第十一話 「小城の一室にて」
ラテストウッドの女官長を務めるウェンリは、小城の廊下を進んでいた。
女王レイファからの呼び出しを受けてのことだ。
すれ違う女官たちと挨拶を交わしつつ、足早に目的地へと足を進める。
やがて行き着いた一室、女王の執務室の前でウェンリは立ち止まり、呼吸を整えてから木造りの扉を叩いた。
「レイファ様、女官長ウェンリです。お呼びと聞いて罷り越しました」
扉の中から入室を許可する旨が返る。主人たるレイファの声だ。ウェンリは「失礼いたします」と一言を挟んだ後、扉を押し開く。
「ご苦労さまです、ウェンリ」
書類の山の向こう側、執務椅子に座したレイファはそう言って彼女を出迎えた。
激動の日々とあって相当な仕事量のはずだが、表情に疲労の色は見えない。元教育係である自分の前では時折素の表情を見せることもあったレイファだが、今は女王として自身を律してるようだった。つまりは、それなり以上に重要な案件で呼ばれたということだ。
ウェンリは労いの言葉に一礼で応じ、続く主人からの声を待つ。
「貴方を呼んだのは他でもありません。先ほど、カミーラ殿が本国から戻られたとの連絡がありました。恐らくは例の一件についてのお話でしょう」
「例の一件と申しますと……ノーブルウッドについてでしょうか」
ノーブルウッドは先日まで、アルキマイラの手勢により『先遣隊は順調に作戦を遂行中である』という情報操作を受けていた。しかし、アルキマイラの手勢は本国からの指示により伏せていた情報を一部開示し、それによるノーブルウッドの動きを監視する状態に移っていたはずだ。その結果が出たということだろう。
「ええ。他にロビン殿とリリファも呼んでいます。じきに来ることでしょう」
「承知いたしました、レイファ様。では詳しい話については、お二人やカミーラ殿が来られてからということに――」
「――妾ならここにおるぞ? 戦士長殿」
背後で唐突に生じた声に、ウェンリはビクリと肩を跳ね上げた。
激しく鼓動を打ち鳴らす胸に手を当てて振り返れば、そこには紫色の髪をした一人の女性の姿がある。
「カ、カミーラ殿……」
「うむ。ノーブルウッドの連絡員を捕縛した時以来じゃの、戦士長殿。いや、今は女官長殿と呼ぶべきであったか」
妖艶な出で立ちをした女性、カミーラはそう言って妖しげな笑みを零した。
異性からすれば蠱惑的に見えたであろうソレは、しかし今のウェンリからすれば小鼠を前にした猫のように映っていた。
荒れた心拍を懸命に宥めつつ、ウェンリは返答を口にする。
「は、はい。久方ぶりです、カミーラ殿。……い、いつからそこに?」
「今しがたじゃ。ノックはしたのじゃが、生憎聞こえなかったようでな。驚かせてしまったかの?」
そんな馬鹿な、とウェンリは思った。周囲では工事の音や雑音が生じているものの、扉を叩く音に気づけぬほどとは思えない。ましてや自分たちはハーフとはいえ聴力に優れたエルフ種だ。聞き逃したはずはない、という強い疑念を彼女は生む。
「いえ。私の耳には確かに聞こえておりました、カミーラ殿。本国より戻られたばかりだというのに、わざわざ足を運んでいただきありがとうございます」
しかし戸惑うウェンリを他所に、レイファは平然と答えてみせた。実際にはノックなどしていないにも拘らず、彼女の表情には些かの動揺も見受けられない。
その見事な切り返しにカミーラは「ほぅ」と心の中で呟き、レイファと視線を合わせる。
「そうかそうか。だがしかし、女官長殿の耳に入らなかったということは妾にも不手際があったのやもしれん。承諾の意を得る前に入室したのは確かだしの」
「平時ならいざしらず、急を要する事態ならばそういったこともあるでしょう。十全な礼節より迅速な行動が尊ばれる場面は時として多々生ずるもの。これもまた、そのうちの一つと心得ております」
「ふむ……理解ある応対に感謝を示そうぞ、女王陛下」
「恐縮です」
表向き、女王レイファとアルキマイラの軍団長の関係はほぼ対等とされている。
そして他でもないヘリアンがレイファのことを認めていることもあり、カミーラとしてもそれなりに敬意を払う対象として認識していた。
