」
「いや、気にすることはない。襲われていたのを見かけたから咄嗟に助けただけの話だ。それに、二度目は私達に降りかかる火の粉を払っただけなのだから、君が礼を言うようなことではない」
「いえ。そうだとしても、助けて頂いたことに変わりはありません。ですので、御礼を言わせてください」
少女はペコリと頭を下げる。
一纏めに括っていた金髪が尻尾のように跳ねた。
「それと、助けて頂いておいて失礼ですが、一つお願いがあります」
「む……? 何だ?」
ヘリアンは頭の中で身構える。
先程のエルフと彼女の関係は、少し話をしただけでも相当に厄介そうだと窺い知れた。簡単に言ってしまえば、種族間の差別を原因とする侵略戦争の真っ只中のようだが、事はそう簡単な話ではないだろう。
そこへの頼み事。
恐らく、リーヴェとエルティナの戦闘力を見込んでの協力依頼だろうということは容易に想像出来る。都市を落とされたかというからには、奪還の為の戦力になるのなら、猫の手も借りたい状況に違いない。
だが、軽はずみに手は貸せない。
先程のエルフは恐らく斥候役で、つまり戦闘がメインの役割ではなかったのだろう。なにせ大した実力者でもなかった。だが、本陣のエルフはどう考えても、先程のエルフより高い戦闘力を持っているに違いない。
ましてや敵の数も分からない状況だ。
規模は。装備は。練度は。技術レベルは。
何もかも判らず、どの程度の戦力を所持しているのか見当がつかない限り、この問題に首を突っ込む訳にはいかない。
困っている人に、なるべく手を差し伸べたい気持ちはあるが、国王であるヘリアンはあくまで自国を優先しなければいけない。
自国の
故にヘリアンは、協力要請を
「貴方のお名前を教えて頂けますか?」
――呆気に取られた。
虚を突かれた思いがした。
ヘリアンは口を利くことも出来ず、しばし立ち尽くす。
(……間抜けか、俺は)
自覚するのは猛烈な羞恥の感情だ。
言われてみれば、リーヴェとエルティナの紹介はしたものの、ヘリアン自身は名乗ることさえしていなかった。間抜けにも程がある。
そんな体たらくで、何が笑顔はコミュニケーションの基本だ。
何が交渉役だ。
何が迂闊な返事は出来ないだ。
初対面の相手に対する最低限の礼儀すらこなせていない分際で、よくもまあ問題事に首を突っ込むことへの警戒や保身などを考えたものである。目の前の少女は、そんなこと欠片も考えていなかったというのに、邪推した結果がこれだ。
本気で落ち込み、ひと仕切り自分自身を内心で罵倒したが、その間もハーフエルフの少女はただじっと待ってくれていた。
毒気を抜かれたヘリアンは苦笑を零して、少女に向けて右手をスッと差し出す。
「名乗りが遅れてすまない。ヘリアンだ」
自然体で名乗れたと思う。
転移してから以降、初めて自然に話せた気がした。
「改めまして、レイファです」
握り返される手。
ハーフエルフの少女――レイファの顔には、よく似合う微笑みが浮かんでいた。