今しがたの応酬に関しても立場を弁えつつ言うべきことは口にするあたり、同盟国の指導者として満足のいく内容である。
(……なるほど、未熟ながらも才覚はあるわけじゃな。故にこそ我が君も認めたわけか。僅か二日……数時間にも満たぬ会話でそれを見抜いていたとは、さすがは我が君)
主人の慧眼を讃えつつ、カミーラはレイファの評価を一段階上げることにした。
「姉様、来たよ―。……あっ、カミーラ様」
「おぉ、妹御ではないか。元気にしておったかの?」
ノックと共に姿を見せたのは、レイファの妹であるリリファ王女だ。
カミーラが親しげに語りかけると、リリファは満面の笑顔で答えた。
「うん! アルキマイラの人たちのおかげで美味しいご飯が食べられるから、みんな元気だよ」
「そうかそうか、それは何よりじゃ。困ったことがあれば妾に言うといい。妹御の頼みとあらば、妾に許された裁量内で可能な限り応えようではないか」
にこやかに応じたカミーラは、ああそうそう、と懐から小袋を取り出した。
中に入っているのはアルキマイラから持参した茶菓子の詰め合わせだ。
事前のリサーチにより判明したリリファの好みに合わせ、果物がふんだんに使われた
「本国からの土産じゃ。他に、我が君が好んでいる茶葉も取り寄せておいた。以前の会合でも手土産に持たされていたと耳にしたゆえな」
「わー、本当に!? ありがとうカミーラ様!」
ニパッと笑顔を浮かべて礼を言うリリファに対し、カミーラは目を細くした微笑みで応じ、その頭を撫でた。
この二人は何故か仲がいい。ラテストウッドに住まう住民のうち、もっともカミーラと親しくしているのは他ならぬリリファだった。
しかも会う度に距離感を縮めているらしく、当初は「はい」と答えていたリリファも今や「うん」などと言葉遣いを崩している。そしてカミーラもそれを許すどころか、肯定的に受け止めている節があった。
リリファがラテストウッドの王女であり、カミーラがアルキマイラの幹部である軍団長という立場を考慮すれば、両者が親しくしている事実はラテストウッドにとって歓迎すべきものである。しかし、傍から眺めているウェンリはそこに危機感のような感情を覚えずにはいられなかった。
何故ならウェンリは知っていた。目の前で
それを思い知らされたのは、同盟を結んでから数日後の出来事。心話が途絶えた先遣隊に接触を図るべく、ノーブルウッド本国から差し向けられた連絡員を捕縛した時のことだ。
「思ったよりも早く釣れたの。我が君に良い報告ができそうじゃ」
不可視の束縛を受け、罵詈雑言を発しながら足掻いている
そもそもラテストウッドは他国家との交流が無い状態――国として認められず諸国からはほぼ無視されていた――が続いていた為、自国民とたまに訪れてくる冒険者を除けば知っている顔など殆ど無かったからだ。ましてやハーフエルフを忌み嫌い、接触すら厭うノーブルウッドのエルフとなれば尚更である。
「そうか、無駄足を踏ませたの。では妾流で情報を引き出すとするか」
言うなり、カミーラは唐突にエルフの胸に左手を突き込み、無造作にまさぐりだした。
不思議なことに血が吹き出るようなことはなく、接触面は小石を投げ込まれた水面のように波紋が浮かぶだけだったが、当のエルフは一瞬呆けた表情になった後、その様を直視するなり致命的な悪寒に身を震わせた。
それからのことは思い出したくもない。
連絡員はエルフ種らしい端正な顔立ちを苦悶に歪め、この世のものとは思えない絶叫を吐き出し始めたのだ。両の瞳を血走らせ、口端から泡を零し、頭をデタラメに振って狂乱する様は今も目に焼き付いている。
やがて左胸から腕を引き抜いたカミーラは、懐から取り出した布で、汚いものでも触れたかのように手を拭った。そして放り捨てた布を魔術と思しき黒炎で灰にするなり、顔面を蒼白にしたウェンリにこう言ったのだ。
「体に訊くより魂に訊いた方が早いでな。体と違って早々に壊れてしまうのが難点じゃが、壊れるまでの間は嘘偽りのない情報が引き出せる。妾はこの手の
三日月に似た不吉な笑み。連絡員の断末魔はいつの間にか止まっていた。カミーラは抜け殻と化した連絡員の体に触れ、何らかの術式を唱え始める。連絡員はしばらくの間びくびくと痙攣していたが、やがて術式が完成するなり何事もなかったかのように立ち上がった。
血涙や脂汗、涎などといった様々な液体で汚れていた顔を配下の一人が拭い、治癒術式を施す。そうして元の端正な顔立ちを取り戻した
「後は事前の打ち合わせ通りじゃ。言うまでもないがこれは王命、我が君からの直々の命令である。失態は断じて許されん。万が一にも彼奴らに勘付かれるようなことがあれば、妾によって
「承知いたしました、カミーラ様」
拝命の言葉を唱和した悪魔は、幻のように姿を消した。
そして堂々とした足取りで本国へと戻っていく連絡員の後に続き、森の奥へと去っていく。
その後、面白い情報が手に入ったと嘯くカミーラから「この後食事でも如何かな、戦士長殿?」と誘われたが、ウェンリは必死に固辞した。アレを見せつけられた後に食事を摂ることなど考えられなかったし、何より目の前の悪魔とこれ以上二人きりで居ることに耐えられなかったからだ。
逃げ帰るように小城の自室に戻った彼女だったが、その日は一睡もすることはできなかった。
そんな一幕を見せつけられたウェンリだからこそ、カミーラに抱く恐怖心は今も根強い。アルキマイラの魔物に対し偏見の目は捨てるようにと自身を戒めていたウェンリだったが、さすがにアレを見て恐怖を覚えるなというのは無理難題に過ぎた。自然、リリファと親しげにしている様子にも、本性を知るウェンリとしてはハラハラとした思いを抱かずにはいられない。
「やーはー! お呼びと聞いてボク登場! おはよう諸君、女王様!」
そこへ、最後の参加者であるロビンが扉を勢いよく開いて現れた。
気安い言動どころかノックさえせずに入室してきたロビンに、カミーラは撫でていた掌を離し柳眉を歪ませる。
「ロビン……ヌシも軍団長ならノックぐらいはせんか。そもそも何がおはようじゃ。とうに昼は過ぎとるぞ」
「あ、ホントに? いやー、リー姉からの注文で装備造りに没頭しちゃっててさー。おかげで徹夜しちゃったよ」
「リーヴェからの? ……あやつは我が君から直々に装備を下賜されているじゃろうに」
「いや、そういうのじゃなくて遠征専用の偽装防具が欲しいんだって。普段は大したことない一般的な衣装だけど、いざというときには偽装解いてそれなりの性能を発揮できる防具をご所望だとか。こんなの今までにない注文だったからさ、ついノリノリで取り組んじゃったよボク」
いやーいい仕事したなあ、と言わんばかりに彼は掻いてもない額の汗を拭う。
事実、先の一件で防具を損傷しギリギリの勝利を収めていたリーヴェは、今後の国外活動に関して危機感を抱き、職人の第一人者たるロビンに注文を行っていたのだった。
色々と問題児なロビンだが、その技術力は確かなもので、各軍団の上位者の多くが彼の手による作品を装備している。
しかしながら本人が気分屋で、作りたいモノしか作らないというスタンスを公言して憚らないのだが、今回は幸いにも彼の琴線に触れる注文だったらしい。
そうして時間も忘れて意気揚々と製作に取り組んだ結果、他の参加者から一歩遅れての登場と相成ったというわけだ。
「まったくヌシという奴は……ああ、もういい。こんなことで時間を無駄にするわけにはいかんからの」
カミーラは溜息一つで意識を切り替え、レイファへと顔を向けた。
レイファは既に席を立ち、机を回り込んでカミーラと対峙する位置にある。
そんな彼女の背後にはさりげなく移動したウェンリが控えていた。
先ほどまでカミーラと親しげに談笑していたリリファもまた、王女として意識を切り替え、姉であるレイファの脇で静かに佇んでいる。
「役者も揃うたゆえ、本題に移るとしよう。我が君からの伝言じゃ」
「拝聴致します」
レイファはサッとその場に跪いた。ウェンリとリリファもまた同様の姿勢である。カミーラが今から述べるであろう言葉が、王の代理人としてのそれだと理解したが為の行動だ。
十分な礼節を示す三者に対し、カミーラは鷹揚に頷くと共に続く言葉を口にする。
「不穏な動きを見せる隣国ノーブルウッドに対し最大限の警戒を行うと共に、最終勧告を兼ねた使者を送ることを提案する。――以上じゃ」
顔を上げたレイファに対し、カミーラは悠然と語りかけた。
「我が君はお優しいでな。結果は分かりきっていようとも、使者を出すことを望まれておる。無論、使者には妾の軍団から選出した兵を密かに帯同させ、彼奴らが無法を働いた際には傷一つなく連れ帰ることを約束しよう。〝アルキマイラの耳〟の称号に懸けて、の」
「ヘリアン様のご意向、確かに承知いたしました。我が方としても異論はありません。すぐに家臣の中から使者を選出し、準備を整えさせます」
「うむ。だが使者とノーブルウッドとの交渉が決裂した場合、行き着く結末は一つしか残されておらぬ。覚悟はできておろうな、レイファ=リム=ラテストウッド女王陛下?」
十中八九――否、確実に訪れるであろうその結末を思い、カミーラは強い眼差しでレイファを射抜いた。
若き女王は毅然とした態度でその視線を受け止める。
「勿論です。至らぬ身ではありますが、来たるべき時に備えて日々を過ごして参りました。覚悟はとうに済ませております」
「よき返答じゃ。我が君も喜ばれるであろう」
うむうむ、と満足げに頷いたカミーラは詳細な話に移ろうとする。
しかしレイファの背後で静観していたウェンリは、胸の内に一抹の不安を抱いていた。
その原因は唯一つ。カミーラの隣で暇そうにしている小人の少年である。
事前に聞かされた計画によれば、今回の一件で彼は重要な任を担っていると知らされていた。そもそも彼がラテストウッドに派遣されたこととて、ノーブルウッドとの一戦を見越してのことだとも。
だが、派遣されてきた彼は毎日くだらない悪戯をするばかりで、威厳のようなものは欠片も無い。先ほどの会話からして、そして曲がりなりにも職人集団の長を任されていることから優れた技術力を有しているのは確からしいが、荒事においてそれが役に立つとは思えなかった。
事実、ロビンは部下であるメルツェルにあっさりと捕縛され、彼が軽々と運んでいた建材を持ち上げることすらできない有り様だった。下手すれば自分でも勝ててしまうのではないかと訝しんでしまう程である。
そんなロビンが、今回の一件で重要な役割を託されているという。彼の悪戯に翻弄され続けてきたウェンリとしては、憂いの感情を覚えずにはいられなかった。
「如何した、女官長殿?」
物思いに耽っていると、不意に問い掛けが飛んできた。ウェンリはハッと顔を上げ、声の主に視線を向ける。
「随分と曇った表情をしておるではないか。……まさかとは思うが、我が君が立てた計画に不満でもお有りかの?」
氷柱のような鋭さで詰問の声が挿し込まれた。
言いようもない怖気を背筋に感じながら、ウェンリはカミーラに返答する。
「い、いえ。まさか、そのようなことは……」
どうにか言葉を紡ぐが、ウェンリを貫く視線は納得の色を見せない。
それどころか、カミーラの紅い瞳には剣呑な輝きが灯っていた。
「ああ。そういえばヌシは、以前にも我が君に物申しておったの。対話を求める我が君に対し弓を引いたばかりか、なにかにつけてちょっかいをかけてくれたのを妾はよぅく覚えておる。――よいぞ、申してみよ。今此処で。妾の前で」
嘲笑うかのような口調で問われたウェンリは、恐怖のあまり声も出さずに硬直した。手足をカタカタと震わせる彼女の様子は、誰が見ても怯え竦む被食者のそれだったが、カミーラは瞳に篭める力を緩めようとはしない。
何故ならカミーラは覚えていた。自分を連れた王がこの国の集落を再訪した際、有無を言わさず矢を放ってきた不埒者のことを。そして対話を求める王に対し、自らの主人たる女王に諌められながら、それでも尚三度目の矢を放とうとした忌々しい一人の女のことを、深く記憶に刻み込んでいた。
同盟を結ぶにあたり、それまでの不幸は水に流せと王に言われている。また新たな隣人に対して無法を働く者は、それが誰であろうが処罰すると固く禁じられてもいた。そうと命じられている以上、カミーラはラテストウッドの民であるウェンリに手出しをすることはできない。
だがしかし、対象がアルキマイラにとって害悪な存在だと証明できれば話は別である。それはもはや親しき隣人ではなく、反逆者として扱うことができるからだ。
もしも目の前の女から叛意の言葉を引き出せたならその瞬間、躊躇いもなくこの手で――
「はーい、そこまで」
そんな一言と共に、対峙する二人の間にロビンが体を挟んだ。途端、一触即発だった部屋の空気が弛緩する。
「それ以上はダメだよ、カミィ。ウェンリが困ってるじゃない。過去のあれこれについては王様が許すって言ってたんだから、それをボクらが蒸し返すのは違うでしょ?」
ね? とロビンが小首を傾げてカミーラに問うと、彼女は僅かに顔をしかめた。
続いてロビンは「ウェンリも、もう王様を攻撃したりはしないでしょ?」と問いかける。ウェンリは一も二もなく、ガクガクと首を縦に振った。
害意がないことを示されてしまった以上、この場で追及しても意味がない。それどころか己の立場を危うくするだけだろう。千載一遇の好機を逃したことを悟ったカミーラは忌々しげな感情を微笑の下に隠し、「失礼した」と謝罪の言葉を述べて引き下がった。
重圧から解放されたウェンリが、息を荒げてその場に崩れ落ちる。
「我が方の臣下の態度が気に障ったようで、失礼いたしました」
「あー、いいのいいの、気にしないで女王様。っていうか、今のはカミィの八つ当たりみたいなもんだし? まったくカミィってば大人げないんだから」
「……ヌシに言われてはオシマイじゃの」
よりにもよってロビンに言われたという事実に、カミーラは深く自省した。
どういう意味さー、と怒ってみせるロビンにヒラヒラと手を振ってあしらい、彼女は長い溜息を吐く。
「あ、それとボクのことなら心配いらないよウェンリ! なんたってボクってば第七軍団の軍団長様で超スゴイから。大船に乗ったつもりでいるといいよ!」
シュッシュッシュッ、とシャドーボクシングの真似事を始めるロビン。
ウェンリは自分でさえ容易に受け止められそうなパンチを目にして不安を倍増させたが、この場で反論を口にすれば今度こそ殺されることだろう。
若き女王であるレイファを支える人材が欠けている現状、そして憎まれ役の適任者が他に居ない以上、まだ自分が死ぬわけにはいかない。
そうと自覚するウェンリは湧き上がる不安を呑み込みながら、荒れた呼吸を整えてどうにか立ち上がるのだった。
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それから数日後。ノーブルウッドに派遣されたラテストウッドの使者は、迎撃という名の歓待を受けて即座に踵を返すこととなる。
第六軍団の護衛により、相手に気取られることなく離脱を果たした使者は傷一つ負うことはなかったものの、本国で帰りを待っていた女王に「話し合いの余地なし」という報告を告げる他なかった。
それが、両国の避け得ぬ戦いが決定づけられた瞬間だった。
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――そして、とある日の夜。蟲すらも静まり返った深夜の刻限。
人知れずラテストウッドの首都に訪れた彼は、首都の片隅に建てられた直方体の建物の前に姿を現した。
待ち構えていた数人の人影は、彼の姿を認めるなり深く頭を垂れ、直方体の箱の中へと青年を迎え入れる。
そうして静まり返った巨大な箱の中、コツコツと歩みを刻む足音だけが響く。
先を行く青年に付き従うのは一匹の狼だ。
彼女は黙したまま、青年の後に続いて箱の中枢部へと歩みを進め、やがて立ち止まった主人の背中に視線を向ける。
「……お前の言いたいことは分かる」
その耳や尻尾を見ずともな、と彼は心中で呟いた。
別段心の機微に聡いわけではない。
どちらかと言えば鈍く、疎い方だろう。
しかしそんな彼でも、自身の状態やこれまでの経緯、そして何より彼女の性格から、これから行おうとしている行為が快く思われないことは容易に推し量れた。
「だが、これは予め決まっていたことだ。この私が、同盟国の代表者と自ら取り交わした約定の上にある行為だ。それを覆すことなど許されぬ。断じて許されぬ」
言って、青年は箱の中心部に鎮座するソレ――黄昏竜に匹敵するほど巨大な『鎧』を前に唇を引き結ぶ。
そしてその鎧に向け、否、正確にはその鎧に包まれた彼に対し、力持つ言の葉を紡いだ。
「――